近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

何かをやるということを決める勇気を考えみる

経営にしても事業にしてもそうだが、何か重要なことをやめるには決断が必要である。

 

私も日々、経営で葛藤している中で経営判断としての撤退の決断は、なかなかハードルが高いと思っている。

 

あと少し頑張れば、あと少し時間があれば、打開策が見いだせると思うし、道は開けると考えるのが経営者でもあるからだ。

 

株式投資などの世界には損切という言葉がある。

私は株にはあまり詳しくはないが、多少かじったことがある程度の経験を頼りに書く。

自分が購入した株が上がりだしたら、毎日株価が気になる。嬉しいし儲けが幾らになるか気になり、頻繁に株価をチェックするのが普通だろう。もちろん、プロはそんなことはしないと聞くが。

 

自分にとって得になることが起っている時は、まだまだいけると思ってみたり、いやそろそろ好調時は終わりかと思ってみたり、気持ちは揺れる。

 

まだはもうなり、もうはまだなり。という格言も生まれるぐらいで、株の売り時も難しい。私は学生時代にパチンコに明け暮れて、こういう感覚は身に付けたつもりだ。

 

一方、株価が下がりだすと、これは大変ナーバスな問題になる。単純に考えても、金銭的に損をするわけだから、下がり出した時の売り時は、上昇局面よりはるかに難しい。損切というのは、損失を確定させてしまう事である。

 

これをしない心理と言うのは、そろそろも、反転して元に戻るのでは。もうそろそろ、底になってこれ以上は下がらない。また、じっくり上昇するのをまとう。こんな心理だと思う。

私も少しは経験がある。この心理と事業の撤退の心理はとても似ている。テーマや責任度合いは違っても、生身の人間がすることの本質には大差ない。

 

その結果がどうなるかは明白だ。

損切という言葉が常識的に言われる理由でもある。どこかで切らないと、待てば待つほど、計算上は損が膨らむということである。

 

ただ一つ例外がある。それは長期保有だ。10年でも20年でも保有している体力や余裕があれば、それがベストだ。これに関しても事業と同じようなことが言える部分もある。

継続は力なりと言うが、継続はチャンスなりと私は考えている。

 

始めてしまったものをやめる。ということを考えてきたが、ではその逆は簡単なのだろうか。つまり、始めることに対する決断や勇気はどんなものかを考えてみる。

 

私のようなタイプは外部から見たら、色々とやって大変ですよね。よくそれで全体を見通せますね。こういう感じの会話を投げかけてくる方が昔から常に一定割合はいる。

 

私の返事の仕方もまちまちで、例えば、いや、大した数ではないですよ。あるいは、全部がつながっているので、色々とやっているようで一つですと答えたりする。どれも完全な正解でもないが、作り話でもない。実際そうなのである。

 

私の性分も自他ともに認めている観点で書けば、しつこい。こだわる。というのが浮かぶ。

簡単には諦めないのである。

 

これを創業から数えて、30年近く続けていると、これはこれで結構大変なのである。仮に大成功して、私のもとから事業が手離れしていけば、私の負荷は増えないのだが、長期戦になればなるほど、並行してPDCAを廻さないといけないことが増える。

 

だから最近は、始めるかどうかはかなり吟味するようになった。攻めるために慎重に考えるのである。

多分周りの方は、創業時からの私の印象があるので、私を即断即決タイプと思っている人も多い。

しかし、当の私は、何かを始める時の判断のための準備に一番時間を割いている。

これは決して、石橋をたたき過ぎて割ってしまうという意味ではない。

 

以上

 

最近の日本人は奥ゆかしさが無くなってきた

何でも言えばよいという問題ではない。

何でも書けばよいという問題でもない。

 

日本人は、面と向かって相手に対して批判や文句を言える人は少ない。

特に、日本人は本音と建て前を阿吽の呼吸で使い分けてきた国民なので、直接、はっきりと言える人は少ない。

 

人間には誰しも本音がある。

その本音を全部、オープンにしていたら人間関係は成り立たない。

時には我慢していることもある。特定の人だけ、しかも絶対に信頼できる人だけに打ち明ける秘密もあれば、時として悪口もある。

それが人間らしさだと思う。

人間、心の中で何を考えるか、思うかは自由だ。

とはいえ、根本は良心の問題だと思う。

 

この夏の東京オリンピックでは、にわかに信じがたいことが、ネット上で発生した。純粋に頑張っている努力している選手を、ネットで誹謗中傷する事件が多発した。

 

今は、発信者を特定できるという点では、昔とは大きく変わった。行き過ぎは法律が守る時代になりつつある。こういうことがきっかけで、ネットの正しい使い方やネットリテラシーが向上して欲しいと切に願う。

 

最近のネットの誹謗中傷が頻発する原因として、普段の社会で抑圧されているからという意見の人もいる。私は、率直に反対の意見だ。

私の子供の頃は、理不尽なことは多かった。正論でもなく、良い悪いでもなく、親のいう事は絶対であったり、学校も厳しかった。そして、世間の目があった。

 

こういうことが無くなってきた現代において、一般的には躾や道徳が身についていないと私は思う。我慢もできない人が増えた。もちろん、人間だから悪口を言うのは本質的な性だ。

悪口を言わない人徳者もいるが、それは少数だ。

はけ口が無くなったから、ネットで発散では短絡的すぎる。リスクも多い。

 

ネットは、面と向かって言う必要がなく、書くだけなので、とても心理的ハードルが低い。

この傾向は、ある意味、弱い者いじめを助長する土壌があるとも言える。

 

もう一度、繰り返すが、

何でも言うよりも何でも書く方が楽だ。

当然、絶対的匿名であれば、書く人ももっと増えるだろう。

逆に、匿名では絶対書かない人もいる。わたしもこの部類だ。仕事柄でもあるが、私は自分の考えは、実名でしかださない。

今のネットやSNSは絶対的な匿名ではなくなった。原則、問題があれば、技術的に発信者は特定される時代だ。

それを知らずに誹謗中傷する人もいるだろう。

そういう意味では、早く、ネットの使い方やマナー、仕組みを教える必要がある。

 

世の中には、ネットであろうが、直接であろうが言いたいことを言う、実名でも書きたいことを書く人もいる。それは、IT全盛時代とは関係がない。

 また、誹謗中傷は有名税だという意見もある。

しかし、基本的には、便所の落書き便所の落書きであるべきで、拡散されるような状態にあってはならない。

 

今回の東京オリンピックの事件で改めて思うのは、ネットで好き買ってなことを書く人は、相手を選んでいないということなのか。対象は誰でも良いのか?節操のない時代になったものだ。

 

奥ゆかしかった日本人はどうなったのか?

健全な社会のためのIT利用であって欲しい。

 

以上

時計をせずに暮らしてきた30年で想うこと

私は、かれこれ30年近く腕時計をしていない。

どうも体に何か身に付けることは性に合わず、眼鏡以外のものはしていない。

 

腕時計をしていなくて不便はないのか?

と思われるが、実に今は便利な世の中になっていて、よっぽどの田舎でない限りは、街のどこかに時計はある。駅前であれば言うまでもないし、どこかに時計がある。時計を持たないから、余計に時計がどこにあるかには敏感になったりする。

 

実際は、時計を持たないと言っても、今は、スマホや携帯を持っているので、正確に言えば、腕時計をしていないだけである。

 

改めて考えると、今も腕時計をしている人は、おしゃれのためにしているのだろうかと思う。

そう考えると、私の場合は、そういうことにあまり興味がないので、今更、私は腕時計をする理由は全くないし、このまま一生腕時計はしないと思う。

 

とはいえ、スマホがなかった時代は、時計がなくて困ることは、結構あった。

例えば、お客様とのMTGをしていて、予定通り終わらせるには苦労する。

通常は1時間ぐらいのMTGが相場だ。

腕時計無くして、1時間ぐらいでMTGを上手に終了するのは意外と難しい。

MTGルームに置時計や掛け時計があると、ほっとしていたものだ。

 

そんな訳で、何も時計がない場合は、せこい話で、最初の頃は相手の腕時計をチラチラ見ながら、時間を計っていたこともある。

ところが、慣れとは不思議なもので、おおよそ30分や1時間の長さは感覚で分かるようになる。

 

セミナーするときは、流石に時間通り終わらないと問題になる場合が多いので、置時計を見ながらしゃべることにはしているが、話慣れてくると10分、30分、1時間ぐらいの長さ感覚は身につく。

 

大学生の時は、腕時計をしていたかどうかは正確に覚えていないが、社会人の最初の頃までは腕時計をしていた。なんとなく社会人の必需品のように感じていたからだと思う。

 

社会人数年目に、なんとなく、腕時計をするのをやめてみた。とても開放感があった。

 

この30年の変化で考えると、昔は何に付けても世の中は、いまほど時間に追われていなかったと思う。

忙しい人は忙しかっただろうが、そもそも、オフィスの外に一旦出ると、携帯がなかった時代は、おおらかな時間の使い方だったように思う。

 

ポケベルが登場したのが、私が20代の時だったと思うが、とても便利に感じたものだ。

こんな時代から、私は腕時計をやめていたのだが、今気づいてみたら、せっかく磨いてきたつもりの時間感覚が今は完全になくなってきている。

 

すでに書いたが、今は、私たちは、時間を知る手段があまりにも多い。

どうしても無意識に時間に追われる。

時間を忘れることは今の都会ではなかなかできない。

だからこそ、コロナ禍で一気に盛り上がっているワーケーションをする時ぐらいは、時計のない場所にしておきたいと私はつくづく思う。

 

以上

今の日本の課題は仕事で創造性を如何に発揮するか?

創造性とは何かを説明して欲しい。

仮に、これから社会人になる学生に聞かれたら、自分は何と答えるだろうか?

最近そんなことをふとした時に、思った。

 

今、日本の働く世界では、創造力を高めよう、創造性のある仕事をしよう、会社全体の創造力を向上して、強くして、企業革新につなげよう。

こんな課題というか話題というか、なにかと創造性についての議論が目立つようになってきた。

 

関連省庁が出す、これからの人材育成や教育に関する改革案でも頻繁に登場する。

また、起業家の資質としては、私が起業した30年以上前から、創造性は必須の要素だった。

創造性を横文字にすると、クリエイティブがもっとも近いと思うし、実際私も、日常で使うことも多い。

 

さて、冒頭の質問に対して、準備無しで返答するとすれば・・・。

その都度、言い方は変わるとは思うが。

“常識やすでにあるものに囚われることなく、自由に柔軟に、世の中に役立ちそうなアイデアやしくみを考えること”

こんな風に答えるかもしれない。

(実際に、このブログを書きながら、思いついたことではある)

 

ここから先は、創造性がなぜ必要なのか?ということを考えてみたいと思う。

どうも日本というのは、日本以外の先進国と比べたがる。

国の政策などに登場する創造性を高めようとする支援策などは、海外の先進事例と比べて、日本は創造性に劣るという評価が前提のようだ。

 

まさか、GAFAMなどと比べて、日本の企業が、創造性に劣ると考えているとしたら、とんでもない勘違いだろう。

GAFAMに創造性がないとは言わないが、これらは全て、ITという最先端の科学技術を駆使したプラットフォーマーだ。こういうところの創造性の議論では、本質を間違えているとしか言いようがない。

 

話は変わるが、戦後の経済成長を支えたもっとも重要な存在は、中小企業だったと考える。この時代は起業家という呼び方もしなかっただろう。では、この時代に創業した人たちに、創造性が高い人が多かったのか?

 

答えは、明白だ。

しかし、これは変な話で、日本が仮に戦後の高度経済成長の過程で大躍進を遂げたというのは、創造性だけが原動力ではない。

創造性で表現するようなスマートさではなく心底必死だったのだ。ハングリー精神や挑戦心のかたまりだったと思う。そういう経営環境があったということだ。

 

このことは、何度もブログにも書いてきたが、新興国を見ればわかる。産業が未成熟で、生活も先進国に比べて、貧困で不衛生である。ここには、昔の日本のように創業を志す人は沢山いる。そういう人たちが、世の中を変えていく。結果的に、創造性を発揮したということになる。

 

私の結論ではないが、創造性というのは学ぶものではない。チャレンジして幾多の障害を乗り越える体験することである。もっと言えば、自分の人生をかけた本気の体験が源になる。

 

だから、今の日本の環境で、学びとしての創造性の会得は、所詮、日本の今でしか通用しない。世界で伍すことはとても困難だとおもう。

 

では、出来上がった成熟した日本でどういう創造性を体験する場があるか?

それは、世界の中でも有数の自然環境を生かすことだと思う。日本の役割としても、日本人は、自然環境とともに生活体験、社会貢献、仕事体験をすることで、日本独自の創造性が発揮できるのではと思っている。

感覚的には正しいと思っているが、これから自ら実証して確かめていこうと考えている。

 

以上

田舎に住める人と住めない人

今、田舎が人気だ。

コロナ禍の影響で自然回帰を人間が求めている。とても自然の流れだと思う。

 

コロナ禍以前でも、自然とのかかわりを増やす傾向が現れていた。

科学技術の発達で、特に都市部の発展は著しい。そして、ITが社会生活に加速度的に浸透する中で、特に都会に住む人は、便利過ぎる社会での生活に疲れ、デジタルに疲れている。

 

私はもともと田舎生まれだから田舎は大好きだ。

日本の地方のどこに行っても、私が生まれ育った田舎の風景を感じるし、どこの場所にも独特のその地方特有の雰囲気や情景がある。そして、そこには多様な生活者の暮らしがある。

 

これは、日本だけとも限らない。

東南アジアやアフリカの田舎においても似たような雰囲気を感じる。

もともと、人類は、アフリカの自然の中で誕生した。本能的には、自然と調和するようにできている。

仮に大都会で生まれ育ったとしても、年齢を重ねるごとに、自然を求める。山や川や湖や海が感じられる場所に住まいを移したり、別荘を持ったりする人が多い。

 

 

 

 

今流行りのワーケーションも、都会と田舎でのダブルワークができるのも理想的なことの一つだろう。

 ところが、都会の人には田舎暮らしは結構ハードルが高かったりすることもある。

田舎には田舎の独特のコミュニティがあり、その地域の住民の人と仲良くなることは、結構骨が折れる人もいる。

 

田舎には田舎の考え方や生活の仕方がある。

そういう意味では、郷に入っては郷に従う気持ちは大切だろう。

気軽に田舎に行って、好き勝手な生活スタイルや振る舞いは慎みたいところだ。

やはり、IT社会が世界隅々まで浸透していると言っても、田舎は超アナログの世界だ。

 

このアナログをベースにITなどの便利なツールをどう上手に使って、田舎暮らしをするかということも試行錯誤が必要だろう。

 

田舎暮らしには実は、生活環境と言う意味で、なかなかな越えられないハードルもある。

それは、虫たちである。田舎は虫が沢山いる。特に畑や田んぼと隣接していると、見たこともないような虫が家にも同居することも多い。

 

私も田舎から都会に出てきたので分かるが、

都会の家は基本的に、虫がいない。

田舎は、当たり前のようにあちこちに虫がいる。

これと重なって衛生面も似たようなものだ。

水洗トイレにしても、日本の田舎はまだ、汲み取り式もある。

 

思うに、今まで都会でしか生活してこなかった人にとっては、田舎暮らしをすることによって、様々な免疫ができるように思う。

 

それは、新興国のあちこちにあることであり、そういう体験をしていけば、新興国で活躍できる日本人も増えるのではないかと思う。

 

以上

 

今すぐするかしないかの選択は直観である

仕事に限らないが、プライベートでもすることの優先順位をつけるのは難しい。

 

私も、日常で次の行動の選択肢は常に沢山ある。

しかも、することが細分化されていく。

 

これを仕事チックに、マメジメントしようと思えば、ToDo管理ということになる。

 

ただ、私の場合は、ToDo管理は絶対に必須のものではあるが、今の私にはそれはセーフティネットでもある。

つまり、最終的には絶対に全ての事は処理するのであるが、あれこれする事が入り乱れるので、ToDo管理もしくは、それに匹敵する何かの歯止めを持たないと、漏れが生じてしまう。

記憶ぐらい曖昧なものは無いから、記録したうえで、確実につぶしていく。

 

そんな訳で、新入社員には、まずは、徹底的にToDoのセルフマネジメント力を鍛えてもらう。

それが根底に身に付きさえすれば、何歳になっても習慣化されたことをベースにして活動が出来る。そして、いつ何時でも応用が利くようになる。

 

経営者としての私のような仕事は特に直感が求められる。その中でも、どういう直観かと言えば、その場で即決するという直感だ。

 

人間と言うのは、シンプルに考えると単純で、やはり、ノリは大切だと思う。

ノリでことを進めると、冷静さを欠いたり、思わぬ落とし穴に気づかなかったり、あるいは、まんまと騙されたりというリスクは確かにある。

 

ただ、それは、前提を考えないといけない。

未知の世界で、自分に確固たる信念も実績も無ければ、付き合う相手も絞り込むことはできない。

 

私は良く、“何をするかよりも誰とするか”という表現をする。価値観が合う、目的意識が一致している、何よりも馬が合う。こういう人とのつながりができていれば、ある意味、ノリで即断しても概ね安全圏の中にいる。

これは決して同質的で保守的という訳ではない。

むしろ、彼らは超アグレッシブでピンチはチャンスなりと当たり前に考えている人達だ。

 

こういう人たちと、仕事の話をしていると、お互いのひらめきや情報交換が思わぬチャンスのネタを生み出すことがある。

 

そんな時は、私は即決する。

まずは、その相手の方と何かをすることを。

 

こんな行動をする私に驚いたり戸惑ったりする人は結構多い。本当にノリや勢いだけで何か決めているように思うのだろう。あるいは、適当に見えるのかもしれない。

 

私は創業時、アニメの宇宙戦艦ヤマトを引き合いに出し、波動砲の話をよくしたものだ。

若い人には、古いアニメなので分からないと思うが、戦艦大和になぞらえた宇宙戦艦ヤマトが絶滅しかけている地球を救うために、イスカンダルという新たなる惑星に向かうのだ。

 

戦艦ヤマトは攻撃を受けて、ボロボロになりながら、最後には、波動砲を発射することにより、起死回生の勝利を収める。

私は、こういう感覚が大切だと思う。

もっとも、今の大企業では受け入れられないと思うが。

 

だから、結果的には、私は大企業の社員は務まらないし、大企業の経営者もできないと思う。

私は、ピンチはチャンスであるというのは、当たり前に思っているし、そのチャンスは人との出会いに始まると思っている。

だから、一目会ったその時に、即決する。また、何度もあっている人でも、今日のこの日。という瞬間は必ず訪れる。

 

チャンスの神様の前髪を掴む話はあまりにも有名だが、私にとってのチャンスの神様の前髪は、自分の決断次第だと常に思っている。

なぜならば、会う人会う人がチャンスの神様なのだから。

 

以上

 

営業力よりつながり力の時代へ

会社経営をしていると、営業は企業の根幹をなす絶対に必要な機能という実感がある。

 

しかしながら、世の中全てが営業活動をしている会社ばかりではない。

商品を製造し、販売は商社や販売会社任せの会社も沢山ある。特に日本には製造業や専門業などに特化した営業力を持たない会社も沢山存在する。

 

ただ、近年の流れはネットやSNSの普及で、そういう企業も何らかの情報発信をしたり自社の強みや商品を苦もなく紹介したりという流れは増えてきた。

 

基本的に営業というのは、BtoBかBtoCに分けられる。

toCは住宅販売や化粧品販売、車の販売など生活者に営業することである。

BtBは主には企業ではあるが、教育機関や大学なども含めて組織活動しているところが対象になる。

 

どちらにおいても自社の営業パーソンが中心になって、顧客開拓し、信用を勝ち取り、受注につなげる。そして、今の時代は当たり前のことであるが、販売やサービスが完結した後のアフターフォローについても、営業の重要な役割を果たす。

 

そういう意味では、一時の取り引きにしても生涯顧客化にしても、一義には商品やサービスを売ることが営業の目的となる。

 

どんな業種の企業もそうだが、特定のマーケットに狙いを定めて、潜在顧客層に対して、様々なアプローチをする。そして、見込み客化する。このあたりから、営業は顧客候補の信用を積み上げながら、ひたすら受注を目指す。

 

当然、所属する会社では、個人、部署、会社全体の営業受注の予算があって、営業部隊は、その達成のために活動するのが一般的な企業の営業スタイルである。

 

最近では、SFAソフトやCRMソフトは当たり前として、科学的な営業や分析的な営業が主流になって来た。

こういう流れの中、いずれは営業をAIが担うという予測をしている私としては、効率化や無駄の排除と言う観点から、特に、BtoBでIT化は飛躍的に進みそうに思う。

 

そうなった時に、営業は何をするのか?

あるいは、営業専属でなくても顧客接点を持つ部署の人たちは何をすればよいのか?

という課題が浮かび上がってくる。

 

私は、今後の顧客との関係性のあり方は、“つながり”というキーワードに集約されていくのではないかと思っている。

企業レベルでみれば、アライアンスという話になって、今は、イノベーションの源泉はつながりであると言っても過言ではない。

 

それと同等以上に、企業の営業活動のためだけではなく、働く個人個人のQOLの充実が望まれる時代。多い少ないではなく、人間の関係性が人生の質に影響する時代が近づきつつある。

 

すでに私たちは、使うかどうかは自分たちの選択次第だが、いままでになかった“つながり”を体験できる、実現できるSNSというプラットフォームの中でも生きている。

 

SNSはまだ、つながり構築の第一歩に過ぎないが、これはちょうど、日本にもSFAの必要性が叫ばれだした25年ぐらい前の様子に似ていると思う。

 

私も営業戦略ブレインというSFAソフトを開発販売した経験があるが、あらためてつながり戦略ブレインでも構想しようかなと考えている今日この頃である。

 

以上