近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

よそ者が必要な理由が分かったような気がする

昨年、年の瀬の慌ただしい中、頑張って四国の真ん中辺を訪れた。

徳島県を東西に流れる吉野川の上流付近と言ったほうが分かり易いかもしれない。

にし阿波と称する、吉野川の両側に山が連なり、なかなかの風光明媚なところだ。

徳島県出身の私にとっても、とても新鮮な光景だった。

 

訪問の目的は、今年から活動を開始するブレスタ候補地の視察と現地の体感だ。具体的には地方活性化で貢献できるネタを見つけることや農地の適地を知ることだった。

案内していただいたのは、NPO法人吉野川に生きる会の島勝伸一さん。70半ばでも、本当に活動的で、新規事業に対する意欲の強さにはいつも感心する。

 

島勝さんのご縁でビジネスパートナーの方が運営する農地付き住宅を借りることになった。ブレスタにし阿波と称して、3月から様々なトライをしていこうと考えている。

 

私は、徳島出身で、良いも悪いも徳島のことは知っているつもりだった。

肥沃な吉野川流域は、昔から農業が盛んで、西日本の台所と呼ばれていた時代もある。

私の生家は、吉野川下流付近にあり今も実家は農家を営んでいる。

 

吉野川はその本流の大部分が下流まで東西に80キロ近くまっすぐに走っている日本でも珍しい川である。

私は18歳まで徳島にいたが子供の頃の行動範囲は知れている。だから、私は最近までにし阿波のあたりに行ったことがなかった。

 

簡単に言うと、同じ徳島の出身の私にとっては、にし阿波辺りは全くの未知の世界だったのである。近年の市町村合併で、このにし阿波周辺も大きく変わったようだ。

私達が運営を始めるブレスタにし阿波三好市にある。私の世代なら記憶にも鮮明だと思われる池田高校がある街でもある。池田高校はやまびこ打線と言われれ、豪快な野球をする常勝チームだった。

徳島や四国は良く知らなくても、池田は知っていると言う人は、私の世代から上に多いと思う。池田高校が強かったのは、私が20歳前後の時だった。徳島の私にしてもこのにし阿波あたりは、池田ぐらいしかしか知らなかった。

 

人の縁とはいつも不思議なものと感じてはいるが、このにし阿波のつながりが出来たのもあっという間だった。

いつものことではあるが、こういう活動をしている中での物事が成就するときは、次々と必然の人つながりが見えてくる。新しく生まれると言うよりも、すでにつながっていたものが見えてくる感じだ。

 

実は1年ほど前に、コロナ禍の中で、徳島のお酒販売のプロモーションをオンラインで企画運営をする仕事をお手伝いした。徳島県から依頼の仕事だ。

10年近く前、ベトナムホーチミン物産館プロジェクトを行なった。物産館は、経済産業省から委託を受けたクールジャパンプロジェクトである。メインのテーマは徳島県を売り込むことだった。この仕事をきっかけに徳島以外でも北海道、新潟、青森など親しくなった自治体と多くある。

その時からのご縁で様々徳島とベトナムをつないできた。

徳島には、観光資源がない自治体として、そういう類のランキングでは常に最下位を争うような位置にいる。これは徳島県人としては悲しい気持ちにもなるしあきらめの境地と言える。

 

自分たちの暮らしている場所の良さは、自分では気づきにくい。日本中、どこの地方に行っても同じ会話が溢れている。

考えてみたら、人間は自分のことはよく分かっていない。これは人間としての性である。ジョハリの窓でもそうだが、自分の知らない他人の知っている自分にも近い。

 

人間は、常に置かれている環境に慣れてしまうと、その価値や良さを気にしなくなる。まして、よそ者から見た、その場所や環境の価値など頭からすっかり抜けてしまう。

 

だからこそ、地方の活性化や価値の再発見、新たなネタの発掘や観光資源としての活用などについては、よそ者の力は必要になってくる。

一般的には、よそ者、若者、バカ者が大事だと言う。確かにその通りだと私も思っているが、徳島県人と言う意味では、よそ者でない私。

しかし、にし阿波に対しては、全くのよそ者。こんな私がお役に立てることは沢山ありそうで、ワクワクしている日々である。

 

様々なよそ者企画を実行し、にし阿波の発展に貢献したいと思う。

 

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以上

 

この年末年始のコミュケーションは大変だった訳

それは年々感じていたことだった。

年末年始の挨拶は、昔はとてもシンプルで風情があった。

ところが、電子メールが登場して趣が変わった。

私もご多分に漏れず、それまでは年賀状だった。

プライベートでは、学生時代の友人中心に毎年恒例の年賀交換。

仕事では、創業した約30年前から、徐々に会社としての年賀状が増えていった。1年目などは、いまやほとんど記憶にないが、100通あったかないかではないだろうか。顧客開拓が何よりも優先で動いていた時期で、年賀が送れる事の喜びが勝っていた。

 

顧客が法人中心だったこともあって、年々年賀の数が増えてくる。1万枚が見えてきたころに、申し訳ないと思いながら、年賀状の送付先を絞り込むようになった。

正直、流石に顔も覚えていないような方に、年賀状だけの挨拶もなんとなくやめようと思った。もちろん、会社の顧客データにはあるので、会社の財産としては常に維持はしてきたが、やはり、年賀状の挨拶が今よりも価値があった時代は、特別なもの感でいようと思った。

 

だから、世の中に電子メールでの年末年始の挨拶が増えてきた中でも、私も並行して年賀状は使っていた。そして、数年前から会社としての年賀状はやめた。そして、自社の情報マガジンか何かのレターを送ることに切り替えた。

 

今年は、ブレインワークスナビを送付させていただいた。数も限定した。なぜなら、電子メディアとしても見られるからだ。こちらは、電子メールでも12月中にお送りした。

 

ブレインワークスナビ新春号

 

 

 

この数年の特に大きな変化は、SNSでの年末年始の挨拶が格段に増えてきたことだ。

個別のメッセンジャーやLINEは言うまでもなく、投稿と言う形での年末年始の挨拶に遭遇することもかなりの数だ。

 

こういうのは見なければよいのだが、普通にSNSを日常の延長で見ていると、確かに今日は大晦日だよな。そして、翌日は元旦だよな。という風に、他人ごとのように人の活動が目に入るようになってきた。

 

一言で言えば、たった20年で、年末年始の風情や独特の数日間の感覚は今や消えてしまった。 もちろん、この期間メールも見ず、SNSも開かず。こういう風に断スマ、断パソコンすればよいだけなのだが、ことはそうはいかない。

 

会社で言えば、昔なら、年始の業務が始まって落ち着いて会社に出で、届いた年賀状に目を通す。そして、もし送っていない方から年賀状が届いたら、年賀状を新たに送る。こんなおつきあい感があった。

ところが、今はSNS全盛時代。どうしても、インスタント性に支配され、早く返信しないと焦燥感にかられる。

これは年々エスカレートしていく。

 

シンプルに言えば、相手の返信を期待するのを皆が止めて、SNS的年末年始の挨拶は、近況報告の一方通行になった方がとても楽だと思うのは、私だけだろうか?

 

こんなことを書きながらも、昔の習慣から脱却できない私は、1月5日までに、いただいた年賀状の確認を除いて、SNS、メールなどの一つずつに返事を終えることが出来た。

さて、来年はどうするものかと考え中だが、最初から返信はしません。と、SNSなどに投稿するのもありかと思う。

まだまだ、IT環境の劇的な変化に、人間が適応できていないことの典型だと思うし、そもそも、疲れていると思う。

やっぱり年賀状はとても良い作法だったように思う。

まあ、1年じっくり、考えてみることにしたい。

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以上

 

“農業”は実に奥が深いし皆が学ぶべきこと

最近、“農業”にハマっている。

私が関わっている自然産業研究所で農園を始めたこと、アグリスマスターズという農業そのものを一般市民にも身近なものにする活動を中心とした新会社も昨年末に創った。

 

そして、農業に関係する知見を得るために、農業関係者との交流や意見交換もいつにもまして頻度が上がっている。特に有機農業の経営者や匠の方とお話すると、農業の奥深さに気づかされる。また、農業関連する書籍も10数冊入手した。

そして、農業検定なるものも見つけたので、さっそく、12月に受験した。

 

こんな感じで、私の日常は、農業が中心と言うかビジネス活動の基盤になった。

私は、何度もこのブログでも書いてきたが、農家生まれ農家育ちである。18歳までは、専業農家の次男として過ごした。両親の農業を見ない日はなかった。

私の人生の原体験であることを農業に関われば関わるほどに再認識している日々だ。

 

一方で、私の場合、自分の体験からくる関心と興味の範囲でしか農業を分かっていなかったことにも気づいた。特に最近、私がとても触発された本が2冊ある。

今回は、その話をしたいと思う。

2冊の本のタイトルは、

“農は万年、亀の如し”、“農家が消える”

である。

タイトルからして興味をそそる。

 

実際、読了して、想像以上に本の内容が充実しているのは言うまでもないとして、私自身の農業に対する考え方や価値観が大きく進化したと思う。

2つの本の共通事項を先に書くとすれば、やはり、人間は農業とのかかわりなくしては生きていけない。

当たり前と言えば当たり前なのだが、都市化の進展、工業化へのシフト、少子高齢化などが複雑に相まって、農業と接する市民が日々減少している。日本人が農業を知らない。農業を忘れている。こんな危機感を再認識した。

 

日本だけではないが、これだけの自然資源に恵まれた国の日本人が、その存在を意識せずに暮らしている。これは今の社会生活や文明が砂上の楼閣と言っても過言でないのではなかろうか?

 

また、食糧安全保障の観点から考えても、日本人は無頓着すぎると言うか平和ボケしている。知る人ぞ知る、先進国の中で唯一ダントツに食料自給率が低い。

食と言うのは、人間の営みの中では快の部分はあるとしても、その食の材料となる農業を知らずして、どうやって健全な人生が送れるのだろうか?

 

“農は万年、亀の如し”の視点は新鮮だ。農は貴しという新渡戸稲造の言葉に代表されるように、日本人はもっともっと農業の奥深さを知り、農を大切に考えないといけない。単なる食料としてでなく、文化でもあり伝統でもあり、日本と言う国の根源である。

 

“農家が消える”こちらのタイトルは衝撃だ。

日本は人口が減っていく。職人も消える。エッションシャルワークを維持するのが困難な国になっている。農家の高齢化は特に深刻だ。外国人労働者で埋め合わせしてきても、間に合わない。新規就農者も増えてはいるが、全体に対する影響は微々たるものだ。

 

農業が衰退するという事は、地方や田舎の生活基盤、里山機能、環境保全としての自然の崩壊など、様々な問題を誘発する。当然、すでに発生している多くの問題は現在進行形である。

 

この本では、自然資源の最たるのが農業であると定義している。さらに、中山間部では林業と相まって、自然資源の無駄遣い、放棄などが大きな問題となっていると論じている。

専門的な用語も満載でなかなか読み応えがある。

 

もし機会があれば、こういう本をまとめて、現代版の農学として学びの機会を拡げたい。 

 

先にアグリマスターズのことを少し紹介したが、農業の大切さや実際を学び、一人でも多くの人が、農業を知る。それも単なる食料の供給源としての農業ではないことを知る。私達人間の根源でもあることを知る。そういう学びの場創りにも貢献しようと考えている。

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以上

 

自分への先行投資は大切だけどなかなか難しい

私の周りには、お元気なシニアが沢山いらっしゃる。

総じて、皆さん好奇心旺盛だ。

もちろん、お元気な理由は医科学的にもすでに確立されていて他にも幾つかある。

 

まずは好奇心旺盛とは、どういうことかを考えてみたい。

私もそういうタイプなので、私見から書くと色々と興味が湧いて、知りたい、やってみたと思う気持ちである。

事業家であるので私は今でも、誰もがやったことがない新しいビジネスを創りたい。こんな気持ちで毎日過ごしている。

飽きることはもちろんない。

 

仕事とは直接関係なくてもアートや音楽や田舎の探索など、やりたいことは沢山ある。そういう意味では、時間が有限の中では、常に創意工夫と葛藤である。

 

シニアの方の話に戻すと、私の解釈は、好奇心からくる活動と言うのは、自分の人生の先行投資とも言える。要するに、次の何かをするために、今準備しておく、今学んでおく。

こんな感じの方が多い。

 

読者の皆さんで、もしシニアの方と接点が少ないと、こういう感覚は分からないかもしれない。私は、頭で分かっているだけではなく、実際にシニアの方とお付き合いしていると、お幾つまで現役なんだろうと考えることはある。

結局、その答えは、生涯現役ということだと最近は確信している。

 

今、世の中でもシニアに限らず生涯現役を指向する人が増えてきた。

これは私はとても良い流れだと思う。

国も行政も民間企業もこういう活動というか、健康で活き活き生きることを後押ししている。

ところが、特に働き盛りの世代は目先思考になっている。平均的に言うと子供が2人、家族数人を養う立場にあり、会社では要職について責任をそれなりに果たして、仕事に追われる日々といった感じだろうか。

 

しかし、こう書くこと自体がすでに的外れかもしれない。コロナ禍以前の働き方は劇的に変わりつつある。これからの社会の変化に期待したいものだ。

 

では次に人生において、先行投資の大切さをどう考えるかについて書いてみたい。

私も、20代はのんきに過ごしていた事もあり、30代、40代で若い頃の反省と言えば、もっと、社会のことや世の中の事、海外の事を体験し学んでおきたかったと今でも思う。

 

でもその時はその時で、目の前のことで満足していた。

結局、人間と言うのは、7つの習慣の時間管理のマトリックスにあるように、大事なんだけど緊急でないことには、なかなか、時間を使わないし、さけない。

 

会社で考えてもこういう人間の本質がそのまま会社組織としての課題になる。

例えば、分かり易く言えば、業務改善や社員教育は結構後回しになる。もちろん、大企業やエクセレントカンパニィーは、こういうところをクリアしている会社もあるが、世の中の大半は、目の前の仕事に日々忙殺されて、先の事は常に疎かになり、先送りを繰り返す。

 

これは、個人の健康管理でも同じことである。生活習慣病などは最たるものだ。

人生も会社も備えあれば憂え無しなのだが、そういう意味での先行投資はなかなかできない。

だから、どうするか?

個人的にいつの時代もどんな環境でも自分の軸をぶらさずに、自分の将来に対しての先行投資できる人はいる。どんな分野にも必ずいる。

 

しかし、大半の人は出来ない。だから人間の強みの一つである仕組み化することである。これは、社会の仕組み化である。人生100年時代の先行投資の一つとして、概ね40代になってから、一定期間、仕事を止めて学びの機会を作る。

 

今の社会の仕組みではなかなかできない。すでにこういう意見を持つ方も何人か知っているが、私もぜひ、一緒になって実現したいと思う。

その一つが、何歳からでも学べる社会の事を学ぶ“創める学校”構想である。

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以上

 

私の考えるワーケーションの進化

昨年末の1か月ほど、久しぶりに直接の面会を増やした。世間の状況に合わせて、自分なりに試してみたかったことがある。

一つは、面会時間の短縮だ。

すでにブログにも書いているが、効率性だけを考て準備さえしっかりすれば、よっぽどの商談でない限りは30分もあれば十分だ。

実際、官公庁や自治体の上のクラスとの面会は30分である。私の感覚に近いが、基本的にはこれで事足りる。

 

逆に1時間になると、それはそれで充実している感覚にはなるが、議事録にまとめてみると、実際にはそんな実りが無かったりする。オマケの会話が多いということだ。

私は仕事柄、日常、人に会うことが多い方だが、個別面会は出来れば30以内で徹底したい。

社内だと、5分、10分という単位でも十分仕事ができる。

更にオンラインだと、コミュニケーションがシンプルになる。五感が伝わらないのは仕方がないとしても、私の周りにはオンライン向きの仕事も結構多い。

 

例えば、私も商談の時に部下を連れていくことがある。そういう場合は議事録担当としてだが、この役割ならオンライン同席で十分だ。私は海外が多かったので、10年以上前からこういうスタイルで商談を進めてきた。

 

私がベトナム人の社長と直接面会しているところに、通訳もオンライン、議事録担当の部下は、日本から必然的にオンラインである。

 

こういうスタイルでコロナ禍前まで仕事していたので、年末のこの約1か月は、もともと私がしていたスタイルに戻った訳である。

コロナ禍以前との違いは何かであるが、それは社員がオフィスにいるか在宅も含めたワーケーション中かである。

 

もう一つ、オフィスサービスというワーケーションの場所がある。日本国内だけでなく世界中にこの類のサービスはコロナ禍以前から多かった。

私もタイやベトナムで利用したことがある。登記もできるし、秘書代行サービスなども充実している。これから本格的に海外進出を考えている時の立ち上げ時などにもとても有効だ。

 

そして、こういうサービスは利用者同士の交流も売り物にしている会社も多い。

そもそも、ワーケーションはワークとバケーションを掛け合わせた言葉であるならば、ここまで説明してきたようなスタイルが本来のワーケーションではない。

 

やはり、バケーション感覚という意味では、リゾート地がぴったりだが、如何せんそれなりのリゾート地は利用料金が高い。

IT系の企業で、本社は東京で、リゾート地にオフィスがあり、そことつないでビジネス活動している会社もある。

リクエィテイブでかつタフな仕事環境であるがゆえに、ストレス発散、癒しの環境が必要という意味で、成功している事例も多い。

 

では、私が考えるこれからのワーケーションであるが、約30年前にSOHOワーカーとして起業した私としては、もっと、自由度のある働き方を提案したい。

 

社員がいる場所や環境はどこでもよい。

ただし、仕事の時間帯は原則固定だ。

例えば、8.00から17.00。夏はサマータイムが良いと思う。

 

私はフレックスというのは自己管理が難しく、働く人の10%程度しか現実的には効果がないと思っている。経営者はそういう意味では、そもそもフレックスであるが。

 

こういう環境で仕事しながら、チームやプロジェクトのメンバーが集まる場は定期的に設ける必要がある。それはオンラインで十分だが、ある一定の感覚で直接会う機会は欲しい。それは、仕事の場とは限らない。

 

レクレーションでもスポーツ大会でもバーベキュー大会や農業体験でもよい。ワーケーションの中でのバケーション部分を如何に企画して、確実に計画的に実行していく。自主性も大事だか、日本の場合は、ある程度仕組みで変化をつけた方が上手くいくと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

以上

 

農家さんからもらう野菜はどうしてこんなにありがたいのだろうか

昨年の秋、現役農家さんから、沢山の野菜を頂いた。

エリアは色々で、ご縁がある方々からである。

北海道の当麻、下関の川棚温泉丹波の笛路村、南あわじ。トマト、大根、白菜、キャベツ、ジャガイモ・・実に色々なものを頂いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当たり前の話だが、今どきは、店に行けば大抵の野菜は手に入る。

しかも、昔と違って季節感もあまりなく、いつでも好きな野菜が買える感覚がある時代だ。

 

にもかかわらず、農家さんからいただく野菜は格段ありがたい。

私も、このブログで再三書いてきたが、実家が農家なので、実家に帰れば、野菜をたくさん持って帰るのが習慣になっている。正直重たい。運ぶのも手間である。でも農家の人から直接受ける野菜の価値は断然違う。

 

美味しいのは当たり前として、そういう次元を超えたありがたみだと思っている。

それこそ、生産者お一人お一人の気持ちがこもっている。値段の問題でもない。実際、見た目だけでもらったものと同じものを買おうとしたら、値段の上がり下がりはあるが、100円で大根一本買える時期もある。

ある意味で、豊作時は農家さんは大変なのだが、生活者にはありがたい。こういう感覚で大半の人が生活しているのが今の日本だ。

一方、ご縁がある農家さんなら特にそうだが、大根1本1000円でも良いと思う。

 

最近、応援消費が流行っている。

いや、正確に言うと、まだこういう活動をしている人は日本では少ない。私の期待値として、これは日本でどんどん広げていきたい。

 

話は変わるが、コロナ禍の影響もあり、国民の貯蓄額が2000兆円超えたとある。未来に備えたい気持ちは分かるが、今の日本の課題解決にまわせないものかと常々思う。

日本の農業は、産業化オンリーで進み過ぎて、袋小路にハマっている。

何のために農業が必要なのか?農業とはそもそも今の経済メカニズムの中で、経済合理性のみを追い求めていけるものなのか?

日本の食料自給率の異常な低さに対して危機感はないのか?

今の日本に欠けているのは、こういう農業とその背景にある農に対しての一般市民の関心の薄さなのである。  

 

私は、約10年前に拙著“アジアで農業ビジネスチャンスを掴め”を上梓した頃、口癖だったことがある。

それはゲームやカラオケに余計な浪費をするのであれば野菜を高く買いましょうと発言してきた。

この拙著自体は、今になってみれば勉強不足の部分も多々あり、近い将来改訂版を出そうと思っているが、こと消費のあり方については、全く考えは変わらない。

 

人間にとって一番重要で、一番難しい産業であり仕事である農業は、全部でないにしても部分的にでも応援消費は必要なのである。

 

私が農家出身でも都会暮らしが長い。そうすると、普通にスーパーなどで幾らでも野菜が買える。正直、安いものを買おうとする。有機コーナーも増えてはきたが、まだまだ、少数だし割高感はある。

もちろん価値があるから当たり前なのであるが、そもそも一般の野菜の価値が低すぎるのである。

 

私は冒頭で書いた体験で、改めて思う。

スーパーで買うからありがたみがなくなる。

ロボットが作る回転ずしのようなものだ(私は良くいくので否定している訳ではない)。

 

たまに、職人が握る寿司の味わいは格別だ。実際に本当に味覚成分に差があるかどうかは分からない。人肌を感じるということだと思う。

 

農家さんから直接野菜を受けとる機会の創出。

自分で野菜を作ることも大切だが、精魂込めて根気よく作っていただいた野菜を農家さんから直接受け取る。

こういう仕組みを作ろうと思っている。

 

以上

 

人間にとってITとは何かを考える理由

日増しに人間がITに関わる機会が増えている。

これは、仕事の話だけではない。

また、IT業界というとても狭い話でもない。

かつて、通信や移動手段の進化が人間の生活やビジネスのあり方を劇的に変えてきたように、ITもそういう分類としてはとても強力なる存在だ。

 

技術革新と連動して表現されることが多い科学技術。ここ百年の進化は驚くばかりだ。そしてこの流れはますます加速されていく。専門家ではなくても、すでに一般市民の目線でも疑う余地のないことだ。

 

私は仕事として約40年間、ITに何らかで関わってきた。自分が創業した会社の生業の源泉でもあり基盤でもあるが、それとは別の意味合いで、IT社会の進化は気にしている。

 

"人間にとって農業とは"という本を最近読んだ。産業としての農業という狭い経済メカニズムの中の話であるが、農と言うと人間の生活や営みそのものになる。そしてその起源は、縄文時代弥生時代にさかのぼる。

つまり人間が農をいつどうやって始めたかという話だ。以来、人間は農や農業に関わってきた訳である。ほぼそれと当時に、人間は本格的に道具を使うようになった。狩猟民族時代、つまり旧石器時代から獲物を獲得するため、採ったものを砕くための道具は使っていた。

考えてみたら、人間はとても長い間、道具を使っている。

 

科学技術=道具ではないにしても、科学技術の発達を背景に、この道具が劇的な進化を遂げてきたと言える。そして今は道具の域を超えて、生活基盤や様々な生活の仕組みの構築につながっている。この道具は今風に言い換えればツールである。

 

近代のこのツールは、厄介なことに、人類を滅亡させるほどの武器にもなってしまった。このあたりに、科学技術の発展や進化の功罪が横たわっている。

 

ITもシンプルにいうと、これと似たようなものだ。私の口癖でもあるが、メリットはもちろんある一方でリスクが沢山ある。使い方を間違える、あるいは悪意をもって使えば、とてもリスクの高いツールである。

 

今、DXブームでITが更に使われていくことは間違いない。一方でリスク面から見たら、こんな分かりにくいツールは他にない。

通信と言われても電波は見えないので、ピンとこない部分はあるが、これが直接的に人類の営みに甚大なる深刻なる悪い影響を与えるようなものではない。

 

仮に自動車が空を飛ぼうが、ドローンがモノを運ぼうが、事故というリスクはあるが、ITが絡まなければ人類存続のリスクにはならない。

 

文明の利器は時代時代で常に存在する。石器時代の発見も文明の利器であっただろう。

だが、IT業界に半世紀近く関わってきて、本当にITは文明の利器と言えるのだろうか、私は常に懐疑的に仕事や活動をしてきた。

 

もちろん良いところだけ見れば、コロナ禍でもオンラインで介護施設にいる親と面会ができる。ECで頼めば、買い物難民の場所にもモノが届く。新興国の実情をその気になれば、情報統制の枠を超えて知ることもできる。

 

こんな恵まれた時代に生きているのも事実で、こういうメリットを本当の意味で人類の健全で豊かな営みに利用できれば最高である。 

一方で見えないところでリスクが高まっている。悪いことをする人は、ますます巧妙になるし、不要なものを売りつける商売が幾らでも巧みにできる。

 

また、アナログの世界で生きてきた人たちのストレスが増大する。そういう人たちにとって、デジタル社会が住みよいわけがない。そして、仮に今の若者がデジタル世代だったとしても、人間が人間である限り、いつかは人間らしい生活や活動を指向する。今は、周囲のデジタル環境に流されているかもしれないが、間違いなくどこかで目覚めるし気づくだろう。

 

ITは単なるツールとしての位置付けで良いのだが、やはり、人間はこのITツールを使う際のリテラシーは身に付ける必要がある。

それに加えてITが健全に使われていることを判別するスキルも大事なリテラシーの一つとして学ぶ必要がある。

第一歩として、こんな時代に私たちは生きているという認識が大切である。

 

以上