近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

これからのビジネスにおけるオンラインの活用術

今、テレワークは一進一退である。

予想通りと言うか、当たり前と言うか。

 

テレワークが進まない理由が、幾つかメディアにも専門誌にも並んでいる。

私がこれらをまとめたわけではないが、ITを専門の仕事としいる立場と、自分たちはコロナ禍の随分前から特に海外ビジネスでオンラインを使いこなしてきた観点から、幾つかオンライン活用の問題点や課題、それとメリットと使い方のポイントなどを思いつくままに書こうと思う。

 

まず、オンラインで仕事するとどうなるかであるが、一言でいうと疲れる。

 

それは、テレビを1日中観ていると疲れるのと原理は同じだし、同じく、パソコンを使って1日中仕事すると疲れる。

 

そもそも、人間はデジダル機器に触れる時間をほどほどにしないと疲れる。また、どちらも座りっぱなしで、動かずにじっとしている状態になる。

肉体的に疲れる。当たり前すぎる話だが、適度な運動が必要である。

 

そして、それは目にとっても同じだ。緑の美しい景色を見ながら、切り替えながらパソコンなどを使うのが理想だが、如何せん、日本の在宅事情ではなかなか難しい。

 

私は常に単純に考えることにしている。企業がオンラインでビジネスすると言っても、まだ、せいぜい、オンラインでMTG(ミーティング)をするぐらいのものだ。パソコンですれば疲れるし、スマホですればもっと疲れる。

 

まずは、このことを原点にオンラインで仕事をすることを考えないといけない。

解決策の一部は最後にまとめて書くこととする。

 

次に考えられるのが、会議が下手であったということである。

人が集まって会議をするとなんとなく仕事した気になる人が多いのではないか。私の感覚では、自戒の念を込めて、会議の7割から8割は無駄だと思っている。中小企業になれば、特にそうだ。なんか集まってなんか話しています。という会議が実に多い。

 

仮にこういう会議の状態をそのままオンラインでとなるととてもハードルが高くなる。

 

何事にも遊びや無駄は混ざっても良いし、適度でないと、息が詰まることもある。

オンラインになると、こういう遊びの部分が作れない。発言している人が常に主体になるからである。実は会議と言うのは不思議なもので、そもそも、発言者の内容を正確に聴いている人は少ない。何か別の事を考えていたり、横の人と小声で話したりする。話ししなかったとしても、目くばせなどをしているし空気で掴むこともある。

 

しかし、“こういう会議が大事だった”と昔を振り返る時代ではない。

要するに今は、オンラインが普及したことを契機に会議のあり方を変える時代なのである。そうすれば、会社全体も自然と変化する。

 

もう一つ、オンラインの議論であるのが、一堂に会している時との空気感が違う。

ここに五感を持ち込んで議論している人も多いが、そもそも社内のメンバーで会議するときに五感が必要かということである。

 

では、顧客開拓ではどうか?

昔ながらの営業スタイルに固執するならば、面と向かって熱く語りながら相手の反応を見る。これは素晴らしいスキルだが、IT社会の進展の中、過去の遺産になりそうである。

 

日本特有のオフィスの空気感、会議での一体感、こういう部分は必要な部分があるとは認めるが、90%は無駄な世界の話である。こういうことを排除すれば、日本の労働生産性は格段に上がる。

 

あとは、新たに生まれてきたオフラインの時間を農業のダブルワークであったり、社交場に出かけたり、アートに触れたり。

 

結論から言うと、オンラインで少々、ストレスになろうがどうであろうが、時間を短くすること。

仕事時間の短縮に利用すること。

 

そして、生まれてきた時間で、徹底的に五感を駆使し感性を磨く事。

 

日本人は、仕事の時間とそうでない時間を分けようとし過ぎてきた。これを変える絶好のチャンスである。仕事以外で感性が働く人は仕事でも感性は働く。私達は、働く人であると同時に生活者であるのだから。

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以上

 

辛気臭い仕事の重要性を分かっているかどうかで本物かどうか分かる

人間にはどんな人でも苦手なことがある。

その時に、大抵の場合、苦手なことを避けようする。

子供の頃、例えば、ピーマンが嫌いな人は多かった。

あの強烈なにおいと何とも言えない味が原因だったように思う。

 

 

 

私の場合は、ピーマン嫌いではない。

子供の頃の好き嫌いで言えば、ピーマンは普通だった。

農家なので、季節になると家族で食べるためのピーマンも栽培していた。

だから、普通に食べていた。

 

私が思うには、子供の頃の食べ物の好き嫌いは、特別な例を除いて、単に慣れの問題だと思う。

とはいえ、子どもからだんだんと大人になっていく中で、苦手科目がはっきりしてくる。

 

スポーツなんかは分かりやすい。私は、野球が好きだ。考えてみたらスポーツでも小さい球を扱うスポーツは好きで得意な方だ。

ただ、バスケットボールのような大きい球のスポーツはどちらかというと苦手だ。

野球とサッカーの両方得意な人はあまりいないと思うが、私は野球派なのでサッカーは苦手だ。

こういう苦手かどうかは、結局は慣れと言うか、習熟する時間の問題も多々ある。

 

さて、今日の本題の仕事の話にしたいと思うが、地味な仕事や裏方の仕事を苦手だと平気で言う人が結構多い。

 

私ぐらいの年齢になると、今更驚くこともないが、オールマイティで仕事をこなしている人は意外と少ない。

経理の仕事や総務の仕事を考えてみる。

一般的に女性が従事するケースが多いように思う職業の一つである。

経理や総務と言えば、きっちりと丁寧に正確に仕事をする必要がある。

 

口でごまかしたりできる仕事でもないし、結果オーライの仕事ではない。特に経理は本来、数字の1円も間違えてはいけない仕事である。会社運営にとって、とても重要な仕事の一つであるが、経理が苦手な人は多い。

 

会社には、計数は付き物だ。そもそも決算業務や税務申告の基本は数字だ。頑張りましたなどの定性的な評価ではない。そうすると、会社で働く人全員が、企業を運営するための計数には明るいほうが何かと都合が良い。

 

しかし、数字が苦手だからという意識を持っている人は意外と多い。

私も、長年、様々な社員と仕事してきたが、数字が苦手です。と思い込んでいる社員は多かった。

 

私は、会社の計数に掛け算はほとんどない、基本は、足し算と引き算だと教えてきた。実際、難しそうに見える決算書でも基本はそうだ。

ピーマンが苦手な人が存在するように、どこかで数字が苦手と言う思い込みで、大人になっても仕事している人は多い。

 

私が思うに、もう一つ、こういう丁寧なコツコツする仕事と言うのは面白みに欠ける。だから、辛気臭いと思う。実は数字が苦手なことに加えて、そういう仕事をするのが嫌で、それが数字嫌いです。となっているように思う。

 

男性の家庭料理を揶揄する話は定番だ。

男性は料理はするが後片づけをしないという話をよく聞く。確かに、そういう人も多いと思う。

 

私はどうかと言うと、独身時代は一人暮らして、結構自炊もしていた。当然、自分で後片付けはする。ただ、食器が一つもなくなったら、1週間まとめ洗いしていた。これはちゃんとした人から見たら、だから男性はと言われそうだが、私は、必要な事はちゃんとする方だ。

 

仕事に置き換えて考えると、その仕事を完結するために必要な事は、一通り自分でこなす能力を身に付けるのが何かと良い。

 

例えば、起業でも最初から経理や給与計算を社員やアウトソーシングに任せるのではなく、一度は、自分が全部やってみることが大切だ。

 

その上での役割分担である。例えば、社長で経理もとにかく好きだからと言って、いつまでも自分で経理の実務している社長は皆無だろう。

 

辛気臭いと思う仕事は、どんな世界にもある。

野球で言えば、ボール拾いかもしれない。

仕事もこれと同じで、必ず辛気臭く思えても誰かがやらないといけない仕事がある。こういう仕事を自分でこなし、その重要性を分かる人であってほしい。

 

以上

 

私がITに関わってきた意味と私の人生と仕事

ITは相変わらず世間を騒がせている。

もう何年になるだろうか?

ITって結局何?

と聞かれてもなかなか正確には説明できない。

 

例えば、車って何?と聞かれると、これはとても説明が簡単だ。

実際に身近であり、ちょっと家の外に出ればよっぽどの田舎でない限り、車がそこにあるし、走っている。例えば、日本で車に乗ったことがない人を探すのは大変だ。

 

ITは車のような分かりやすい乗り物ではない。では、サービスなのかと言われても、サービスでもあるが、やはり基本は科学技術の塊だしテクノロジーだ。

 

サービスという表現も分かりにくいが基本的には人が人にサービスをする。という理解ができる。そうすると、人がITを使って人にサービスするというケースは考えられる。

 

ただ、一般的に、スマホでGPSを使って目的地にいくために案内を利用している時は、人は介在していない。メカニズムで書くと、人工衛星で自分の位置情報を把握して、デジタルな地図情報に重ねて表示している仕組みである。どう見てもテクノロジーだ。

 

ITはツールとして馴染んでいる人も多い。仕事を楽にする便利なツール。お客様対応をよりよくするためのツール。遠方に住むおじいちゃんおばあちゃんに、孫の写真や動画をスマホで送る。

 

ITが仕込まれている、使われているものは他にもたくさんある。今どきの冷蔵庫は言うまでもなく、家電製品はなんらかでITが仕込まれている。業界的用語を使えばIOTという領域だ。

 

また、一人暮らしのお年寄りの家には、AIスピーカーなるものもある。見守りと称して、様々なセンサーで変化を察知できるようになる。街を歩けば、防犯カメラが至る所に存在する。

 

どうもクラウドという不思議なサービスがあるらしい。雲のようなという意味だ。水道やガスとは違うが、料金を払えば、どこでも利用できる。下手すれば、そろそろ世界中で利用できるようにもなる。

 

こんな風に思い付きで書きだしてみたが、ITというのは実に解釈が深いし利用シーンも様々だ。かつて、こんなテクノロジーが世の中にあっただろうか?

もちろん、ITは一つのテクノロジーではない。ありとあらゆる科学技術を総称してITと括っても差し支えのない時代に来たとも言える。

 

私は働きだして、そろそろ37年になる。

この間ずっとITなるものに関わってきた。

もともとは、建築系だったことと自分の適職だと思っていたこともあり、建築現場の現場監督になる気だった。

 

ところが、配属先がゼネコンの電算室、いまであれば、情報システム室という花形部署だが、その当時は、どちらかというと事務方の一部だった。

 

なぜなら、まだその時代はコンピュータは、事務処理の効率化に使うのが主流だった。ゼネコンだから技術計算分野の計算機としても使ってはいたが、時代背景からして事業創造にITを使う時代ではなかった。それはまだまだ先のことだった。

 

望んだ仕事でない中で、プログラマーやSEという仕事をそれなりに経験した20代。

 

31歳で創業した時も、ITを使った赤ちゃん用品のリサイクルのビジネスを立ち上げた。阪神大震災などもありそれはうまくいかず、結局、ITに関する仕事で会社の生計を立てるようになった。

 

以後、約25年。結局ITにどっぷり今でも関わっている。

私もそろそろ、自分の人生の意味や役割を深く考えるようになった。

そういうことに想いを巡らすときに、私の人生にとってのITは切り離しようがないぐらい、深くかかわってきた。

 

特に30代で事業を自分で始めてからは、常に葛藤が続いていた。

営業管理やプロジェクトマネジメントのソフトウェアパッケージを開発して売り出した。その当時はとても画期的だった。しかし、長くは続かなかった。

 

今振り返れば、その最大の理由は、私自身がITに関わることをあまり肯定的に捉えていなかったように思う。それは、22歳の時に、たまたま、配属先によって、関わることになったことをどちらかというとネガティブに捉えていたからだろうと思う。

 

そんな訳で、30代、40代前半ぐらいまでは、表向きはITの仕事で結構色々と仕事はしていたが、私の人生においてITに関わった意味をずっと考えていた。

 

今の私は、もちろん、人生で起こる出来事や、人生の過程での選択の結果には、全部意味があると思っている。

 

最近知った、コンセントレーションという言葉がある。星座と言う意味のようである。私はこの英語は知らなかった。

 

考えてみたら、確かにそうだ。星座はそもそも、おとめ座カシオペア座を創っている訳ではない。それは、それを観る人間の創造だ。だから、西洋と東洋でも表現が違う。人生はそういうものだということである。

 

私は、たまたま、ITに関わって長い間、仕事や事業をしてきたが、今にしてその意味が明確になっている。ITを人類がいかに健全に有効に使えるかについて、これからの役割を集中しようと思っている。

 

 

以上

 

オンラインとチャットで仕事が変わり組織が変わる

ここ数年の仕事環境の変化は目まぐるしい。

特にITツールに翻弄されている。

 

仕事の基本で欠かせないのは、

円滑なコミュニケーションとタイムリーな情報共有だ。

両方とも随分前から重要な仕事スキルで上位に登場する。いずれもITプラットフォームやITツールの登場と進化に連れてやり方が劇的に変化し続けている。

 

まずは、前者のコミュニケーションであるが、SNSの登場で急速に人つながりが増えた。その分、コミュニケーションが複雑で多様になった。

 

一方で一つずつのコミュニケーションの重みはなくなってきている。いわば軽いコミュニケーションが増えた。その象徴が乱立するチャットというツールの普及だ。

 

もともと、インターネットが世の中に登場し、チャットが私的利用で使われだした。家族間や友達同士には確かに向いていた。あれやこれでも通用する間柄だから。それが最近は、SNSと共にチャットが、仕事の場面でも定着した。

 

同時に公私境目のないやりとりも定着してしまった。もともとITに習熟していてコミュニケーションリテラシーの高い人なら、何とか便利に使いこなせる範囲ではあるが、平均的な人は混乱が増しているだけである。

 

後者の情報共有への取り組みは、概ね20年前ぐらいから、日本では盛んになった。

最初は、企業の組織内での情報共有化の取り組みであった。それが今や行政やマンションの管理組合に至るまで、極端に言えば、あらゆる社会生活の中で、情報共有化が疎かになることによる問題が露見してきた。そして情報共有化できていなことに様々な問題の原因があるとする考えが定着してきた。

 

今や情報共有は、企業の中での話を越えて、市民生活でもとても大切なものになった。特に、このコロナ禍で過剰すぎる傾向はあるにしても、情報共有化があらゆるところで、話題になっている。

 

そして至る所で、情報共有の不全が原因で問題が噴出している。

地方自治体別の対策と、国の対策の食い違い。医療関係の人達との一般市民のギャップ、若者と私たち世代のコロナ禍に対する捉え方の違い。必要な情報がタイムリーにいきわたらないことで、誤解による問題も大きくなっている。

 

話は、企業という組織に戻して進めるが、コミュニケーションと情報共有を進めるためのITツールは、今であれば、オンラインとチャットが主役だ。

 

まず、従来の組織を考えてみる。

20年前であれば、よっぽど先進的な会社であれば、いわゆるTV会議は使っていたところもあったが、一般的には皆無だ。あとは、電話で会議と言う形態もあった時代でもある。

 

基本は、人が集まるのが当たり前だった。必然的に打合せのスペースが必要である。また、会話の機密性が高ければ、それなりの仕様の会議室が必要になる。直接会って、五感で確かめ合って熱意も共有できる。

全国展開する会社が年に一回、東京に集まって支店長会議をする。ホテルなどの予約は日常でこういう会議や懇親会でいっぱいだった。

 

時代は元には戻らない。今は、不便やストレスはあるにしても、オンラインで会議が出来ることに多くの人が気づき、実際、使い慣れてくると結構便利だねと言い出した。あるいは、こういう使い方したらよいねという工夫があちこちで生まれている。

 

しかし、オンラインで不自由なく仕事することに関しては、最低でもあと数年は習熟する期間が必要だと思っている。オンラインの機能もそれに合わせて進化するだろう。

ほとんどの人が同じ意見だが、オンラインは疲れる。であれば私が思うに使う時間を短くすることが最善だ。

 

1時間の会議を30分、30分の会議を10分。これで会議の密度が落ちる、成果が半減する。それは思い込みではないでしょうか。そもそも、会議は準備で80%は成果が決まると言っても過言ではない。

 

オンラインで準備はしないわけだから、アナログの時間は変わらずしっかりとキープできる。流石に今どきパソコンは使わない手はないと思うが・・・。それはオフラインでも一緒だ。

 

では、チャットはどうだろうか?

私も仕事柄、頻繁に使うがこんな危なっかしいものは無いと思っている。言い出したらきりがないが、簡潔に書くと、あるべき情報共有化というのは、好き勝手にして良いというものではない。

 

ある程度の決まりや仕組みに則って、情報は共有して活用しないと、公私や真偽入り交ざった、トラブルの温床になる要素を含んだ情報が飛び交うことになる。 

 

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だから今、自由度が高すぎるチャットに依存した仕事は危険なのである。しかし解決策はある。チャットでの端折ったやりとりの行間を埋めて、正確な情報に整形してくれるAI君でも作れば別だ。

 

でもこんなことしだしたら、人間がする仕事が本当になくなってしまう。

今は明らかに過渡期ではある。従来の組織と新しいツールの整合性がとれていない時代である。組織の変革をどう進めるか、悩ましい課題ではあるが、明るい未来でもある。

 

以上

 

最近とても気になる漢字の先入観について

日本語は奥が深い。

語源などを学んでいくと、とんでもない勘違いをして日本語を使っていることにも気づく。

 

実際、時々登場する新聞の記事に、ことわざや言い回しに関して、本当の正しい意味を間違えて使っている人のアンケートデータがあるが、他人ごとではない。

 

私は、今は正確に理解しているが、

例えば、情けは人の為ならず。などは典型だ。結構な人が、情けをかけることは人のためになにない。と思って使っている。

 

また、漢字は、読み方が変わるものもある。

既存(きぞん)と覚えてきた私はこれを(きそん)とは、なかなか、使えない。何となく気が抜けてしまう。

 

的を得るの使い間違いも多い。的を射ると言わないといけない時でも混在する。

 

考えてみたら、小学校の時からの国語の勉強をしっかりやりなおしなさい。となるのかもしれないが、それも少し違うと思う。

 

私は国語が苦手なので偉そうには言えないが、言葉は実践で磨くものだと思う。

もちろん、そのための基礎が必要なので、そういう意味では、国語に苦手意識を持ったまま大人になった私は、人よりも苦労をしたと思う。

 

基本的なことを知らないままビジネスの世界に入ると大変だった。レポート一つ書くのも骨が折れる。そして20年前に初めての本を出版した時にそれを心底痛感した。その後、出版会社を創り、ますます、日本語の奥深さに翻弄されてきた毎日である。

 

正直、最近ようやく自然体で日本語を知ろうと言う気持ちが高まってきている。

 

言葉がどうやって生まれたか、その時の時代背景やその当時の人の生活様式や環境も連想することが出来る言葉、実に深みがある。

もちろんこれは、英語でも他の国の言葉でも同じだと思う。最近特に、言葉は人間の文化と進化が全て凝縮されていると思う。

 

そんな中で、私が最近気にしている日本語を幾つか挙げてみる。

ひとつは、消費者と生活者。

私は、ここ数年話し言葉も書き言葉も、全て生活者に変えた。

数年前、ある経営者セミナーに出席していただいていた、私のメンターでもある先輩経営者が、私の講演後に感想と共におっしゃったことがきっかけだ。

“近藤さん、シニアの課題解決の話、面白かったよ。ところで、この頃気になっている言葉がある。消費者という言い方だが、近藤さんが新しい呼び方を考えてほしいな”

 

私は、この時の会話を生涯忘れることはない。

私も何となく、違和感があったが、この時ぐらいピンと来たことがなかった。

 

以来、私は新しい呼び方は考えられていないが、オーソドックスに生活者を使うようにした。

今、消費と言うのは、悪い意味も多く含まれている。地球環境を破壊することの原因の一つだ。だから、今は私は生活者を使っている。世間でもそういう傾向が強くなってきたと思う。

 

もうひとつは、精神論。今でもメディアでも時々見かけるが、精神論と根性論はセットで話題になる。簡単に言えば、今どき古い。昔と違う。非科学的。そんな良くない風潮で使う人が多い。

 

しかし精神論をカタカタ英語にすると、たちまちスマートに響くから不思議だ。それがメンタルである。

 

今、スポーツは言うまでもなく仕事も医者も何から何まで、メンタルを意識する時代である。ただ中身は一緒である。精神論や根性論である。日本語に一旦なじんでしまうと、その言葉でのネガティブな印象や思い込みが生まれるとその思い込みはなかなかとれない。

 

だから、あと10年ぐらいはメンタルを多用して、昔の印象を忘れたころに精神論を再度使えばよいと思う。

そうすると日本的な真のメンタルとは何かを語れるのではないか?

日本はもともと自然と共に精神性の高い国の一つである。

 

最後に、まだ答えはないが、気になっているのが外国人という言葉。

私も新興国によく行くが、どこの国に行っても私達日本人は外国人。彼らは私たちのことは外国人とは言わない。英語であればフォーリナーである。なんとなく、スマートだ。

 

日本で言う外国人は一昔前の外人という、よその人という響きがある。多文化共生が当たり前の時代に、相応しい呼び名が必要だと思っている。

 

宇宙人と呼べばよいが、まだ、時代が追い付いていない。なにか良い答えはないものか?

今のところは、私はできるだけ新興国の人、海外の人という使い方である。

 

以上

 

かまい過ぎの環境に甘える日本人はいつ気づくか

私は1年ほど前に、日本人らしさについてブログを書いた。

 

[日本らしさとは]

 

 

 

手前味噌だが、結構の方にフィードバックをいただいた。

 

1年前、コロナ禍が始まった頃だった。

私はこういう時こそ、日本人らしさを発揮して欲しい。自分もその一員でいようという想いもあり、あの時に思っていることを書いた。

 

あれから1年、色々な情報に触れながら、新興国の友人たちとのコミュニケーションやベトナムルワンダの社員から見えてくる現地の様子。

それぞれの国の事情が分かってくると、大丈夫か日本人?と言いたい気持ちが芽生えてきた。

 

一言でいうとしたら、恵まれ過ぎていて、依存心が強い人たちが多いのが今の日本だと思うのである。

 

先日も、カンボジアの政府関係の仕事をしているカンボジア人の友人とオンラインで話していて、切実に思った。

ベトナムの状況とは違うのだが、何度目かのロックダウンが始まった時だ。

 

彼らは、日本などに比べてとても貧しい。だから住まいにしても大勢が一緒に住むしかない。日本のように一人一部屋のような環境はごく一部しかない。

 

ベトナムはコロナ対策では優等生とメディアで流れている。政治体制の違いもあると言われる。

しかし、こういう現実もある。ベトナムの発展ぶりとは裏腹に、医療については本当に脆弱だ。一部、外資系の先進国並みのフランス系の病院などはあるが、地方に行けば、本当にローカル病院のレベルには驚く。私も数年前、ダナンのローカル病院を訪れたときに驚いたことが今でも脳裏に焼き割いている。ICUの横を私たちが普通に案内された。

外来の患者も廊下に隙間なく座り込んでいた。

もちろん、ベトナム人はみんな知っている。自分たちの医療の現状を。

だから、日本人のような楽観的な行動をする人は、ベトナムにはまずいない。

 

日本はと言うと、先進国同士を比べて、日本の医療がどうだとかいう話はあるとしても、こういう新興国と比べると医療体制にしても医療のレベルにしても恵まれ過ぎている。だから、気が緩む。

 

今は、コロナ禍で医療の事が象徴的だが、日本は恵まれ過ぎて、甘えの構造である。

 

これは、大人のビジネスの世界もそうだし、子どもの教育の場もそうである。

働く人たちも、自分の責任を果たさずに、自由や権利だけを主張する人が多い。

会社に依存している人が多すぎる。

親も子供の教育を学校任せにして、挙句の果てはモンスタークレーマー化するとんでもない人もいる。

 

個別に挙げだしたらきりがないが、様々な事はどこかでつながっているし、根っこは同じところにある。

便利やサービスを求め過ぎて、これを繰り返しているとどんなに素晴らしい環境でも満足できなくなっている。これは、依存である。

 

そして、何か都合の悪いことがあったり、自分の思い通りいかないことがあったりしたら、とにかく人のせいにする。会社のせいにしたり、政治のせいにしたり、しまいには社会のせいにする。

これを繰り返していると日本は本当にダメになると思う。

 

そろそろ、自分たちの置かれている状況や環境、新興国などとのギャップを知る。

ジョハリの窓で言えば、自分が知らない新興国から見える窓を知る。

そうすると、自立した日本人が少しでも増えるのではないかと思っている。

 

以上

 

オンラインで感性が伝わるかどうかを気にし過ぎる日本人

沢山の人がオンラインで、何かをするようになった。

ある意味、カオスの状態が世界中に生まれた。

 

人と人は直接会って、付き合いが始まり親交を深め信頼構築をする。今までの人間は、この直接的な触れ合いの中で、一般の生活も旅行も習い事もビジネスもしてきた。 

ある意味、人類誕生以来たった1年少し前まではそうだった。

それが、コロナ禍で激変した。

 

もちろんのビジネスの世界では、20年近く前から、オンラインは、一部の大手企業では当たり前だった。

 

一般の人も、例えば、スカイプが出てきたころから変わってきた。

出張先や単身赴任先から、お父さんがスカイプで子供と顔を見ながら会話する。そして癒される。こういう微笑ましい使い方から始まった。もちろん、恋人同士でもそうだ。

こういう利用シーンが先行してオンラインが大衆化していった。

なんとも良好な使い方ではないだろうか。

 

今、ビジネスの世界という限れた特殊な世界で、オンラインで感性が伝わるかどうかの議論が多い。概ね、議論したがる人の結論は、オンラインでは感性は伝わらない派が多い。だから、直接会わないとね。という意見だ。

 

私はこういう極端な意見はあまり好きではない。なぜなら、先ほど書いたように、今は混沌としている。誰がいつどこで、オンラインを使いだすかもわからない。どんな活用シーンが生まれるか分からない。

 

確かに日本国内だけで見ると、せいぜいできることは想像の範囲だが、やはり地球は広い。アフリカのサバンナやアマゾンの奥地で何ができるかなど想像できない。その答えは、そこの生活者だけが知っている。

 

だから、日本人が日本の狭い、しかもビジネスの利用シーンだけで感性が伝わるかどうかの議論も心許ない話だ。

 

そもそも感性とは何かである。

感じる力でもあるが、人それぞれだ。画一的な事でも標準形がある訳でもない。

 

単身赴任のお父さんの事例のように、オンラインでしか実現できないこと、つまり、単身先から、自分の子供の顔をライブで見ながら話をする。これだけで感動だろうし、私の子供が小さいときに、そういう環境があれば間違いなく使っている。親とはそういうものだ。 

 

ここに感性が伝わるかどうかの議論は存在しない。まして五感がどうのこうのではない。

つまり、オンラインであろうと直接であろうと、親の子供に対する愛情に勝る感性はないと思う。

これと同じような事例が、世の中には沢山ある。

 

例えば、今コロナ禍で、高齢者の施設では面会は出来ない。だからオンライン面会が増えてきた。本当の意味で、遠隔地からできるところはまだ少なく、大抵がその施設の特別室から、オンラインで面会する。この短期間で、設備的な準備や個人情報の保護などを考えると、これが現実的なものかもしれない。

 

こういうケースは今、他の分野でも沢山増えている。直接会うことが一番である。しかし、単身赴任のケースも今の高齢者の施設にしても、できない時にどう使うかがある意味、オンラインのメリットであろう。

下地があれば、

オンラインで感性は伝わる

のである。

 

最後に、ビジネスの世界がどうなるかであるが、私は、いちおうITにもどっぷりつかってきたので、こう考えている。

 

これからは世界中でオンラインが使われるようになる。物理的に会えない。現実的に会う労力が大きい。コスト面でも不可能だ。こういうことの解決に人類がオンラインを使うために発明したと考えたい。  

 

そうすると、ビジネス的な視点で考えてもオンラインビジネスの奥は深い。一方で、ビジネスは直接会わないと始まらないと思っている人は、時代の変化に適応できないと思っている。

 

これからは、きっかけや始まりは、オンラインでも何でもよい。

そういう環境を人間が使い始めた。

私は、ビジネスでもプライベートでも、いつかどこかでその相手の人とは、直接飲むかワーケーションをすればよいとても思う。タイミングだけの問題であり、順番は関係ない。

 

後は、オンラインで簡潔に済ませればよい。もちろん、声だけでも良い。そうすると、電話が一番だった思う時が来ると思う。ビジネスのオンライン活用の用途はそういう意味では、とても狭い。

やはり、オンラインは世界がつながり健全な社会の構築と発展に寄与する科学技術だと思う。

 

以上