近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

個々がどう生活したいかでテクノロジーを選択する時代

デジタルディバイドは、IT業界ではよくつかわれるが、一般的ではない。

 

デジタルは概ねコンピューターのことを指す。今のようにスマホが日本中に行きわたる前から、使われていた表現だ。

 

パソコンが登場してからすでに40年近くになろうとしている。パソコンを使うことをデジタルの世界と表現して、アナログとデジタルという対比で使われてきた。

 

最近の若い世代は、初めて仕事で使うのがパソコンになるので、自然となじみやすい。一方、それまで、アナログの世界で仕事してきた人は、パソコンを使うのに四苦八苦する。

 

そして、インターネットが登場して、スマホが当たり前になってくる。ビジネスの世界で考えたら、パソコンよりもスマホが使いやすい部分も多い。他人との連絡などは、わざわざバソコンを使わなくてもスマホで事足りることも多い。

 

スマホは明らかにパソコンよりも使いやすかったはずである。

ところが、最近、私の周囲でも戸惑っている人が多くなったのもスマホだ。

 

それは様々なアプリやサービスが登場して、スマホでなんでもできるようになると、今度はサービスを提供する側からの要求が重荷になってくる。

 

特に高齢者やアナログの世界にまで、スマホでサービスを利用したり、行政的な手続きもこちらにシフトしたりする流れだ。

 

これからは、IT業界を越えて、生活者も巻き込んだデジタルディバイドが大きな問題となってくると思う。

 考えてみたら、パソコンやスマホなどが象徴的だが、全ての人にとって、常に使いやすいとは限らない。

 

スマホのような小さな画面に何もかも生活に必要なサービスを入れられると、利用者はたまったものではない。私も仕事柄、スマホを使う機会は平均的な人より多いが、そうすると、せめてプライベートな時間は、アナログの生活を選択したいと強く思っている。

 

コンピューターもテクノロジーである。科学技術の加速度的な発展で、テクノロジーに囲まれて私たちの生活があることに気づく。

これらを総称して、デクノロジーデバイドが新たに生まれてきそうに思う。

 

人の移動で考えてもわかる。

時と場合と場所に寄るが、移動する手段は幾つかに限られている。車かバスか電車である。そして、バイク、自転車、徒歩。

 

長距離なら話は別だが、数キロぐらいだったら、どれを選択しても本人の自由だ。もちろん、徒歩が一番時間がかかるが、数キロでも早い人であれば、歩いて一時間少しだ。時間に余裕があったり健康志向であれば、歩くことを選択しても良いわけである。少し早めたければ走ればよい。こういう風に、最新のテクノロジーを使うか昔ながらのアナログの歩くことを選択するかは自由である。

 

人とのコミュニケーションの場合はどうだろうか?

今は、圧倒的にメールかSNSを使う人が多いと思う。私も仕事ではよく使う。だが私の場合は、それ以上に電話を使う。

 

電話もテクノロジーと言えるが、今でも昔ながらの手紙やはがきを好む人もいる。デジタルに偏りつつあるが、それでも多様である。個人個人が選択しているのである。

 

これからもますますテクノロジーが進化し、私たちの生活の環境には当たり前のものとなって行く。しかし、デジタルデバイドと同じように、テクノロジーデバイドが生まれてくると、アナログ思考の人やテクノロジーに依存しない人は、とても生活がしずらくなってくる。

 

社会やビジネスの世界の効率化や合理化ばかり優先すると、一体人間は、何のために科学技術を進化させながら生きているのか?とう究極の問題にまで発展してしまいそうに思う。

 

アナログの世界を常に選択肢として残しながら、デジタルやテクノロジーを有効に活用する。こういうバランスを常に考えて、多様な選択ができるように、個人個人が声高に社会や企業に求めていくことが大切だと思う。

 

以上

 

教えるのが好きだから教える仕事をしているのか?

学校の先生は、私がなりたかった職業の一つである。正確に言うと、今でも諦めてはいない。

もちろん学校の先生をするには教員免許が必要だから、そういう意味では私はとっくに手遅れだ。

 

では、学習塾がしたいかというとそうではない。若い頃は、画期的な学習塾を創ろうと思ったことは何度もある。

学生時代の家庭教師のアルバイトをした時に、色々と考えたことがあって、それを具現化できると思っていた。今ならITを使えば、オンラインで個別指導は比較的簡単にできる。しかしこちらもとっくに諦めた。

そして今は、コロナ禍によってオンライン教育は当たり前になった。

 

教えることを仕事のひとつとしている今、改めて教えること考えてみる。

そもそも私は昔から教えることが好きなんだと思う。30年近くの事業活動の中、結果的には、ビジネススキル向上のための教育サービスは数多く行ってきた。日本の企業での教育サービスで色々と経験を積み、独自ノウハウを固めて、それをベトナムで応用した。

 

私の考える教育サービスは、基本的には芯や軸には、自分たちの実体験が必要と考えている。

自分達が実践したした結果、理論や世間の教え通りうまくいったこともあるし、そうでもない失敗ケースも沢山ある。そういう失敗を積み上げながら、そこでどう対処するかの肝のところを今も探求している。

 

特に、国が違えば、考え方も生活習慣も違う。まして、ビジネスの日本的習慣が新興国のスタンダードになるとは限らない。だから、何度も何度も繰り返し、教育と実践の繰り返しを行ってきた。これからもこれは変わらない。

 

そういう積み上げの結果として、教育専門の会社ではないが、BtoBのサービスの一環で、自然発生的に教育についても専門特化してきた。

今これをオンラインを活用して、新興国の若手ビジネスパーソンに役立てる準備を進めている。

 

自分自身の事業活動を振り返ると、特に明確な目標設定をしたわけではないが、この教育とITは創業時から継続して取り組んでいる。

 

最近、この教育について色々と深く考えることが多くなった。それは、コロナ禍でそれ以前に比べると私自身も学ぶ時間が増えたからだと思う。

 

自分たちが体験してこと、実践したことを教えるというスタンスで活動してきた自分が、最近、自分の学びに集中して取り組んでみて思うことがある。

 

何かを学ぶにしても何を羅針盤にしたらよいか?どの本を読むと一番良いか?誰に聞けばよいか?が中々定まらない。

 

だから、ある程度目星をつけて、ネットで調べて、情報を得て、あるいは、知り合いに尋ねてみて、そういうことを繰り返しながら、自分にピッタリ合う本が見つかったりする。こんなことを1年近く繰り返してみた訳である。

 

なかなか、骨が折れる部分もあるが、こういう探索は結構楽しかったりする。知の宝探しをしているようなものだ。こういうことをしばらく体験してみて思う。

学びたいことを、一つのテーマだけに絞り込んで、長年コツコツとやっていけば、今のような情報が溢れている時代は独学でもなんとかなるように思う。

 

しかし、私のように幾つものことを平行して学びたいと思うタイプにはそういう時間が取れない中、結構ストレスにもなる。

 

そこで今、画期的な方法がないか、色々と考え中である。

“学び方”を学べる教育の場を提供できないかと思案中だ。これは仕事だけとは限らない。

 

具体的な知識やノウハウは自分で勉強する。いわゆる自主学習である。今は、特定の先生や師匠を探さなくても、SNSの動画でも色々なところで、学ぶ方法がある。

 

一方で、例えば、環境問題の本質を学びたいときに、どの本を読めばよいかは、なかなか見つけられない。学ぶ前に探す段階で疲れ果てるかもしれない。

このような視点で、ITを駆使した教育のサービスを生み出したいと思っている。

これは自分のためでもあり人のためである。

 

 

 

以上

 

順調に壁に当たっていますか?と自問自答してみる

人生は年輪のごとく。

多くの先達が人生を年輪に例える。

 

森林にある大木の樹齢を聞いて驚くことがある。

樹齢1000年。とてつもない時間だ。  

 

 

だから、多くの日本人はこういう大木に神が宿ると考える。私もこういう感覚が分かるようになってきた。

 

人間を年輪に例えるのはとても分かり易い。人間も樹木も太陽系の中の地球上に存在する。季節変動と共に人間も樹木もその環境から様々な影響を受ける。自然から受ける影響はとてつもなく大きい。加えて人間の場合は、日々の生活環境が成長に影響する。

 

私は竹に例えるのが好きだが、竹は節があり、厳しい風雪にもしなって耐える。

人間として強い人を竹のようなしなやかにという言い方も好きだ。竹は生まれたばかりの頃は、筍として食されるようにとても柔らかい。

それが竹の節を作りながら強くなっている。

 

人が成長するためには努力が必要なことはだれも否定しないと思う。

ただ、最近の傾向として、若者受けを狙って、楽をして成功する、楽をして生きることを勧める人もいて、そういう人の話が若者受けする時代でもある。

 

私が生まれてからの数十年間を見ても、今の70歳代ぐらい方の子供の頃の体験と、今の20歳以下ぐらいの体験では、同じ国と思えない。

 

もちろん、江戸時代ももっと以前も、様々な変化があったと思うが、たった数十年で普通の農業主体の国が、世界をリードする先進国に駆け上がったスピードというのは、過去も未来も歴史上語られるのではないかと思うぐらい、劇的な変化だ。

 

そういう中で、子供が育つ環境や、様々な教育のあり方が変わってきたと思う。

今は、厳しいことを言う人が避けられる時代、困難な事をできるだけ遠ざける時代、先ほども書いたが、できるだけ、楽をしてどう生きるかに関心が強い時代。

 

もっとも、これだけ豊かな国であれば、そういう感覚も頷ける部分はある。私も、昔の人と今の若い人の中間ぐらいにいて、なんとなく両方の気持ちも変わる。

 

私は、子供の頃、親がとても厳しかった。ただ、この世代で都会暮らしの人はともかく、田舎育ちの人は、たいてい同じような経験者だ。私よりさらに上の方になると、成人して以降も厳しい環境で生きてきている。

 

私なんかは、せいぜい生活環境が厳しかったのは、中学生ぐらいまでである。大学で神戸に出てきては、本当に、ノー天気な学生をしていた。

それだけその時の恵まれた日本の環境に甘えていたのだろうと思う。

 

今の若い人たちは、私の世代が育てたようなものだ。だから、自分が厳しい環境で育ったので、自分の子供には優しくしよう、苦労させないようにしよう、叱ったり怒ったりするのを減らそうという傾向が強い。

 

イクメンブームとは基本的には違うが、イクメンの印象も厳しく育てるということではない。

もちろん、自分たちの育った環境以上に躾や教育を徹底している人もいるが、今は少数だ。

 

こんな変化を自分自身も感じながらも、やはり、人間は、樹木や竹と同じように、風雪や試練を数多越えてこそ、強くなることは疑う余地はない。

しかし、日々、そういうことにチャレンジできる環境は減っている。

 

スポーツの世界でも厳しいトレーニングの是非が議論されだした。暴力は論外としても、やはり、厳しく心身ともに鍛えることは、本人が望むのであれば、必要な環境だと思う。

 

私自身も様々な壁やハードルにあたってきた。もちろん、不可抗力のものもあるが、ほとんどが自業自得である。

 

壁にあたったり失敗したりする度に思う。やはり、未熟だからそういう結果になる。大事なとこは、そういう体験の中から学ぶ、教訓にする。

 

そうすると、失敗経験が自信にもなる。だれしも順風満帆な人生を望みたい。だが、現実は、ずっと順風満帆な人はまずいない。だから、自分の歩みを振り返って、それなりの壁やハードルにあたってきた経験、つまり、場数と言うのは大きな自信になるのである。

 

だから、時々、成功体験も大事だが、記憶に残る失敗を振り替えることも意味があると思う。

 

以上

仕事の基本スキルはどんな仕事でも身につく

仕事で何が大切かというと、基本スキルと、私はすかさず答える。

基本無くして応用無しの典型である。

 

もっとも、人間がすることは全てそうで、勉強もスポーツも楽器をマスターするのも全部同じである。基本的なこと、基本的なスキルの基礎ができると、応用は幾らでも出来る。

 

ではなぜ、人は仕事に限らず人生そのものにとって大切な基本を、なかなか身に付けることができないのだろうか?

 

基本と応用に分けて改めて考えてみるが、人は楽しいことや快感に感じることには積極的に取り組む。この基本と応用に当てはめてみると、明らかに後者が当てはまる。

 

応用は自由度が高そうだし裁量権もありそうだし、やり甲斐がとても大きく感じる。そして、結果を出せば、とてもリターンも大きいし自信にもなる。これは先ほど書いたが、どんな世界でも同じだ。

 

一方、基本というのは、辛気臭い印象がある。地道だしコツコツと何年も下積みをする印象が強い。例えば、日本では特にすし屋の職人に代表されるように、一人前になるのに数年間はでっちの世界であもある。

 

こういう職人の技を磨く世界は極端なので、一般的な仕事に持ち込むと大変なことになるが、感覚的なものを振り返るには一番良い。やはり、日本には様々な分野の先達がいて、その方たちから脈々と受け付いできたものが基本なのである。

基本無くして応用無し。日本では特に深い意味があると私は思う。

 

若い頃は特に、仕事の基本と応用の区別はつきにくい。

普通に考えて、駆け出しのころは、会社としても投資な訳である。本来は数年間は基本のスキルを磨くことに専念すればよいのだが、今の時代は、かつての終身雇用制も崩れてきた中で、会社も社員に10年スパンでの投資的教育は難しくなってきている。

 

必然的に、実務、つまり応用的な仕事をできるだけ早く担当させて、戦力化しようとする。これは企業側にもジレンマがあり、なかなか難しいところだが、世の中の趨勢はこういう動きだ。

 

だから、気付いてみたら、基本のスキルが身につかないまま30歳を超えたとか、責任ある部署を任せられるようになったという人を、結構見かける。

良いか悪いではなく、時代の急激な変化の中、迷走気味の若手ベテランも増えてきた。

一方、やはり、私の50代以上になると、かつての終身雇用制の中で鍛えられてきた下地がある人が多い。例えば、70歳ぐらいになっても、何か自由度の高い仕事を依頼しても、きっちりと想像以上にタイムリーで的確な報告書が自発的に出来てくる。

こういう時、流石、日本の組織活動というのは凄いということを改めて実感したりする。

 

では、この急激に変化していく働く環境の変化の中で、どうやって基本スキルを身に付けたらよいかは悩ましい。今後は、誰かに依存する、組織に依存するのではなく、自分が自立して基本スキルを身に付けるように努力するのことが、結局、将来自分が得することにつながる。

 

そんな時、どういう仕事をしていたら基本スキルが身につくかを知りたくなるのが人間の心情だと思うが、決論は簡単である。

仕事の基本スキル向上は、職種やテーマは関係がない。

 

私もたまたま、製造業や建設業、サービス業、飲食、ITなど様々な分野の仕事に関わってきたが、日本のビジネス社会は実によくできている。第一次産業もしかり運送業もしかり。すべての分野で高品質、ハイサービスで納期厳守。こういう国なのである。

 

こういう国で仕事の基礎スキルを身に付けられる幸せをしっかり噛みしめてほしい。

だからこそ、自分がたまたまかかわった分野で、やりたいことでなかったとしても、自分の考え方次第では、仕事の基本スキルを磨く絶好の機会なのである。

 

以上

外部メモリーを上手に使えば脳の負担は軽くなる

記憶より記録。

私が長年仕事で実践している仕事の基本である。

それと同時に、私の推奨する会社運営の仕組みの根幹の考え方でもある。

 

最近、オンラインツールで新たな機能が追加された。録音の許可をしますかという類の確認が出るようになった。

オフラインの世界では、通常、一般的な仕事の打合せを録音することはない。また、会場セミナーでは、視聴者が録音することは原則禁止だった。

 

それが今のように、オンラインで仕事する機会が増えてくると、録音するかどうかの関心はおのずと高まっていた。

もともと、様々あるオンラインツールであるが、基本機能として、録音機能が搭載されていることサービスも多かった。

 

MTGには、議事録は付き物で、いずれは、AI君もMTGの出席者の一人となって、MTGが終わった頃には議事録をAI君が仕上げている。こんなこともそう遠い話ではない。

 

そもそも、全部、記録していると、便利なことも多い。やむなく欠席した人や出席していても理解が及ばなかった部分などを、聞きなおすこともできる。

 

もちろん、MTGは機密事項が多く、出席者や関係者以外への情報セキュリティ対策はしっかりしないといけないという手間が増えるが。

 

こんな風に、通常のMTGが当たり前に記録する時代が始まっていると思っている。

今後は、外部の顧客との商談なども記録が進む可能性もある。社内のメンバーで行うMTGより更に情報セキュリティ対策が必要なのは言うまでもない。

 

最近流行りの動画のSNSなども膨大な記録と考えるのが自然で、玉石混交の感はあるにしても、しっかり、検索キーワードを駆使すれば、様々なノウハウや知恵を発掘することもできる。それだけ数多くの人が動画を制作して投稿している証でもあるのだが。

 

私もブログを書いているが、このブログも記録の一つであり、比較的気軽に書きながら発想した事やその日の出来事などを記録することが出来る。

 

10年前と比べても、一般の人が記録を公開できる機会が劇的に増えた。

表現者が激増しているゆえに、情報は溢れてはいるが、専門知でない大衆知や市民の知が沢山記録されている時代になった。

一方で、共有先、公開先限定という使い方も見えないところでは劇的に進行していると予想する。

 

記憶より記録は、個人個人が特別な意識を持たなくても社会全体で急速に進行しだしたと言える。

 

いままでは、社会はどこかで記憶しているかどうかのウェイトが高かった時代はあった。学校時代の受験勉強に始まり、社会人になってからも、資格試験なども記憶力テストである。仕事そのものも記憶力で勝負する人も未だに多い。

 

コンピューターの世界では、外部記憶装置と言うのがあって、理屈上はこの装置の容量を増やせば、幾らでもデータを保存できる。

 

今、人間を取り巻く記録の環境を改めてみてみると、人間が記憶に頼らずとも記録を頼って生きていく時代になりつつあると私は思う。

 

私は、1年前に記録の世紀命名したのだが、この1年、一気に記録社会が進展してきたと実感している。

 

人間には短期記憶と長期記憶があり、人間として覚えておかないといけないことは、長期記憶として覚えるようにできている。

 

もちろん、好んで記憶力を鍛える人は、これからもいても良いと思う。しかし、記憶することで苦労したり、何か仕事の優劣をつけたりする時代は終わろうとしているのは疑う余地のないことである。

 

以上

発信者の意図を考えることが情報感度を磨く

情報と人間との付き合いは、かなかな厄介で大変な時代だ。

そもそも、人間が情報を生み出していると言っても過言ではないが、現代は、自らが生み出した情報に振り回されているとも言える。

 

人間は社会的動物であり、人類誕生以来、人間同士が連携して生活してきたし今はチームや組織に属して活動もしている。

 

様々な方法で、お互いのコミュニケーションをとりながら、安全で安心な暮らしや活動を実現している。このコミュニケーションによって、人は人に情報を伝えてきた。

 

もちろん、知恵や経験など伝えることは有益だし、リスクについての共有も安全、安心のためにも必要だ。社会生活やビジネスの仕組みが今のように複雑になるにつれ、人から人へ伝える情報も大量で複雑になって来た。

 

私も時々考えるが、新興国などと比べると日本は情報が過剰である。

こうなってくると、そもそも、情報は何のために必要なのかが分からなくなってくる。情報が情報を生み出すこともあるし、必要以上の情報が世の中には流通している。特に拍車をかけているのが、ネット社会の進展だし、ITを使う人が増えてくるとますますこの傾向は強くなる。

 

 

 

何とも平穏に暮らすには難しい時代になったものだと思う。

だからこそ情報リテラシーを高める必要があるのだが、何から始めればよいのかが分かりにくい。

 

情報を意図的に遮断しない限り、日本のような国で暮らしていると、情報がどんどん頭に飛び込んでくる。知らなくてよいことまで知ってしまう。

 

特に、スマホでちょっとした合間に、プッシュで送られるニュースなどに触れるだけでも、その瞬間は暇つぶしにはなるが、ますすま、情報過多の世界に引きずり込まれる。

自分にとって必要最低限の線引きが乱れる。

 

発信源を総称してメディアと呼ぶとすると、メディアの発信の意図や目的、狙いを推論することは大切だ。

 

新聞であれば、新聞社ごとの特徴がある。また、記者によっても意図が違う。週刊誌や夕刊紙にも意図が当然ある。私もよく見るが、概ね誇張記事が多いと思う。部数を増やすことが目的なのは明白だ。

 

また、個人ブログにも発信者の意図は千差万別だろう。一番多いのが、ビジネスとしてあるいは、ビジネスのきっかけとして発信されているブログだ。

 

受け手からしたら同じように思える情報でも、発信者の意図によってその情報の健全性や仕込まれた目的などが全く違う。

そういう意味でも、まずは、情報の出所は出来る限り明確に把握することが大切だ。逆に言うと、出所不明の情報に関しては無視してよい。

 

新聞であれば、新聞社が出している。これは出所は明白だ。ブログもたいていは書き手のプロフィールは確認できる。SNSの投稿情報であっても、同じように確認できる。

 

まとめると、出所が不明だったり、特定できても信用出そうにないものは捨てることである。

その前提で、次に大切なことがある。

それは、発信者の意図を推論することである。なんのために書いているかによって、情報の役割が違う。当然、自分にとって有益かどうかを大きく左右する。

 

広告と連動した情報が必ずしも悪いわけではない。その見分け方のポイントは、やり方が健全かどうかだ。言い方を変えれば、信頼できるかどうかでもある。

 

今は、ITの仕組みが見えないところで急激に浸透している。そういう中では、巧みなマーケティングが仕掛けられている。

これからは、企業の経営姿勢そのものの見極めも重要な時代になってくる。

人にしても企業にしても、如何に信用できるかを私達が、確認するスキルを身に付けるべきなのである。

 

以上

常に例外を考える思考訓練が欠かせない時代

人間は思い込む動物である。

どんな聡明でキレキレの現役の人でも思い込みに支配される。いままでも、何度も私自身が陥ったこともある。

 

今の常識は未来の非常識ということもあるし、よくよく考えてみたら、ひとつの思い込みが15年前から更新できていなかったりする。

当然、年齢を重ねるとそういう傾向が強まる。

 

一方、子供の頃、特に赤ちゃんにさかのぼれば遡るほど思い込みはない。前提知識も邪念もない。だから、子どもの発言はピュアだし新鮮で、大人からするとドキッとすることが多い。

 

今は私は小さい子供と接する機会はあまりないが、昔の記憶によれば、小さい子供と関わる時は、大人ではない子供に自分が戻る必要を感じていたものだ。

 

思い込みは専門的な言葉に言い換えるとバイアスとニュアンスが近い。

認知バイアスや確証バイアスは有名なところであるが、こちらの研究も相当進んでいるようで、バイアスの種類の多さには驚く。私の手元にはバイアスに関する本が何冊かあるが、なかなか目を通せていない。

 

まあ、日常生活で、そこまで専門化、細分化されたバイアスを意識して過ごす人は皆無だろう。

バイアスの専門知識を知りすぎると気にすることが多すぎて、かえって平穏な暮らしが難しくなると思う。

 

だから、普段の生活では、大きなリスクにつながる思い込みは避けたいが、バイアスは普段はあまり意識する必要もない。

ただ、メジャーな認知バイアスあたりをしっかりと理解して意識はしておきたいと私は思う。

 

ある意味、バイアスは人間が安全に快適に暮らすための本能的な能力だと言っても過言ではない。

しかし、これが仕事では時として大きなマイナス要素になる。

 

思い込みで失敗した経験のない人は、いないだろう。

 今まで大丈夫だったから、次もきっと大丈夫だ。何年もしている仕事で慣れているからミスはしません。彼が言うのだから間違いありません。こんなことが日常会話だと思う。

 

人間は、バイアスを沢山持っているのと併せて怠け者であるというのが私の考えである。

だから、PDCAが必要で、特にC(チェック)を怠らないことが組織活動には不可欠だ。

 

三現主義(現場、現物、現実)がこれほどいたるところで、連呼されるのも人間の思い込みをカバーする考え方である。人間にはつきものの、ヒューマンエラーも思い込みに起因することも多い。

 

人の話や世間の常識を疑いだしたらきりがない。

だが、疑うのではなく、考えることは自由だ。本当にそうなのか?と考えてみる習慣が大切だ。

 

最近読んだ科学の本は面白かった。

科学は99.9%が仮説であるだ。このタイトルはにわかには信じられない表現だ。

だが、じっくり、読み進めると著者の言わんとすることはとても分かりやすい。

 

常に、反証の余地があるのが科学である。納得感半端ない。考えてみたら、私たちは統計を生活やビジネスのいたるところで活用している。

意識するかしないか別として、なんだかんだ科学的な会話も多い。

 

特に有名であったり権威があったりする人の話は鵜呑みにしてしまう傾向がある。

そういう人をあっさり信用してしまう人は多い。そして、その人が発言したことは全て正しいとなってしまう。

 

世の中には、必ず例外が存在する。私も統計学などはとても重要視しているが、それだけで判断したり行動したりはしない。

 

統計と言っても、私は例えば血液型診断は全くあてにしない。なぜなら、例外と言うのは沢山あるし、血液型よりも、例えば長男次男の違いによる性格診断やプロスポーツ選手の活躍分類などの方がよっぽど説得力がある。もちろん、これにしても必ず例外がある。

 

私が長年、思い込みを防ぐために意識的に行ってきたことが、例外を考えるということである。良い意味でも悪い意味でもだ。

 

例えば、100人に99人はこの病気は治る。と言われたらほとんどの人は安心する。ただ、100人に一人は、そうでない訳である。そういう例外もあり得ることを考えておくことは、仕事においてはとても重要である。仕事では百回に1回どころか、千回に1回、一万回に1回の事故を防ぐことが要求されること沢山あるのだから。

 

以上