近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

都会の街を走っている人と遭遇する毎日

この季節になると、明らかに、早朝、走っている人の数が増えてくる。

都会の神戸の街を走る人たち。昼間にあまり見かけることはないが、早朝に沢山の人が走っていることに気づく。

 

 

 

 

皆さん、色々なスタイルだ。本格的ランナーのウェアの人もいれば、シニアの御夫婦もいる。概ね、年齢層は高い。一人で走っている人が圧倒的に多いが、皆さん、それぞれの目的や目標がある事と思う。

基本的には、健康のためだと思うし、私も、昔は走るのは好きだった。ただ、20数年前から、水泳にハマって以来、走ることよりも泳ぐことが私の健康維持、体力トレーニングの基本になった。稀に両方している人もいるかもしれないが、流石にそれでは時間が足らない。だから、ここずっと、私の走ると言えば、ゴルフをしている時に、少し走る程度だ。

水泳と走るのとでは、筋肉の使い方が違うので、水泳に偏るのはバランスが悪いと思いながらも、走る人を眺めているだけの毎日だ。

神戸の街を走っている人は、だいだい、走る場所が決まっているようだ。早朝のゆったりしたオフィス街の歩道か海岸近くの遊歩道、そして、広々とした公園と言ったところだ。

そう考えると、神戸の街は走りやすい場所だと思う。一人一人がどれぐらいの距離を走っているかは分からないが、勝手に色々と想像するのも楽しみである。

早朝に走って、その後電車に乗って出勤しそうな感じに思える人。あるいは、フルマラソンなどのレースが近づいていて、その練習のために走っている如何にも様になっている人。健康維持のために、毎日コツコツと走っている感じの人。

 

本当に人それぞれだ。早朝からビジネススーツを着て歩いている私に遭遇するランナーの人達が、私の事をどう思っているだろうか・・と頭をよぎったりする。

実は、私の友人、知人たちは、世界の過酷なレースに出でいる人もいる。例えば、サハラ砂漠のサバイバルなレース。他にも色々あるようで、なぜかそういうレースに参加したくなるようだ。

そういう彼らからの直接的な情報やSNSの投稿などの間接的な情報を見聞きするだけでも、人間は改めて不思議な動物だと思う。

もちろん、走る事だけではない。登山が好きな人もいる。私のように泳ぐことが日常の人もいる。トライアスロンに昔ハマっていた同世代の友人もいる。

どうして、そのスポーツを選んだのかにも、それぞれの想いと物語がある。そして、なぜ、そこまでとことんハマるのか?には、もっと深い何かがある。

 

もちろん、人によって千差万別ではあるが、人は自分の限界に挑戦したくなるし、何かハードルが高いことにチャレンジし続けたい性分の人がいるのは間違いない。

今のところ、時間の関係もあって、私はスポーツや趣味に没頭する時間はないが、いつか、そういう時が来たときは、自分で想像もしていない、何かにハマっていたいと思う自分もいる。

これからも、この狭い神戸界隈で、色々なランナーに出くわすと思う。流石に、会話することにはならないと思いながらも、ランナーとの偶然の遭遇もまた楽しみの一つである。

 

以上

シニア成人に共感する方々とともに

シニア成人。

殆どの人にとって、まだ聞きなれない言葉だと思う。これは、牧IT研究所の代表の牧壮さんが提唱されている。

今年の8月5日に発刊した“もし波平が85歳になったら”に、牧さんのお考えや活動と共に、シニア成人の意味や意義を掲載している。

簡単に紹介する。

 

 

 

 

 

 

65歳をシニアゼロ歳とする。

最近の高齢化社会の現実を考えた場合、感覚的には、今のところ65歳からがシニアである。ちなみに、WHOの定義でも世界的にシニアは65歳である。

ただ、日本より平均寿命が短い国は、世界に沢山ある。中でも新興国発展途上国は様々な理由で、寿命は短い。そう考えると、65歳というのは、こういう国にとってとても長生きとなる国もあると思う。

 

あくまでも日本の感覚で言うと、60代はすでに現役バリバリで仕事するモードだ。もちろん、昔ながらの60歳定年でリタイアする人もいるが、それでも、残り20年、30年あるかもしれない中で、流石に全く仕事しない人はいないだろう。

 

きっと何年間かのブランクがあったとしても、何らかで仕事や社会貢献活動をすると思う。

こんな時代背景と照らしてみると、65歳がシニアの始まりは、とても納得する。

では、シニア成人とは何かであるが、昨年まで、日本の成人は20歳だった。これとの相関で考えて、赤ちゃんとして生まれて、日本では、長らく20年間で成人だった訳である。

 

ここで牧さんは、発案された。65歳に20歳足した85歳をシニア成人としようと。

 

実は牧さんは、今は、86歳になられている。シニアとして大人になって2年目である。

私は、牧さんにシニア成人のお話をお聞きして以来、ほとんどの知り合いにこの話をしてきた。結果、皆さんの反応は想像以上に一様でポジティブだ。

70代の方の反応。

確かに、目標ができるね。まだまだいけるよね。

50代の反応。

まだ、自分は生まれていない。65歳まではまだ10年もある。そう思ったら、希望が増してくるね。

こんな感じだ。

また、全体的な反応としては、シニア成人を祝う習慣が日本に定着したら、日本は元気に明るくなりそうだね。

こんな様々な反応を頂きながら、先日、記念すべき第1回目の“シニア成人おめでとう会”の開催に漕ぎ着けた。場所は当社が運営する神戸にあるKOCOA(KOBEグローバル共創活動センター)。牧さんにお越しいただき、意義深いイベントが開催できたのである。形態はもちろん、オンサイトとオンラインのハイブリットで。

 

今は、ITを上手に使えば、世界中がつながれる時代。高齢化社会の課題解決についても、随分前から、様々なところで、志ある方が、シニアを元気づけたり、仕事の機会を創造したりする活動をされている。それはそれで頭が下がる思いだ。それをさらに発展して、国民全員の意識の中に、日本の高齢化社会に対する認識をいれないといけない。

そのためにも、このシニア成人を祝う会を日本全国、そして世界に広げていこうと決意を新たにしている次第である。

 

 

 

 

 

 

以上

久しぶりの雑草との闘いで想ったこと

冬の気配を少し感じる先週の土曜日。

関係しているRINC(リンク)ファームの畑を耕すために、日の出前から南あわじに出かけた。

 

去年から、古い家とセットで農場を借りて、自然産業研究所として活動している一環だ。自然産業研究所では主に第一次産業の持続的発展を目指して、農業に関する実証活動もしている。RINCファームは自然産業研究所が運営する農場である。順次、全国に展開する予定である。

 

 

 

 

山に囲まれていることもあり、自然を特に実感するこの場所。雑草の繁殖力は凄い。もちろん、平野部の整地された農場でも、休耕地として放置すると、今どきは、直ぐに雑草の餌食になる。私の子供の頃のかわいらしい雑草と違い、今は、外来種も混ざって、手ごわいのが多い。

 

段取りを大雑把にしていたのもあり、この日の農作業の予定は、残っている雑草をざっと刈り取り、枯草と共に焼いて、速やかに、耕運機で耕して、3時間ぐらいで切り上げる予定だった。若手社員と二人で、十分余裕と考えていた。

 

1か月ほど前にも、一度、刈り取っていることもあり、状況確認もせず、甘い想定だった。いざ、私たちの畑に到着してビックリ。予想に反して、丈夫そうな雑草がおおい茂っているではないか?たった1か月でこの繁殖力。

気合を入れて、長い棒がついた鎌で刈ることに・・・。

枯葉を燃やしながら、約3時間の格闘。中々の手ごわさだった。

私は、農家で育ったこともあり、手伝いと遊びの両方で、雑草を刈り取ったり燃やしたりした体験は数えきれないほどしてきた。

だから、今でも、こういった雑草を燃やすことは、ワクワクするし、雑草をきれいになった畑の爽快感もなつかしさとともに蘇る。

 

 

私自身は、何十年ぶりかに、雑草を取り除き、農地を整地する作業をしてみて改めて思った。

それは、農業の大変さである。

もちろん、今どき、草刈り機をもってきて、一気にすることもできれば、最新式トラクターでパワフルに耕すこともできる。また、除草剤を使う手もあるだろう。実に今どきの農業と言うのは、昔に比べたら、進化しているし楽な部分も増えてはいる。

しかしながら、中山間部の農業など、小規模でしている農家であったり、悪条件の中で営んでいる農業であったり、日本の農業は実に多様だ。

大規模化、効率化することも大切だが、やはり、人が根気よく土地を開墾して、農地にする。そして、雑草を取り除く、土を耕す。

こんな原点を体験しておくことの重要性も再認識した次第である。

正直、今回は甘く見ていた事が原因の一つであるが、それによって学んだ事も多い。

効率的な農業を学んで、本格的なアグリビジネスにトライする人も増えてほしいが、こじんまりしていても、農業の原点体験ができ、多くの学びができるようRINCファームを発展する意義を再認識ができた。

次は、畝をたて、マルチをはる段取りだ。そして、玉ねぎやブッコリーを作付けする。

こんな工程が楽しみでならない。

 

以上

目的やテーマが決まっていない面会の価値

人が集まって意見交換する、議論する、情報共有するのは、ビジネスでは日常茶飯事である。複数の時もあれば、相手と二人でということもある。

 

人との会話は実に様々なパターンがあるが、私は、そんな中でも、目的やテーマを決めずに、会話することも結構好きだし、実際にそういうMTGも多い。

もちろん、具体的なプロジェクトや商談に関するMTGだと、自ずと誰かと会う時の目的やテーマは明確である。このあたりが曖昧だと、プロジェクトが上手くいく確率は下がるし、商談も良い結果にならない。

こういう定番のMTGは、どらちかというと、しっかりと手順を踏まえておけば、大きく外すことはない。逆に言うと、長年仕事していて、できない人がいたとしたら問題である。

 

一方で、仕事の関係性の中で、社長同士では、本当に単なる飲み会や情報交換といった場も多い。こういう機会は実はとても貴重で、1、2時間の会話の中には、実に様々な会話が成立する。私は、こんな場が好きだし、瓢箪から駒という感覚の出来事が好きだ。想定してなかったような情報をきっかけに、一気に具体的な話しになることもある。

実は、世の中には、こういう抽象的な曖昧な会話の場が苦手な人も多い。

私のような創業者は、必ずしも仕事一直線ではない。脱線や寄り道も好きだし、時には、回り道もしてしまう。つまり、無駄だと思えるような会話の中で、宝物に出合う可能性もあると思っている人が多い。

人間はどうしても未知の世界ややったことがないテーマに対しては、慎重になる。今までの自身の経験に照らして、できるかできないか?以前と同じパターンなのかどうか?などを判断する。

 

目的やテーマを先に決めないと、会話できない人は、安全志向だと言えるし、現場志向だと言える。できるだけ、失敗しないように経験や手順に則って、仕事を進める。これは、組織の役割としてとても大事な事である。

 

私が今回言いたいのは、会話がミスマッチすると、お互いの役割や価値観がずれる。

私も、プロジェクトをこなすときの会話と、未来の構想を語ったり、未知の人との会話から何かを生み出したりしたいときの会話は分ける。後者はある意味無責任にとても曖昧に会話することもある。

切り分けが大事だと思っている。

これは、学校の勉強にも言える。もう随分前から、子供の独創性や柔軟性を高める議論がされてきた。日本のように記憶を優先して、答え合わせが勉強のゴールになっていると、なかなか、豊かな発想やアグレッシブな行動は生まれにくい。

 

答えがないことを考えたり、答えが複数の事を学んだり。こんな学習の場が必要だと思っている。社会人においては、企業人としての思考回路を創造的破壊できることが望ましい。

ダフルワークなどを利用して、今までやってきたことと全く別の分野で仕事経験を積む。IT業界の人が農業をやってみる。サービス業の人がオンライン教育をする。こんなことが必要な時代だと思う。

 

 

以上

ベトナムの地下鉄の開業がまたまた延びた話・・・

ここまで来るともはやオオカミ少年!?

10月5日の日経産業新聞に、大きく、ベトナムの地下鉄の開業が延びたと特集されていた。

この記事への反応は、ベトナムとの関り度によって、大きく違うと思う。

 

 

 

 

 

 

ベトナムは、コロナ禍を挟んでいるとはいえ、経済成長面でも国の勢いでも東南アジアの中では群を抜いて元気だ。だから、ベトナムの噂だけを知っている人にとっては、一体何があったのか?という記事だろう。

確かに、初めての地下鉄の開通がおくれるのは大ごとである。記事には、原因を色々と書いてはいる。もっともらしい理由だ。

実は、ベトナムに長年関わっている私たちから見たら、正直、やっぱりな。という感想になる。

 

ただ、流石に今回こそ、事前のアナウンス通り開通と思っていただけに、結構思いは複雑だ。ベトナムに深くかかわっている人は皆知っているが、この地下鉄の開通は、10年以上前からの悲願であり、いよいよ開通という発表があって後に延長、また遅延、こういうことを何回か繰り返し、今に至る。

 

どんどん先送りされ続けていたわけだ。

それでも実際、工事が始まるといよいよ開通かという機運は高まる。特に、商業の最大都市ホーチミンは日系ゼネコンなど関わっている。順調に建設工事は進捗しているものと思っていた。

こういう新興国の出来事に遭遇する度に、日本の建設工事のプロジェクトマネジメントが群を抜いて、世界のトップレベルであることを再認識するのである。

単に納期を守るというレベルではない。

ベトナムや中国などと仕事していれば、皆が痛い目に合う。そもそも、まだまだ、これらの国には、納期と言うことに対して、とても甘い。

 

建設工事に限らず、プロジェクトマネジメントは、QCDのトレードオフが生じてしまうのが、難題だ。日本の基準で考えると、このQCDは全部達成して当り前。一方で、新興国では、全部を首尾よく達成するのは不可能に近い。

 

特に、納期に関してはルーズだ。こういう背景をベトナムでも痛いほど実感しているので、今回の地下鉄の開通遅れも、またかと思うわけである。

では、この先、これからの国が、果たして日本のようにQCDをバランスよく達成できるように進化するのだろうか?ということを考えたくなるが、正直、なかなか難しいように思う。

 

簡単に言えば、これは、仕事場だけの問題ではない。長年積み上げてきた社会の仕組みとも言えると考えている。

例えば、日本の場合、小さい頃から時間を守る、約束を守る。期限を守ることを躾けられる。当然、子供の時は、仕事するための教育ではなく、徐々に社会に適応していくためである。

日本の社会は、基本的に、時間にきっちりし納期を守り約束を守ると言う部分が根底にあり、社会秩序であったり、機能的な生活環境であったり、便利な交通機関があるのである。

 

もちろん、マナーやチームワークという部分もある。結局は、産業人材としての教育や訓練のベースに社会的な躾ができるような仕組みが日本にはある。ただ、これは最近はだんだんと乱れていると思う。30年前から比べると、若者層での乱れぶりが顕著である。

 

規律正しい秩序ある社会は、メリットだけではないとしても、こういう土台を再構築することも今の日本には必要な事で、それが出来ていけば、世界は、日本をリスペクトし続けると思う。

 

以上

ワープロが画期的だった時代

今、音声認識技術の進化のスピードは速い。

世間でも、ビジネス用の議事録作成ソフトのPRも目立つ。実際の実用性としては、まだまだ、途上である。当然、話し言葉を全部テキスト化する技術も難しいが、それを更に議事録にまとめるとなると、もっと難しい。

 

今は大きな過渡期に私たちはいて、そのうち話し言葉は完ぺきにテキスト化され、議事録などのサマリーをAI君がする時代になるだろうと思う。

 

一応、若い頃、プログラマーをしていたので、音声をテキストに変える仕組みのイメージは分かる。だけれども、30年以上前にはそんなことは、誰もが想像つかなかった。背景には、AI君のレベルが向上したとか、記憶容量も劇的に大きくなったことがある。

 

たった30年、されど30年。進化とはすごいものだ。

私が社会人になった頃は、ワープロが画期的だった。その当時は、ひらがな変換が基本で、私はキーボードをひらがなで覚えたので、未だに、パソコンもひらがな入力だ。英字変換もできることはできるが、基本は、ひらがな変換を使う。しかも、ブラインドタッチではなく、指タッチだ。

 

ところで今、ワープロ専用機と言うのは、使っている人はいるのだろうか?

こんな風に考えると、何年か先には、パソコンがなくなるのではとも思う。

音声だけで、操作できる時代はもう目の前だ。

ただ、キーボードを使って、文字を打ち込むことは、しゃべった内容を、自動的にテキストにする事とも、議事録にまとめる事とも違う。

少なくとも、脳の中で考えたことを、指を通して打ち込む。人間が僅か数十年で習得したこのスタイルはずっと残るようにも思う。

 

話は変わるが、昔、本や小説を書く人は、原稿用紙に書いていた時代がある。パソコンやワープロがなかった時代の話である。私も小学校時代には、原稿用紙を使って、手書きで書いた覚えはある。単純に言えば、間違いの修正や後になって文章を追加するなどは、大変だ。それこそ最初から書き直した記憶もある。

そういう私のレベルからは類推はできないが、本や小説を原稿用紙に書く人の能力は、相当上だったように思う。

なぜなら、簡単に修正できるとすれば、人間は普通に考えたら、緩くなり、集中力は落ちるように思うからだ。

人間は、長い長い時間をかけて、進化してきたと言われる。様々なツールを編み出し活用して生活の質を改善してきた。単純に考えれば、如何に楽になるかという方向に向かってきた。

 

ワープロが出来たときは、とても画期的で楽になった。それがパソコンになり、多様な使い方ができるようになった。スマホになると、キーボードではなくなった。スマホしか知らない世代が、パソコンを使うと四苦八苦だ。

私は、以前から、スマホがメジャーではなくなる日が来ると思っている。

 

その一つが、音声。

そういう時代が来たとしても、人間が文章を書くと言う行為がなくならないと思うが、今が、人類の進化の到達点でないとしたら、その次はどうやって、文字を入力するのだろうかと思う。

もしかしたら、人間は、コンピュータのアウトプットとしてしか文字を作らなくなるのだろうか。

 

 

以上

リスクについてあれこれ考えてみる

かつて今ほど、リスクを意識した時代があっただろうか?今、仕事しても普通に生活しても右を見ても左を見ても。リスクという言葉のオンパレードである。

私も仕事柄、企業支援をしている中で、リスクマネジメントや情報セキュリティリスク対策の仕事をしているので、リスクについては、それなりに精通しているし、敏感だ。

そもそも、会社経営をしていると、一般的に働いている人から見たら、リスキーな状態にあると思う。

リスクテイク、リスクヘッジ、リスクコミュニケーション、リスク対策(コントロール)などなど、私たちの身の周りは、リスクという概念を否が応でも意識させられる状態にある。

リスクというのは近い将来良くないことが起こる可能性の事であるので、こう考えると、個人的にも色々ある。車や飛行機の事故と言う事もあれば、健康を害する可能性もある。何かと、心配が多い世の中である。ニュースでは、事故や事件、良くない出来事の事例が毎日放映されている。否が応でも、明日はわが身と言う感覚に陥る。

 

きっと、ニュースなど見ず、日本の田舎の農村などで穏やかに暮らしていれば、気になる主なリスクと言えば自然災害だけになるように思う。

当然、人々は、リスクに敏感な人、鈍感な人、無知な人、やたら詳しい人、痛い体験を沢山している人、今まで順風満帆すぎる人など、多様だ。

千差万別、生活している環境や関わっている仕事、人間関係など様々な事に影響を受ける。

だから、同じリスクという言葉でも、100人いたら100通り感じ方があるように思う。

 

これをひとたび、組織としてのリスク対策と言う風に、テーマを絞っていくと、難しい話も沢山出てくるが、結局は、人はリスクに敏感な人と、鈍感な人に分かれると思っている。リスクに敏感で仕事ができる人、反対に言えば、仕事ができる人はリスクに敏感である。

仕事に置き換えれば、リスク=仕事に失敗する可能性と言い換えることができる。そうすると、仕事ができる人は、失敗の予兆をどれだけ事前に潰していけるかである。

こういう風に考えると、組織のリスクコントロールというのは、概ね人員の上位20%の人が、残りの80%の人をどうコントロール、マネジメントするかにかかっている。

もちろん、これは簡単ではない。どんな組織でも、あてはまる法則通り難しい。

私たちは、人間を性善説性悪説で考えるのではなく、性弱説で考えて、企業支援のリスク対策の基本の考えとしている。

人間は、うっかりミスをする。これはヒューマンエラーの部類の話である。怠惰であり、規則正しく定期的に継続して何かをすることは苦手だ。まして、発生するかどうかわからないことに対して、来る日も来る日も、対策を含んだ活動を習慣化するというのは至難の業である。

 

個人的に健康管理に置き換えたらよく分かる。

若いときから健康管理をシビアに考えている人は、ほとんどいない。やっぱり、だんだんと歳をとり、どこかに不具合が出てきて、病院通いが増えて、そして、健康管理の大切さに気付く。なかには、ある日突然大病になってはじめて改心する人もいる。

こういう人間の本能的な特性、リスクという意味で言えば、弱点をどうやって克服するか。

こんなことを日々考えながらも、思っていることがある。

 

日本は、私が生まれたあたりの何十年かのしばらくの間、平和過ぎたのだと思う。それだけ安定していた時期が確かにあった。その反動で、今は、リスクに必要以上にナーバスになっているように感じる。

新興国に行くと、それを常に痛感するのである。新興国と比べた今の日本は、とてもリスクが少ない環境にあることは認識しておいた方が良い。

 

 

以上