近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

“果報は寝て待て”は有名な言葉だが実践できるとなお良い

悩みは人間だけが持っている特性らしい。

私は断言できる程の根拠がある訳ではないが、きっとそうだと思う。

 

人間以外の動物が悩むことがあるかもしれないが、私自身が人間として、悩み続け早60歳手前という感じだし、周りの人を見ていても、どうやら悩みのない人はいないようだ。

 

少なくとも私の人生でお付き合いがあった人達の中には、一見、ノー天気という印象の人は少なからずいるが、仲良くなってみると、実際は何らかの悩みを抱えているものである。

 

だから、自分だけが悩んでいるとか、自分の悩みが特別深いとは考えない。私の心の持ちようとしては、人間は動物だけど、悩むという特性があると常に考えている。

こんなことを考えている時間は、悩みがすっと消えて楽になったりするから不思議なものである。

 

悩みとは言い換えれば、心の葛藤度といえると思う。人間は本能的に欲がない人はいない。マズローの5段階欲求という有名な話があるが、どの段階だったとしても悩みがあると思う。

 

食べ物が十分になければ、食べることに関する悩みは生じるだろうし、大金持ちだったとしても、今度は、その使い道で悩むかもしれない。

 

また、人間は社会的動物であるがゆえに、人を常に意識するようにできている。

競争心やライバル心が全くない人は存在しないと思うし、人間は何かと人と比べたがる。必ずしも比べた結果が劣っているからと言って悩んでいる訳ではない。明らかに、勝っているとしてもそれがまたその人の悩みになったりする。

 

もちろん、悩み過ぎると体調を壊したり精神的な不調になったりする。だから、過度な悩みはないほうが良いのだが、悩みが全くなくなることも不可能だと思う。

 

もう15年前頃だっただろうか。姜尚中氏の悩む力という本を読んだことがある。細かい中身は忘れたが、若者よ大いに悩んで悩む力をつけなさい。というような主張だったと思う。

 

私は彼の歯に衣着せぬ発言は好きだったこともあり、この本のタイトルを見た時に迷いなく購入した。私は、すでに40歳を超えていたと思うので、氏の対象読者ではなかったと思うが、本質的には同意するところが多かった。

 

要するに、悩むことは人間だから当たり前。生きている限りは悩むことはなくならない。だからこそ、悩む力を身に付けて、人生を楽しみましょうという風に解釈をした。私の考えにも近い。

 

会社経営で悩むことが多いかと言えば、その答えはなかなか難しい。

創業した時と今では経験も違うし判断力も違う。悩みは常にあるが、創業時の悩みと今の悩みは全く次元と複雑さが違う。言ってみれば、子供の悩みと大人の悩みぐらい違う。

 

そもそも、創業時は、心配が先に頭をよぎる。経験がないからなおのことだ。まして新しいことにチャレンジしようとするタイプだとなおさらだ。

 

ご多分に漏れず、やはり、最大の心配事は資金繰りだ。あとは、顧客からの大クレーム。脆弱な時は、それが即倒産に結びつく。だがら、悩むと言うより心配を常にしていた創業から10年間だったと思う。

 

ある程度、経営慣れしてくると、妙に世の中が見えてきて、ますます悩みは増える。どう進んだらよいか?この方向は正しいだろうか?戦略や戦術という言葉にかぶれ、余計な悩みも増やしてしまう。

 

私も40前後でおもいっきり人生の選択で悩んだことがある。スランプになったのが先か悩みだしたからスランプになったのかは分からない。そんな時は、たいてい人生メンターの一言で蘇る。

 

人生なるようにしかならない。明日は明日の風が吹く。我ことに後悔せず(宮本武蔵)。人間万事塞翁が馬。も嫌いではない。

あれから、もう10年はとうに越えた。私は、悩みで寝られない日はない。

仮にとんでもないぐらいのトラブルを抱えていたとしても、まずは寝る。

 

なぜなら、まずは、体力をしっかり蓄える。心身ともに健康でなければ苦難は乗り切れないからだ。そして、もうひとつは、寝ると不思議とひらめいたり、思考回路も好調になったりする。

 

これだけでも、さっさと寝る意味がある。

それが、果報は寝て待てとはそういう意味ではないだろうかと確信している。

 

 

姜尚中氏の悩む力。人生、生きている限り、悩む力を向上していく必要を実感している。この先、人生で経験のない失敗やトラブルが起こらないとも限らない。

そんなときのためにも悩む力を鍛錬して、いざという時は、しっかり寝ることを優先したい。

 

以上

情報は共有するのではなく醸成する時代へ

情報を制する者はビジネスを制する。

この言い回しが当たり前だと思っていた時代があった。

20世紀の終わりから21世紀にかけて、IT化がビジネス社会を変えつつあった。

同時に、情報が経営の重要な武器になった。

経営情報と私は表現してきたが、顧客情報、コンペティター情報、人事情報、技術情報、クレーム情報など、経営戦略の立案や経営判断に不可欠な情報は増える一方だった。

 

必然的に21世紀は情報の共有化が企業経営の上位の課題となった。

IT業界では、メールの上位の機能を持つグループウェアが一気に普及した。

そして、スケジュール共有から始まって、様々なストック情報の蓄積が加速した。

 

情報共有とは、情報を保有する、あるいは情報を管理する責任者が、共有するべき相手を決めて、その情報をグルーブウェアなどを通じて、共有することだ。もちろん、目的は活用することであるので、共有が目的ではない。

メールのCC機能もりっぱな情報共有ツールと言える。21世紀初頭は、ある程度、企業での情報共有は機能していた時期は確かにあったと思う。

 

実は、私の会社では、企業の情報共有化の仕組み作りや業務改善、関連する社員教育などの仕事を事業の柱にしていた時期がある。

私が処女作“だから中小企業のIT化は失敗する”に続いて、“これで中小企業の情報共有化は成功する”を上梓したことも重なって、情報共有化、IT化の仕事が次々と舞い込んだ。

 

あわせて、全国の商工会議所などからの講演依頼、日経BP社からのビジネス雑誌への連載など、慌ただしい中で、中小企業の現場にどっぷりはまっていた。今振り返ると、懐かしくもあり、充実した日々だったと思う。

 

 

この時期、書籍にも掲載したが、情報共有化のプロセスとして、収集、共有、活用と定義していて、やがて、喧々諤々を経て、醸成が加わった。つまり、収集、共有、醸成、活用と進化した。

 

しかし、今から振り返ると、この醸成というプロセスに関しては、仮説であって、自社の経営でも顧客の企業でも実践している実感はなかった。

今にして思えば、醸成が必要なほど、中小企業では情報を有効活用する段階には至っていなかったのと、まだ、世の中の情報が不十分であったと考えている。

 

私は、中小企業の経営者から情報共有化の次には何があるのですか?と聞かれた時に、それは情報共有化です。と答えたことがある。つまり、情報共有化の目的は情報共有化ですと言う意味だ。

まったく、煙に巻くような話に聞こえると思うが、20年前、感覚的には私は本当にそう思った。

それから10年ぐらいして、自社の経営で自問自答し続けたが、どうも間違いだったことに気づいた。

 

この数年、情報活用に関して大きな変化を感じるようになった。情報の共有では追いつかないほど情報が溢れてきたのである。

 

私の会社が主に情報を扱う仕事であるということも要因ではあるのだが、世間では急速に情報が溢れ出したのである。

この状態を私の昔の定義に当てはめると、情報の収集をするための情報の入手方法が多岐に渡り、しかもグローバルになってきたことが一番の要因であると思う。つまり、収集する気になれば、経営に必要な情報はあらゆるところに転がっているとも言えるのである。

 

こういう状況下で、社内の情報共有化を考えたときに、情報の責任者がいて、それをしかるべき人に共有するということだけでは不十分だしタイムリー性にも欠ける。

まして、あふれる有益な情報を誰かが意図的に必要とする人に届けるというのは不可能に近づいていると私は日々実感して来た。

 

だからこそ、この醸成というのが大きな意味を持つ。

情報をプールする場所(IT用語でいえば、データベース。大袈裟にいえばビックデータ。)を用意して、そこに蓄積された情報が醸成するように触発する。

共有ではなく醸成。

醸成された情報を必要な人が能動的に取りに行き、それを活用する。成功も失敗も含めて、その結果生まれた情報をまたプールする。そして、醸成する。こういう循環によって会社経営に必要な経営情報を醸成し活用する。

 

こういう風に考えると、今私が定義する情報活用のプロセスは収集、醸成、活用であり、共有という言葉は存在しないのかもしれない。存在したとしても、ストック情報の共有ではなくフロー情報の共有だと考える。

 

以上

私の専門はエトセトラ

今の歳になって自分の仕事人生を振り返ることが多くなった。

40年近く働いてきたので、流石に働く人生の判分は過ぎている。

 

思い起こせば40歳になった時、40歳が人生の折り返し点と頑なに私は思っていた。マラソンで言えば、半分を過ぎて、ゴールに向かってまっしぐらという年だった。あれから数えてもすでに20年近くになろうとしている。今はゴールはずっと先である。

 

私は、自分の人生の先のことは、それほど計画的には考えて動くタイプではない。

年が近い友人の中には、今流行りの人生100年時代に備えているものもいる。残りの10年、20年をどう過ごすかを綿密に計画しているのだ。お金のことから、人生の後始末まで。考えてみたら、エンディングノートを始めるにはちょうど良い年かもしれない。

 

私の人生の計画は常に成り行きが基本だが、振り返りはそれなりにする。

その際は10年スパンでよく考えてきた。

会社員時代の20代。創業してがむしゃらに走った30代。40代はほとんどベトナムで過ごした。そして50代の今、体力には陰りを感じるが、気力というかやる気は日増しに増大するばかりの今日この頃である。

 

40年近く働いていると、自分の得意領域や専門分野は幾つかできるものだ。

私の場合は、ITや海外ビジネスがベースになると思う。次に来るのが出版になる。こちらに費やしてきた時間も相当になる。だから、あと数年ぐらいで出版の分野でも専門領域に達したいと思っている。

 

このブログでも頻繁に書いてきたが、もともと、私は子供の頃から好奇心が旺盛で、面白そうなことを見つけると、とにかく、まずは自分でやってみたくなる。

これは今も変わらない。

 

私には大体の毎日のパターンがある。朝目覚めたら、その日にすることや思いつくものを全部簡単にメモに書く。当日が納期の仕事に関わっている場合は、朝からのルーチンも疎かにはなるが、ほぼ習慣化しているので、やろうとしたことのメモが毎日増える。

 

例えば、メモのストックが減ってくると、メモを買いに行くというメモも書く。顧客への重要な提案書を仕上げるというメモも、私のメモでは同列だ。

もちろん、仕事には優先順位はある。そして当然にそれを仕上げるのに要する見積もり時間というものがある。例えば、メモを買う工数は、具体的に書くと近くのダイソーで買うので、行き帰りを入れて合計20分から30分。他の物も買ってくるので、まとめ買いにはなるが。

 

重要顧客の提案書を仕上げる仕事については、ものによるが、私がパソコンで修正するわけではない。アウトプットされたものの要点だけをチェックする。これにかかる時間は、難易度やボリュームによるが、数分から多くても10分程度。

こんな感じで、私のメモに書いたToDoを毎日随時こなしていく。そして消しこむ。

 

もちろん、立場上、突発的な対応を要することは毎日のように発生する。急な電話もかかってくる。合間にSNSに目をやることもある。こんなことをしていると次々とすることが生まれてくる。

 

こんな毎日の私の仕事をどう表現するかと考えていて、浮かんだのが、ETC(エトセトラ)である。

流石に、私は今経営者なので、近藤さんの専門は何ですかとは聞かれない。もちろん、会社の専門はなんですかとは日常で聞かれる。これも当たり前のことである。

 

もし近藤さんの得意分野は何ですか?聞かれたとしたら、私の専門はETCです。と答えてもよいぐらい、今の仕事のやり方を自分では気にいっている。

 

子供の頃に、あれもこれもやりたかった自分が今になって、仕事においてはそれを実現できている実感がある。

だからといって、こういう私のスタイルを誰かに進めようとは思わない。

これは、あくまでも近藤昇という人間の特性に合った自分の仕事スタイルである。

 

誤解を招くといけないので、最後に書いておくと、経営者として、事業をあれこれするという意味ではない。

あくまでも、毎日の仕事をあれこれ考えるという話である。仮に私が日報を書くとしたら、毎日がETCになると思う。

 

 

 

以上

モノづくりの仕事が主役になるために必要なこと

今の日本でも物々交換という習慣はある。

都会ではほとんど成立しない行為だと思うが、田舎にいけば、今でも物々交換はご近所同士で行われる。

 

農家の人が漁師と物々交換する。

これは商売でないとしても、お互いが作ったモノを渡し、相手からモノをお返しに受け取る。立場は対等だ。ある意味、信頼関係があるからこそ、物々交換が成立すると思う。常にこういう信頼関係のある社会はモノが基点に成り立ってきた。

 

 

今、スマホで決済すれば、宅配で家にモノが届く時代だ。

モノがどういう風に作られて、誰がモノづくりに関わっているを知る機会はほとんどない。

 

特に今の子供たちは、スーパーで売られている魚の切り身がそのまま海で泳いでいると思っている子供がいるという笑い話に象徴されるように、実際のモノづくりの体験がないままに大人になっていく。

 

今でもそうだが、モノづくりの人はモノづくりをするだけのことが多く、それを使ってもらう、買ってもらう顧客への対応はモノを販売する側にゆだねる。

こういう分業の仕組みが始まった頃は、販売する側は、流通のプロセスの一部として、作ったものを顧客に届ける重要な役割を担っていた。

それがだんだんと、顧客と販売する人達の都合や論理によって、作ったもの価値が決まってくるようになった。今や値決めをするのは、ものを作る人ではない。

 

こういうことを長年続けていると、モノづくりの側は、ますます、モノ作りだけする人になってしまう。極端な話、頑張って付加価値のある野菜や果物を作っても、顧客や販売する側の力が強くなると、値段は自分達では決められない。

 

そして、総じてモノづくりに従事する人達の報酬は、モノを販売する側の人達より低くなる。

顧客にとって適正な値段は、販売する側が設定する。そのしわ寄せは、モノづくりの方に必然的に来る。モノづくりが魅力的な仕事と思われない理由のひとつでもある。

 

例えば、農業が分かり易い。

今でも、作るだけの農家は沢山ある。

6次産業化の必要性が叫ばれて久しいが、大半の農家は、販売は、農協や食のECをする会社にお任せである。また、大きな市場に出そうとすれば、安定供給を要求される。約束した量を期日に定期的に用意出来なければ、自分の商品を取り扱ってくれない。ますます売り先が限定されていく。

 

私の労働観でもあるが、農家で生まれ育ったこともあり、やはり、モノづくりの仕事は大変だと思う。併せてだからこそ、価値がある仕事だとも思っている。

 

今、ITを上手に使えば、顧客に生産者がダイレクトに販売することが出来る。これは農業に限らず、ITで仕組みを作って、顧客と直に取引できるような仕組みは比較的簡単に作れる。もっとも継続的な運用はハードルが高いが。

 

今は、ここ数年の6次産業化政策の一環もあり、産地直送販売、生産者の顔が見れる購買、あるいは、急発展するECなどがある。例えば、野菜詰め合わせセットを定期的に届けるサービスなどがある。農家が主役になる時代も近いかもと期待は膨らむ。

 

モノづくりといえば日本の中小製造業もそうだ。いい商品を作る力があっても販売が自社でできなければ、企業価値を損なう可能性がある。大企業や中小企業支援団体の類に依存しているだけでは、これから先は存続も危ぶまれる。

 

やはり、モノづくり企業の価値を高めようとすれば、まずは顧客に存在や価値を知ってもらうこと。これは単独でするのではなく、中小企業が横連携をすることも必要になる。

日本の財産でもあるモノづくりのノウハウや価値を未来に継承することも日本の将来には不可欠なことである。中小企業もこれからは主役になって欲しい。

 

他にもモノづくりの仕事は他にも沢山ある。クリエイターや陶芸家、伝統工芸に携わる職人。日本には数多ある。

こういう職業の価値をもっと高めるためには、やはり、その存在や魅力を子供達や海外の人達に知ってもらうことが何よりも大切だと思う。

 

以上

批判するも批判されるも人間には色々なことがある

人に批判されて嫌な気分にならない人いないと思う。

しかし、経営者や科学者、政治家など、批判を受け止めて、対応しないといけないという印象が強い職業や役割も世の中には沢山ある。

 

私の場合であれば、小さな会社でも批判は少なからずある。特に、私は書籍や執筆やスピーチなどで平均的な社長よりは表現する機会が多いので、批判を受ける機会も多いほうだと思う。

 

自分の子供の頃を振りかえると、批判に耐えられるような人間ではなかった頃がある。

どういう歩みの中で今のようになったかは、自分ごとではあるが、妙に興味がある。

 

私は、創業した30代前半は、人が批判することに関しては自分には無縁だと勝手に思っていた。ところが、そうでない現実に気づいた時、結構、繰り返し使っていた言い回しがある。

あの長嶋茂雄だって半分ぐらいの国民には嫌われているかもしれないのだ。と。

 

今となっては、若気の至りと笑って言えるが、30代の頃は、批判されるということにとても敏感であった。丁度この頃、2チャンネルというのが出来て、匿名で人を批判するという行為が一気に流行したが、私の言う批判というのは、実名での批判のことである。

 

匿名での批判に関しては、人それぞれ色々な考え方や意見はあると思うが、私はそういうのは全く受け入れない。よっぽど、やむにやまにやまれぬ事情があれば別だが、基本的に人を匿名で人を批判するのは、正々堂々とした生き方には反すると思っている。

 

実際の世界では、実名の批判に関して悩む人は多い。

クリティカルシンキングという考え方がある。

ウィキペディアによるとこうだ。

 

批判的思考(ひはんてきしこう)またはクリティカル・シンキング(英: critical thinking )とは、あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法である。

 

科学者の世界では批判はあたり前になっている。

誰かが新しいことを発見したら、それを多くの科学者が検証する。反証の意図をもってする人もいる。それに耐えて初めて、科学の世界では、認められる。

 

 

政治とビジネスの世界は全く違うとはいえ、どちらも批判にさらされやすい職業の一つだと思う。有言実行と言う意味での批判、結果責任を取るという意味での批判、組織を動かすそのやり方に対する批判、もちろん、表現することが多い立場であれば、都度の言動に対しての批判。経営者であれば、ステークホルダー(利害関係者)のシビアな意見。大抵は建設的な厳しい意見が多いが。

いずれにしても、人は人から批判されるのは好きではない。

 

この本能的な性に打ち勝つために、どうぞ批判してくださいという姿勢でいるというよりも、批判をうける前提で、想定して力をつけておく。

 

想定問答ではないが、意見や質問に対して、答えを考えおく。想定外の批判でもメンタル面ではしっかり対応できるように訓練しておく。こういう日々の努力が大切なのではないかと思う。

 

最近あまり聞かなくなったが、イエスマンばかりになると危険だと言われていた時代があった。最近、話題にならなくなった原因の一つは、結構、オープンな時代が来たからだと思う。世間からの批判や顧客からの批判、社会からの批判が経営者に届きやすい時代なって来たのではないだろうか。

こんな時代だからこそ、組織を引っ張る立場に限らず、批判を建設的に受ける準備が必要ではないかと思う。

 

以上

人間は自分の特性や性格にあった失敗をする

世の中に失敗経験のない人はいない。

人間だけとは限らないだろうが、特に人間は失敗を経験し、それ克服を糧にして成長する。

また、アグレッシブな人は、失敗は挑戦にはつきものだと当たり前に思っているので、“失敗は失敗と思わなければ失敗ではない”“失敗は諦めなければ失敗にはならない”。色々と言い方や表現はあるが、とにかく、失敗を肯定的にとらえる。

 

私もどちらかというと、そういうタイプではあるが、流石に事前に防げる失敗は事前に防ぎたいとも強く思っている。

それはリスクマネジメントとも言えるが、組織や社会の仕組みとしての失敗はとても複雑であるので、今回はシンプルに人間個人として、どういう時に失敗しやすいのか?ということを改めて考えてみる。

 

人の性格や行動の仕方というのは実に千差万別である。そして、失敗の起こし方や失敗の種類も色々とある。

 

自分の事もそうだが、長年、仕事で人と関わっていると、やはり、失敗はその人の性格や特徴と因果関係にあることを確信する。

 

私は、自分で言うのもなんだが、どこかでサービス精神旺盛だ。だから、結構ノリでOKということがもある。特に30代は、今から振り返るとあきれるぐらい多かった。

 

例えば、飲み会の設定で、ダブルヘッダーになってしまうことが時々あった。これはスケジュールの都合上、タイトでそうしたというよりも、すでに一つ目の飲み会が決まっていても、目の前の相手と盛り上がってしまい、後先考えずに、同じ日に飲み会を約束してしまう。普通では考えられない行動かと思う。

 

流石にこの10年は皆無だったが、若い頃は時々やっていた。もちろん、体力もあったし、特段、大きな支障はないのだが、いずれにしても、自分自身が慌ただしくなる。一人目の相手と飲むお酒も食事もセーブしてしまう。特に、料理がそうなる。

 

今となっては些細な失敗だが、こういう行動というのは、改めて分析すると自分の特徴である。子供の頃に、よく母親から、“お調子もの”と言われていた。

大人になって、サービス精神旺盛とプラス思考で考えていたが、やはり、それが災いすることがある訳である。

 

経営的な話を一つすると、経営者にもタイプが色々とある。適性検査がある訳ではないから、誰が向いているいないもないし、必要なスキルの基準はあるようでない。

 

しかし、経営者の特性や性格によって、事業のスタイル、経営のやり方は変わる。

私で言えば、先ほど書いた調子乗りの要素がベースにある。

人がしないことに興味があることに重なって、サービス精神旺盛で失敗することは多々ある。30年近く経営をしている中では、もちろん、失敗を反省し次に活かすことは当たり前にしているが、だからといって、自分の特性や性格を嘆くわけではなく、どういう失敗につながりやすいかを把握すると、結構、事前の対策はし易いのである。

 

世の中には実に多くのタイプの人がいるが、例えば、おっちょこちょいの人。

こういう人は、仕事では、早とちりが多くなる。道を間違えた。買うものを間違えたぐらいなどはまだよいが、仕事では致命的になりかねない。

 

楽天家の人は明るい。しかし、とこかで、慎重さに欠けることが多いと思う。だから、蟻の一穴に気づきにくい。

 

一方で、心配性で何事も100%の確証がないと事を始められない人。こういうタイプは品質管理や検査にはピッタリだ。一方で、例えば、新興国のビジネスを担当するのは難しい。

 

また、人間というのは単一的ではない。

様々な特徴が混ざっている。だからこそ、失敗の原因を突き止めるには、短絡的に考えてはいけないのである。

 

人間には、性格や特性に限らず、根底には本能的ともいえるヒューマンエラーもある。

ただ、一つ言えることは、どんな人でも“人間は自分の特性や性格に合った失敗をする”のである。

 

 

 

以上

定例ミーティングより臨時ミーティングがはるかに重要

ビジネスにはミーティング(以下MTGと表記)は欠かせない。

私も、働きだしてからこの方、MTGというものに何回出席しただろうか?

 

社会人新人の頃には、右も左も分からないまま、部会や仕事のMTGに出ていた。

今でも覚えているが、初めて部会に出席した時に、何か意見は?と聞かれて、この会社(部)は、殺伐としていますねと発言したこともある。

 

それこそ、TPOを考えずに思っているままを話した。数日して、自分の発言を悔やんだが、今にして思えば、表現力の問題で、要はコミュニケーションが良好ではない。ということを言いたかったのだと思う。

 

35年以上も働いていると、MTGはおそらく軽く1万回は越えていると思う。実際に数えたことはないが、仕事にはMTGは欠かせないと思っている。

MTGを分類すると細かく分けられるが、今回は開催パターンとして、定例MTGと臨時MTGに分けて、考えてみる。

 

 

 

どんな会社にも定例MTGは付き物だ。

先ほど書いた部会にしても、月一回の定例会議である。そうすると一般的には、課の会議、係の会議という風にMTGの目的と参加メンバーが変わり定例で行われる。

 

仕事の点検のための会議なども定例MTG化される。取締役会なども便宜上MTGと括って考えるが、一般的には、定例の取締役会ということになる。

 

基本的にどんな会社もPDCAサイクルに則って会社が活動する。必然的に、定期的なMTGはPDCAサイクルを機能するための重要なアクションになる。

 

定例MTGのメリットを考えてみる。

仕事が忙しい人ほど、日常は、集中力も高い中で目の前の仕事に忙殺される。突発的な仕事も日常で発生する。そういう日々が続くと、会社の健全な活動のための先に向けての仕事が疎かになる。また、何事もそうだが、定期的な点検と言うのはリスクヘッジにもなる。

 

定例MTGに必ず出席するということを基本にすると、仕事がPDCAサイクルのリズムにのって、円滑に進む。

 

一方で、定例MTGはマンネリ化を招きやすい。

月次ならまだしも、週次単位ぐらいになってくると、いつものメンバーでいつもの議題となりがちだ。こうなると、人間と言うのは、複数で集まっていることがかえってマイナスになってくる。きっと、誰かがするだろう。前回の議題も今回の議題も大して変わらないから・・と思って、集中力が欠けることになる。

 

だから、私は、自社のメンバーには、毎回変化をつけるように求める。アジェンダにしても、書き方を変える。色を付ける。並べ替えをする。ということもある。いずれにしても、マンネリ化を防ぐ工夫が大切である。

 

臨時MTGはどういうタイミングで開催されることが多いかというと、トラブルやクレームが発生した時だ。

 

つまり、日常業務で何か問題があるから、至急の対策が必要ということになる。自ずと緊張感は高まる。リスクマネジメントの中の危機管理で考えれば分かり易い。今問題が発生している危機の最中であるとなれば、至急の対策を講じる必要がある。最速で臨時MTGが設定される必要がある。これは緊急MTGでもある。

 

また、あらたに事業の創造や新規の受注プロジェクトなどでも臨時のMTGが必要になる。定例MTGと比べると、臨時MTGの開催は、ムラができやすいが、頻度は断然多くなる。

 

もし定例MTGが皆無で、臨時MTGばかりの会社があるとしたら、それは問題で、行き当たりばったりの仕事が横行していくことになる。臨時MTGの開催のタイミング、招集メンバーの選定、目的の設定、開催そのものの責任も重い。

いずれにしても、臨時MTGを機能させるためには、開催者の手腕が問われる。

 

結論を言うと、定例MTGと臨時MTGはしっかり使い分けないといけないし、開催頻度の観点やその目的からしても、両方をバランスよく設定しないといけない。

 

会社全体の視点もそうだが、出席する社員から見たら、例えば、臨時MTGにはよく招集されるが、定例MTGには出ていない。というようなことがあってはならないのである。

 

以上