習慣化できるかどうかは仕事人生を左右するか
私は農家で生まれた。
だから、私の労働観は何年たっても、両親の姿であり農業というモノづくりの仕事が原点にある。
子供時代の体験といえば、毎日やんちゃして過ごしていた。遊びと言えば、ほぼすべてが自然の中だ。川で魚を釣り、海で貝をとり、草むらでかくれんぼする毎日だった。
同時に、農作業に明け暮れる両親の背中をずって見ていた。
中学校になり、大人になったらどんな仕事をしようかと意識が芽生えてきたと記憶している。多分、学校でもそういう話題も増えてきた。中学時代の私はなぜかタクシーの運転手になろうと思っていた。タクシーに乗った体験もなかったかもしれないのに、なぜそう思ったかは覚えていない。
多分、農業という仕事がとにかくしんどそうで、かつ、重労働に思えたからだと思う。もっとも、私は、次男なので一般的には、農家の後継ぎではない。だから、気楽に考えればよいものを、なぜか子供心には、とにかく農業が嫌に思えていた。
小学校の3年生ぐらいから、繁忙期は、来る日も来る日も農家の手伝いを親父から割り当てられた。それこそ働かざる者食うべからずだ。農業はいまでもそういうところがあるが、家族は皆労働者だ。
こんな環境で親が働く姿を見て、働くことや仕事を意識してきた。
今、会社経営をしていて、仕事人生を振り返ると、ビジネスの世界ですでに40年近くになってきた。この先、あと10年、20年ぐらいは何かはしていると思う。
改めて仕事で一番大切なものは何かと聞かれたとしたら、迷いなく習慣化と答える。
私自身の経験上もそうだが、人間はとにかく習慣化が苦手だ。そもそも動物としての本能的な性質からいえば、本来は習慣化は不要なことではないかと思う。激しい生存競争の中では、習慣化だけで生き延びられるとは思わない。今は漠然とそう思っているが、機会があれば、このあたりも学んでみたいと思う。
実際、私も仕事を通して、数多くの習慣化の現場に遭遇してきた。
見よう見まねで始めた会社経営だったが、創業時は社員教育に明け暮れた。今にして思えば、素人集団同然の50人ほどの社員をどうやって習慣化するかに腐心した。それも組織の方針や目的をしっかり理解させて、その実現に向けて、一人一人の習慣化を実現する。そして、それをチームとして組織的に習慣化する、こういうプロセスだった思う。
顧客に対しても数多くの業務改善支援やIT導入支援なども現場で手掛けていた。私は結構、現場が好きで40歳前後の時は、こういう現場で働くことにのめり込んでいた。その後ベトナムでも社員教育サービスの現場を数多くこなした。
この時期に悟ったのが、国は変われど人間はみな一緒である。日本の企業でも、外からはすばらしい企業をに見えていても、きっちりした組織のように思っていても、中には入ってみたら皆課題は一緒である。
そうして私の得た結論というか本質的なことは、元来人間は怠け者であるということだ。
だから人間は習慣化が苦手な動物である。
そうして私の会社では性弱説を企業支援や社員教育支援の原点にするようになった。
まずは、自分の会社で試そうと思って、あの手この手で習慣化に取り組んできたつもりである。
私はどうなのかといえば、もちろん、私も習慣化は苦手である。私の子供時代、学生時代、20代の社会人の時、このあたりで私のご縁があった人達から、私の通信簿をもらうとしたら、落ち着きがなく、飽き性で、継続性がないと評価されるだろう。
私は動物的な感覚で過ごしていた時期は、怠け者だった。自分のことを書き出したらきりがないのでこのあたりで止めておくが、冒頭で書いたが、今にして思えば、農業を営んでいた両親は習慣化の塊だったように思う。
毎日ほぼ同じ時間(もちろん、農業なので季節変動はある)に起床して、毎日同じような仕事をして、毎日似たような商品(サツマイモや大根)を市場にもっていく。少なくとも農繁期には数か月はこういう状態が続く。こんな姿を身近で感じていて、私は、自由に見えるタクシーの運転者に憧れていたような気がする。
もちろん、今は、タクシーの運転手も習慣化ができていないと務まらないと分かっているし、どんな職業もしっかり働いて評価されている人は習慣化ができている。
逆に言うと、習慣化できなくては、一過性で結果は出せても中長期的には不可能だ。
色々と書いたが、最後にまとめてみる。
働きだした最初から仕事のレベルにおいて、習慣化できている人は極めて少ない。
働きながら少しずつ習慣化は身に付けるものだ。
特に駆け出しのころに習慣化を体で覚える。そうすると、一生、習慣化の毎日を前提で仕事に取り組むことができるようになる。
結果的にどんな職業でも務まる。
働いて対価を得るためには、やはり、習慣化が前提の経済の仕組みの中に適応しないといけない。習慣化するのは大変だけど、身に付けてしまえばどうってことはないのである。
以上
良いものが売れるのではなく売れるものが良いものである時代
今、日本も子供の時に商売を学ぼうという動きがブームになりつつある。
米国などでは、どうやってお金を稼ぐかを子供の時に学ぶのが当たり前である。
例えば、目の前にオレンジがある。これをジュースにして付加価値をつけて売る。
そして、利益を獲得する。それが商売である。こんな風である。
私は、今でも経営は、たこ焼き屋のおじさんに学べ。で十分だと考えている。
10年ぐらい前まで、近くのスーパーの軒先でおじさんがたこ焼き屋をしていた。私はたこ焼きが好きで、よく買いに行った。自然と仲良くなった。必ず、良く買ってくれるからと2個おまけを乗っけてくれる。
毎回なので、おじさんはこうやって、顧客にサービスしているんだと妙に嬉しくなったことを思い出す。いつかは、このたこ焼き屋さんをモチーフに大人も子供も学べる商売の本を書けたらと思っている。
良いものが売れるのではなく売れるものが良いものである。
今のマーケティングの主流の考えだ。
これを今の子供たちが、知ったらどう思うだろうか?
私も、起業して以降、色々と商売を学ぶ過程で、定説のように言われているこの考えに出合った。
これは、マーケティングや販売促進を考える時のよりどころとなっている考えである。
この言い回しは、スっと受け入れて、この考えに則てビジネス活動すれば、すんなりと商売としては儲けにつながるというのは私も理解している。
ただ、この言い回しをかみ砕いていくと、中小企業の悲哀や、ものづくりの仕事をする人の弱点が浮き彫りになる。
更には、この考えが主流になってしまったら、最終的には顧客が損を被ることにもなりかねない。
実は、出版会社の経営に関わって20年近くになるが、この業界も良いものが売れるのではなく売れるものが良いものであるの典型的な業界だ。
まず簡単に出版ビジネスの流通を説明する。
日本には再販制度というのがあって、今でも新品の本は値引き販売は出来ない。
版元である出版会社が著者の本を制作する。そして、取次という卸を通して、日本の書店に配本される。基本は委託であり、売れなければ返品される。
どんな商売も一緒ではあるが、出版業界はとにかく新刊本が次々登場する。回転がとても速い。本屋に行けばよく分かるが、平積みという場所と棚差しという場所がある。
平積みの方が圧倒的に顧客の目に留まる。とうぜん、その場所に本を並べたい。だから、せっせと、出版会社は書店営業をする。売れ筋ベスト10の場所に並べばなお良しだ。こういうポジションを獲得する方法は幾らでもある。
今回は詳細は割愛するが、本を売るためには、新聞広告は絶大な効果がある。たちまち、増刷、重版という言葉が飛び交うあの広告だ。
アマゾンにしても、似たり寄ったり、広告で本は売ることが出来る。
いつの時代も売る気になって、それなりのコストをかけて、売っていけば、たちまた増刷、重版となって行く。こうやってヒット商品は作られるのである。
もちろん、本の出来がどうしようもなければ、結果も出ないが、平均以上の本であれば、売ることによって良い本として認知され、良い本が売れる構図にもハマってく。
多かれ少なかれ、今の商売の本質はにたようにものだ。
技術系の中小企業が幾ら世界に一つしかない特許を持っていても、マーケットに訴求して、売る努力ができないと意味がないのである。農業にしても同じだ。有機野菜でどんなすばらしい野菜でも、客の目に届かなければ買いようがない。
こんなことは枚挙に暇がない。
この10年ぐらいで、サプライチェーンの見える化が進行しつつある。特に顧客が知りたい生産者や中小企業の情報がオープンになりつつある。
私は大いに期待している。今までは、顧客に近い側で、情報が限定化されていた。
これからは、生産者に近い側の情報がオープンになる時代だ。
そうすると、昔の日本にはあった、三方良しの時代が戻ってくる。
それは、良いモノが売れる。時代である。
以上
最近学生との会話が増えて想うこと
世代間ギャップはいつの時代にも話題になる。
今、日本人の平均年齢が48.36歳(2020年)で、私は58歳なので、人生の後半であるのは間違いない。
世代をゼネレーションと呼ぶこともあるが、だいたい10年刻みで考えるのではないかと思う。
私は今、80歳代のシニアの方と仕事の話も頻繁にするし、シニアの方と色々と活動することも多い。もはや、70代の方々とのおつきあいは、高齢者という感覚ではなく、普通に仕事のパートナーという立場でアクティブな活動である。
一方で、最近、大学生とのコミュニケーションが復活して楽しくて仕方がない。
もともと、28年前の創業時は、私も31歳で、ITの仕事をしてもらうために学生インターンを受け入れていた。その当時で彼らと私の年齢ギャップは10歳程度。
まあ、私はその頃は全く社長然とは程遠かったし、私もノリは良い方なので、10歳の差すら感じずに一緒に働いていた。
今、オンラインでのインターンを中心に学生たちと一緒にしている中で、時々私も学生とMTGしたりオンラインでのトークセッションで一緒になったりする。
私は感覚的には、学生と話するのは自然体だが、果たして学生からしたらどう思うのだろうかと時々考えることがある。
単純に考えて、35歳から40歳近い差がある訳である。ゼネレーションギャップどころではない差だ。これは、私の80代のシニアの方とのお付き合いでも30年のギャップがないことを考えると、相当な開きと言える。
ところが、自分で言うのもなんだが、そんなギャップを感じることはない。
しいて言えば、自分の子供より下なんだと考えたときに、現実に帰るような時もあるが・・。
私の学生の時は、本当に気の合う仲間だけと4年間過ごしたので、あまりにも同質化していたと思う。だから、自分と似たようなタイプの友達としか過ごしていないので、他の学生がどんなタイプか何をしているのかはあまり知らなかった。
最近、学生と話しするようになって、私が学生の頃の自分のタイプとは全く違う人たちと会話していることに気づくことがある。
例えば、私は、いまでこそ、社会課題解決に取り組んだり、地球環境のことや日本の高齢化社会の課題解決などに強い関心を持っていたりする。ビジネスとしても関連あるところも多い。
しかし私は、学生時代は、その日暮らしの典型で、世の中の事や自分の将来のことなど考えることはなかった。
あれから40年近くたって、それこそ、自分の学生自体は棚に上げたうえで今お付き合いしている学生の皆さんは、とても問題意識が高いと思う。
時々、シニアの事やネット社会の事などについて意見交換しても、しっかりとした考えはあるし、若者目線という事だけでなく、新鮮な切り口はとても参考になる。
凡庸な社会人としゃべっているよりよっぽど、脳が刺激される。逆に、彼らにとって何かプラスになれる立場でいようという緩やかな緊張感も芽生える。
まあ、そもそも、インターンをしようという学生は問題意識が高いのかもしれないし、今の当社が推進していることに関わってみようと思う人は、社会的意識が高いのかもしれない。そんなことをあれこれ考えながら、今も学生との型のない会話を楽しんでいる。
一つ言えることは、今関りがある学生の皆さんにとって、学生時代にブレインワークスという会社と縁があって、そこに近藤昇というちょっと変わったことをする社長がいて、実際に仕事に関して対話して一緒に活動して・・。
こういうことが彼らが40歳になった時、更には私の今の年齢になった時に、彼らの記憶の片隅にでも残っていたいという願望に近い気持ちがある。これは反対のことを言うと、70代、80代の方々との付き合いとは心持が全く違う。
そうシニアの方々の想いや考えは、伝承して伝えていこうという立場、若者に対しては将来を託すという気持ち。
私が、こんな間の立場にいるが故に、世代間ギャップというのは、結局は、考え方と気持ち次第だと思う。ギャップがあるのは当然で、あると思うも、ないと思うも自由だと思う。
以上
直接の面会にこだわりすぎるは会社の衰退を招く
人に会うのが楽になった今、ビジネスのスタイルは変化の真っただ中である。
そもそも、ビジネスにおいて人と会う目的は何かを考えてみる。
対外的な人との接点という意味で考えると、営業商談、ビジネス交流会、アライアンスに関わる面会、人材の採用などが思いつく。
あとは、信頼関係を構築するための食事会などがある。
ビジネスで人が会う機会の中で一番頻度が多いのは商談である。商談の大半は営業行為である。
コロナ禍以前であれば、基本的な営業は、売り込みたい会社の営業パーソンが顧客を訪問する。
もちろん、新規開拓においては、訪問先を獲得するのにとても骨が折れる。
テレアポや飛び込み営業も決して昔のことではない。少なくとも、コロナ禍で激変したと予想するが、果たして今後、主流のコンタクト先開拓として復活するかどうか・・・は微妙だ。
私も長年、自社の顧客開拓や営業活動、それと支援企業のこれらの活動に関わってきて痛感しているが、顧客開拓や営業活動にかかるコストは、企業活動の中で相当な比重である。
以前もブログに書いたことがあるが、特にBtoBの営業は、コロナ禍で一気にオンライン化が進行すると確信している。それがIT活用全盛時代のあるべき姿でもある。
例えば、私が、会社運営に必要なものを買いたいときに、営業パーソンに面会の提案を今受けたら、100%オンラインでお願いする。
では、直接会うとしたら、とんな場合だろうか。
それは、その営業パーソンそのものに興味があり、人間関係を構築したいと強く思っている時である。だから、これからは私に商品を売りこむ時に、ぜひ直接会いに来てください。と私に言われたら別の目的があると思っておいた方が良いです。
もっとも、世の中が変化するときは時間がかかるので、今まで通りの営業スタイルも今後10年は継続されるだろう。一方、いちはやくオンラインに切り替える会社もどんどん増える。いわば、混在した状態の10年になると予想する。
では、営業以外でのビジネス活動で考えた時、やっぱり直接会いたいよね。というのはどんな時だろうか。
それは、ズバリ、ここだけの話がしたいとき。
私は、情報セキュリティに関するビジネスもしているので、オンラインのセキュリティリスクは理解している。感覚的には、一般の人は実際のリスク以上にオンラインには不安を感じている。だから、オンラインではここだけの話はしにくい。
やっぱり、ここだけの話というのは、非言語的な要素でコミュニケーションが必要なシーンが多い。五感をぶつけ合う感じだ。
会社の資本提携や大トラブル、深刻な悩み相談など。結構ここだけの話をしたいときは沢山ある。超機密事項などの会話、つまりヒソヒソ話はオンラインには似合わない。
まあ、少し色々と考えてみたが、オンラインのツールは結局ツールなので、個人個人が自由に使えばよい。特にプライベートな生活に関係する使い方は、全く個人の自由だろう。
一方、ビジネス活動は、常に根底には合理化、効率化そしてコスト削減が要求される。
そう考えてみると人に会う行為ぐらい時間を使い、コストも労力も必要になることは他にはない。
この部分の合理化を意識した上で、それでも必要なここだけの話をする機会やとっておきの面会とオンラインを使い分けるスキルを個人個人が身に付ける必要がある時代になりつつある。
当然、会社も千差万別。IT社会の進化にすばやく適応することがベストではあるが、現実はそうはいかない。
直接の面会にこだわりすぎる会社は、企業の衰退リスクにすでに直面しているといっても過言ではない。
アナログが良いのは間違いないが、何が良いのですかをちゃんと答えられる会社や経営者はまだ少ないのが現状である。
以上
書くことによる表現が重要視される時代へ
表現者が一気に増えた。
特に、SNSやネット専用チャンネルでの動画配信やライブ配信が顕著だ。
スマホを使ってさっと検索するだけで、幾らでもこういう表現者を見つけることが出来る。
言うまでもなく、プロではない人が圧倒的だ。
私の言う、表現者とは、自分の考えやノウハウ、体験や面白い話などを誰かに伝える人である。伝える相手は、明確にターゲットが絞られているケースと不特定多数を相手にしたようなケースの大きく二種類に分かれると思う。
やり方としては、動画を使うことが今は流行っている。他にも手段は色々とある。2000年代から使われ出したブログがある。
ビジネスではメルマガもよく使われていた。表現するという方法の中で、実現のハードルがやや高いのが、講演である。
少なくとも少し前までは、聞く相手が必要だった。この1年で、オンラインセミナーが普及したのでこの世界でのハードルはそう高くなくなった。
何よりも一番難しいのが書籍である。一冊の書籍は最低でも数万文字の原稿が必要で、これだけのことをちゃんと商品にするには結構な労力が必要だ。もちろん、コストも。
あとは、ラジオ番組に出るという方法もある。最近は、ラジオ番組がネットと融合して、結構大衆化してきた。そして、テレビ番組という手段もあるが、これはレアケースだ。費用を支払えば、出演できる番組も意外とあるが、表現の場所としては、なかなか難しい。
ざっと、私が考える表現者とその手段について書き出してみたが、大きく分けると、書くと話するに大別されると思う。
先ほどもブログが登場した時のことを書いたが、20年ぐらい前から、多くの人がブログで自分の表現を発信するようになった。
いまでこそブログは手軽に情報発信できる手段として定番化したが、それでも初めての人にはハードルは高い。まず、自分の考えを文章にまとめるのはそれなりのスキルが必要だ。そして、それを投稿するには結構勇気も必要だ。
個人にあてる手紙とは違う。誰が読むか分からない。もしかしたら、悪い反応があるかもしれない。何か問題を引き起こすかもしれない。内容によってはとてもナーバスになる。
書くという事は、活字として残るし、ましてネットであれば、幾らでもコピーできてしまう。永遠にも残る。慣れてしまえばどうってことはないが、最初のハードルは高い。
話すことはどうだろうか。
話するということは、普通は顔出しする。自分が話している姿、態度、表情も含めて表現すると言うことである。ノンバーバル(言葉を用いない、または、非言語)の部分を全開で表現することになる。
書くのとは全く違う。書くこと以上に、自分の人格や特徴をさらけ出すことになるので、ブログよりもハードルが高いと思う。しかし、これは話する場所によっても違う。
例えば、従来からの会場でのセミナーで話する場合で考えてみると、その会場にいる聴講者のみに自分をさらけ出すことになる。
それが今のようにオンラインであると、聞いている人の顔が見えないことは多い。ここでのハードルがある。やっぱり、顔が見られないと話ができないと言う人も多い。いくつかの段階があるが、今、一番神経を使うのは不特定多数に対して、ライブで話することだろう。
私は、話することも書くことも本業の一つなので、現時点で考えられる表現の手段は全部体験している。その中で、これからは、書くことによる表現がますますクローズアップされてくると思う。要するに文章の価値が増大する時代が来たと思う。
その理由は幾つかあるが、一つは、話による表現が巷に溢れすぎている。ネットの動画が珍しかった時代は良かったが、量が多すぎて選ぶのも大変だ。また、コンテンツもすでにテレビとの境目がなくなってしまったものも多い。話し言葉を大量に聴くのは疲れる。また、聞ける場所も限定される。だからこそ、文章の価値が高まると考えている。
もう一つは、やはり、書き言葉の方が信憑性が高いと考える。理由を簡潔に書くと、話することよりも書くことの方が難しいからだ。話は仮に記録される時代だとしても、話はあいまいで思い付きでしゃべっても許容される。
話とはそういうものだし、聞く側もそういうつもりで聴いている。一方、文章はそうではない。ちゃんとしていないといけない。嘘や誇張を書くと価値が減衰する。
私自身も今まで、書くよりも話してきた時間の方が圧倒的に多いので、今後は、書くことをもっと集中しようと考えている。
以上
情報に対して飢餓になる事も時には必要
一つの健康法として、断食というのがある。
人間の体は、遺伝子的に、断食を経験するととても健康的なメカニズムが働くようだ。
これは、最近読んだLIFE SPANに書いてあったことである。
昔からこういう類の話はよく聞くし、実際、私は、時々、ダイエットのために1か月ぐらいは食事制限する。断食ではないが、通常より食事量を2/3ぐらいに減らすと体重は減るのはもちろんのこと、体の調子がよくなるように思う。
多分、断食のメカニズムと似ているような気がする。
日本のような贅沢な国では、一般的には食べるものには不自由しない。お金さえあれば、なんでも食べられる環境なので、欲を抑えるのも大変である。
また、美味しいものを毎日食べていたとしても、人間にはやはり飽きが来る。
せっかくの美味しい食事の感動も薄くなるし、満足度も下がる。
やはり、あり過ぎというのは人間にとって良くないことだと思う。
本題に移るが、今、情報過多と言われている。
インフォデミックという表現もこのコロナ禍で拡がった。情報がありすぎて、たいていの人は混乱しているし情報に振り回されている。
脳が常にピリピリと活性化していることに、私自身も気づく時がある。
食事でいえば、お腹いっぱいという感じだ。
もうこれ以上、結構です。
こういう状態に陥ってしまうと、折角の新鮮で有益な情報でも、その価値を見損ねてしまう。
私は、時々、社員に話しながら、自分自身にも戒めてきたことがある。
私はこの30年、経営をしているので、経営に関する情報を見つける事には敏感だ。
ただ、私自身でも創業時の方が、一つの情報に対しての扱いは今よりも遥かに研ぎ澄まされていたように思う。
例えば、顧客開拓に関していうと、創業時はどの会社でもそうだが一般的には顧客開拓は大変だ。会社の信用も無ければ、顧客になる可能性がある情報を見つけるのも大変。
だからこそ、たった一つの経営者の連絡先がとても貴重なのである。新聞記事一つでも、なにかピンときたら、それをてがかりにビジネスチャンスを見つけるために必死でその情報を大事に扱う。
数が少ないということは、それだけ情報に対する感度は磨かれる。
あくまでも感覚的なものだが、私の場合、今の情報量は創業時の1年が今の1日ぐらいに相当する感覚だ。これは嬉しい悲鳴でもありながら、結局は一つずつの情報にきっちり向き合えていないということでもある。
だから、創業時に比べると自分自身の情報の感度は鈍っているのではないかと疑いを持っている。
実際、数が多いと、そこからスクリーニングする情報の質は高いことが多い。だから、大多数の他の情報は必要ないという言い方もできるが、ビジネスの成功原則から考えると、誰でもが価値を認める情報が本当に価値なのか?ということも言える。
中小企業の社長であれば、1年にたった一つの情報で、会社が大転換した、飛躍したという事は皆経験していると思う。
こういうレベルで情報を考えた場合、情報は数ではないことは分かる。だからと言って、必ずしも質でもない。
情報が幾らでも入手できる贅沢な環境では、情報感度を磨くのはなかなか至難の業だ。
食事でいえば、断食とまではいかないが、やはり、定期的にダイエットをすることに近い取り組みが必要だ。新しい情報を探すよりも、今、自分の周りにすでにある情報を大切に思い、見直してみたら、思わぬ成果につながることは多々あるのである。
常に新しいことばかり追っかけるのではなく、今すでにある情報を大切に扱う。情報感度を磨くための大切なポイントである。
以上
ビジネスの交渉は得意ですか不得意ですか?
ビジネスに交渉は付き物だ。
よく使われる別の表現では、ネゴがある。
英語でNegotiation。
交渉力がビジネスパーソンの重要なスキルの一つであるのは間違いがない。
ただ、交渉と言うからには、交渉力が必要な職種は限定される。
交渉するのは誰とするかということがあるが、企業経営の観点から言えば、ステークホルダー(利害関係者)との関わりには、交渉と言う要素は少なからずある。
身近なところでは、営業において、お客様との値段交渉であろう。
これは、一般的にも自分が買い物客になった時に、値段交渉をするということとも近い。日本だと大阪商人の世界の印象が強いが、ベトナムなどでは大人は当たり前として、子供も交渉してなんぼで育てられている。逆に言うと、買い物した時など値切る力がないと話にならないのである。
ビジネスでの交渉と言えば、やはり、業務提携や資本提携を行う時が最難関だと思う。
言い方を変えれば、アライアンスという表現になるが、WinWinが良しとされる現代において、WinWinの関係を構築しようとするのは美しい話だが、実際はなかなか折り合わない。利害の相反は頻繁に発生することである。
私の経験で言うと、日本国内での交渉よりもやはり海外の方が難しい。
日本国内では、大手企業とのアラインスも行ったことがあるが、大企業同士ではないので、当社クラスだとせいぜい相手は一部署である。だから、会社対会社の交渉レベルではない。
一方、中小企業同士のアライアンスは中々骨が折れる。双方とも生き延びることに必死であり、そうなると、WinWinになる連携を見つけて、契約に至るのはとても難しい。もちろん、それを実現して収益向上などに反映することはもっと難しい。
海外は、私は新興国経験が主であるが、韓国人、台湾人、中国人、ベトナム人など、新興国のこれらの国は交渉力には長けている。逆に言うと、日本人には交渉力は強くない人が多い。
経営者はともかくも、一般のビジネスパーソンに交渉は得意ですか?と聞けば、大半が苦手と答えると思う。
交渉は、順調に行けばよいが、決裂すこともある。必ずしも合意に達するとは限らない。
やはり、目の前の事においてハングリーな環境にいる方が強い。なにせ。必死なのであるから。交渉には理論やエビデンスは必要だ。だが、ハングリーさに勝るカードは他にはそれほどない。
交渉の過程では、交渉に使えるカードを何枚持つかも大きく結果に影響する。
交渉と言えば、トラブルの際の民事裁判というのもある。
これも交渉のうちの一つだろう。大抵は、和解で終わるのだが、こういう事後処理的な交渉も基本は一緒だ。交渉には、とっておきのカードが必要である。争いごとであれば、証拠という事になる。
正直言うと、ビジネスで交渉がなければ、とても良好な気分で仕事ができるのは間違いない。が、現実には不可能だ。交渉力は個人のスキルによるところも大きいが、組織的な交渉力の強化が重要な時代だと思う。
以上