近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

書くことによる表現が重要視される時代へ

表現者が一気に増えた。

特に、SNSやネット専用チャンネルでの動画配信やライブ配信が顕著だ。

 

スマホを使ってさっと検索するだけで、幾らでもこういう表現者を見つけることが出来る。

言うまでもなく、プロではない人が圧倒的だ。

 

私の言う、表現者とは、自分の考えやノウハウ、体験や面白い話などを誰かに伝える人である。伝える相手は、明確にターゲットが絞られているケースと不特定多数を相手にしたようなケースの大きく二種類に分かれると思う。

 

やり方としては、動画を使うことが今は流行っている。他にも手段は色々とある。2000年代から使われ出したブログがある。

 

ビジネスではメルマガもよく使われていた。表現するという方法の中で、実現のハードルがやや高いのが、講演である。

少なくとも少し前までは、聞く相手が必要だった。この1年で、オンラインセミナーが普及したのでこの世界でのハードルはそう高くなくなった。

 

何よりも一番難しいのが書籍である。一冊の書籍は最低でも数万文字の原稿が必要で、これだけのことをちゃんと商品にするには結構な労力が必要だ。もちろん、コストも。

 

あとは、ラジオ番組に出るという方法もある。最近は、ラジオ番組がネットと融合して、結構大衆化してきた。そして、テレビ番組という手段もあるが、これはレアケースだ。費用を支払えば、出演できる番組も意外とあるが、表現の場所としては、なかなか難しい。

 

ざっと、私が考える表現者とその手段について書き出してみたが、大きく分けると、書くと話するに大別されると思う。

 

先ほどもブログが登場した時のことを書いたが、20年ぐらい前から、多くの人がブログで自分の表現を発信するようになった。

 

いまでこそブログは手軽に情報発信できる手段として定番化したが、それでも初めての人にはハードルは高い。まず、自分の考えを文章にまとめるのはそれなりのスキルが必要だ。そして、それを投稿するには結構勇気も必要だ。

 

個人にあてる手紙とは違う。誰が読むか分からない。もしかしたら、悪い反応があるかもしれない。何か問題を引き起こすかもしれない。内容によってはとてもナーバスになる。

 

書くという事は、活字として残るし、ましてネットであれば、幾らでもコピーできてしまう。永遠にも残る。慣れてしまえばどうってことはないが、最初のハードルは高い。

 

話すことはどうだろうか。

話するということは、普通は顔出しする。自分が話している姿、態度、表情も含めて表現すると言うことである。ノンバーバル(言葉を用いない、または、非言語)の部分を全開で表現することになる。

 

書くのとは全く違う。書くこと以上に、自分の人格や特徴をさらけ出すことになるので、ブログよりもハードルが高いと思う。しかし、これは話する場所によっても違う。

 

例えば、従来からの会場でのセミナーで話する場合で考えてみると、その会場にいる聴講者のみに自分をさらけ出すことになる。

それが今のようにオンラインであると、聞いている人の顔が見えないことは多い。ここでのハードルがある。やっぱり、顔が見られないと話ができないと言う人も多い。いくつかの段階があるが、今、一番神経を使うのは不特定多数に対して、ライブで話することだろう。

 

私は、話することも書くことも本業の一つなので、現時点で考えられる表現の手段は全部体験している。その中で、これからは、書くことによる表現がますますクローズアップされてくると思う。要するに文章の価値が増大する時代が来たと思う。

その理由は幾つかあるが、一つは、話による表現が巷に溢れすぎている。ネットの動画が珍しかった時代は良かったが、量が多すぎて選ぶのも大変だ。また、コンテンツもすでにテレビとの境目がなくなってしまったものも多い。話し言葉を大量に聴くのは疲れる。また、聞ける場所も限定される。だからこそ、文章の価値が高まると考えている。

 

もう一つは、やはり、書き言葉の方が信憑性が高いと考える。理由を簡潔に書くと、話することよりも書くことの方が難しいからだ。話は仮に記録される時代だとしても、話はあいまいで思い付きでしゃべっても許容される。

 

話とはそういうものだし、聞く側もそういうつもりで聴いている。一方、文章はそうではない。ちゃんとしていないといけない。嘘や誇張を書くと価値が減衰する。

 

私自身も今まで、書くよりも話してきた時間の方が圧倒的に多いので、今後は、書くことをもっと集中しようと考えている。

 

 

以上