近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

私がプログラマーだった頃と今の違い

ちょっと業界用語だが、

ITの世界で、ローコード、ノーコードというキーワードが流行っている。コードとはプログラミングコードのことだ。

 

今、小学校でプログラミング教育が始まった。

私はその目的に未だに懐疑的だが、体育や美術、音楽などの位置づけなのか?

国語算数理科社会の基本科目の位置づけなのか?

最近始まった英語とにたような考えだと思うが、世の中の流れ、グローバル化の流れに適応するためなのだろうか?

 

私は、20代にプログラマーとしての仕事を何年かしていた。やってみての実感は、少なくとも私がしていたプログラミングはクリエイテイブな仕事ではない。

 

純化して説明する。

私は、よく建築の仕事と対比してソフトウェア開発を語ることも多い。プログラマーというのは大工さんと考えると良い。

 

では、一戸建ての家を建てる時、大工さんだけでできるのか?といわれると答えはYesだ。これと同じように、プログラマープログラマーだけでソフトウェアを作ることはできる。一人でする場合もあれば、複数でする場合もある。

 

建築であれば、建築士という役割がある。建築においては建築基準法が定められているので、建築士が設計をしないと作れない家の基準がある。そういう家は、施主が望む望まないにかかわらず、建築士が必要で、建築士は家の設計をすることになる。

建築士が必要のない家づくりもあるが、その場合は大工さんが全部行うことが出来る。

 

この対比で考えると、ソフトウェアを作るのに法律はない。

だから、依頼主と請負側の自由であるが、一般的には建築士にあたる役割がシステムエンジニアである。ようするにソフトウェアの設計をする仕事である。

 

私は20代で両方経験した。

しかし、いちばん、つまらなかったのは、設計をしないプログラミングである。

つまり、システムエンジニアが設計した通りにプログラミングをする仕事である。

 

まあ、プログラミングといっても、色々ある。事務処理系や技術計算系、今ならIoTでくくられているが制御系など多岐にわたる。だから、一概には言えないが、基本的には設計書が詳細に書かれている仕様書でプログラミングする仕事は、クリエィテイブというよりも単純作業だ。

 

もちろん、この時代は、プログラミングはとても大切な仕事であった。プログラマーがいなければ、ソフトウェアは出来ないのだから・・・。

 

ところが、時代は変わった。

誰しもが望んだことが出来るようになった。

急になったわけではない。徐々に決まりきったプログラミング作成は自動生成されるようになってきた。

 

考えてみればこの分野も当たり前にコンピューター化が進んできた訳である。

長年の試行錯誤を経て、今や大抵のソフトウェア作成にプロクラマーは必要ない。

 

仕様をきっちりとインプットするとソフトウェアが自動生成されるのである。

 

今更ながら、こういう時代にシステムエンジニアをやっていたかったと思う。

 

 

子供たちに、色々と教えるのは良いが、何を教えるかによってその意味はだいぶ違う。

ローコード、ノーコードの時代のプログラミングということを教えているのだろうか?

 

今なら、システムエンジニアという内容でないと役に立たないような気がする。

 

もちろん、科学の実験のように、コンピュータの原理を教えることは大切だと思う。0と1のビットの世界だ。仮にそうなら、科目の名前をコンピュータ入門にした方がよっぽと分かりやすいと思う。

 

せっかく昔取った杵柄。自分なりに子供たちの未来のために、コンピュータ教育をITを使ってすることを考え中である。

 

以上

 

見える化が今年の流行語大賞にならないだろうか

見える化があちこちで目につくようになった。

 

もともと、企業のコンプライアンス強化が叫ばれだした頃、内部統制の強化の流れでも“見える化”は重要視されてきた。

今、コロナ禍のなかでの“見える化”も喧しい。

例えば、人の接触の“見える化”、感染者数の“見える化”、病院の空きベットの“見える化”など。連日、マスメディアやネットを飛び交っている。これは世界中で同じだろう。

 

コンプライアンスに縛られる大手企業でなくても、もう20年以上前からCSの向上とともに顧客対応の“見える化”も日本では進んできた。 

 

今や一般的になってきたが、私たちがコールセンターに電話すると、この会話は録音させていただいています・・。というアナンスも今や当たり前になってきた。言った言わないを防止するには、確かに効果的である。実際に記録が残る“見える化”の重みと余計なことを言わないような制御にもなる。

 

また、人間社会では様々な不祥事やトラブルも後を絶たない。記憶に新しいところでは、賞味期限の偽装や産地偽装も今の日本でも当たり前に行われていた事が分かった。

 

こう考えてくると、“見えない化”を意図的にしている人、知らず知らずに“見えない化”に加担してしまうこと、あるいは、“見える化”、“見えない化”かどちらも分かっていな無知な人など、様々な人が存在していることに気づく。

 

政治の世界でも今や“見える化”は日常になった。

見える化”したい世間と世論。どうも“見えない化”したそうな政治の世界。

 

何よりも忘れてはならないのが、人類にとってもっとも重要な環境問題の“見える化”である。先進国や一企業などの部分的な改善は進んでいるのは間違いないが、地球全体で見れば、“見えない化”が世界のいたるところで増殖している。

 

こんな風に考えてみると、人間はどうも“見えない化”を好むようである。

 

まだまだ、日本では“見える化”のイメージは当たり前ではない。健全、正直、クリーン、信用できる、こんな特別なイメージがなぜかある。清廉潔白と言えば大袈裟だろうか。

 

それだけ世の中、今までは“見えない化”で回ってきたのである。むしろ、こちらが標準だったし人間の本能には合ってたのではと思いたくもなる。

 

だから、ビジネスの世界だけでなく社会全体、地球全体で進行する“見える化”にはとても大きな抵抗があるのである。

 

 

こういう複雑な根の深いジレンマの中、それでも今の人間は“見える化”を推進していく様子だ。もちろん、私もその推進派の一人である。

 

色々な巡り合わせで、今は、記録の時代だ。ITで記録したデータや情報が永久に保存できる可能性のある時代だ。こういう社会全体の見える化”プラットフォームが出来てきて、かつ、全体最適化が出来るようになると、世の中の“見える化”は一気に進む。

 

では、そもそも、“見える化”が進んでいくとどういうメリットがあるか?

思いつくままにいくつか挙げてみる。

 

一番は、“見える化”のためのコストが減る。

今は、見えないものを“見える化”するためのコストや労力が膨大だ。これはマスメディアを眺めていても実感する。“見える化”にはお金もかかるし人の苦労がつきものだ。

 

もう一つは、誰かが見ている昔の“世間”が蘇る。

昔は、村単位で言えば、村の住民に見られていた。村でなくても今でも地方に行けばそういう空気は感じる。都会は“見えない化”が進み過ぎた。

世間が“見える化”によって、健全になる。

 

もう一つ、大事なこと、それは教育が楽になることである。

見える化”が進めば、それこそ、大人にわかって子供に分からないことが減る。

つまり、大人の都合で隠してきたことがなくなると、教えることも楽になる。子供自身が健全化か不健全の判断をできるようになる。

 

最後に、当たり前のことだが、付け加えておく。

当然、仕事も余計なことが減り、とても楽になる。精神的なストレスも減る

どう考えてもメリットだらけではないだろうか?

 

ではデメリットは何か?

それは、“見える化”が嫌な人には住みにくい世の中になるということである。

 

以上

 

私はコンピューターの代わりをしているのだろうか?

私が仕事でコンピューターを使わない日はない。

少なくともこの20年はそうだ。

 

特に、スマホが登場してからは、常に持ち歩いているので、私はコンピューターが必需品である。

 

ただそれは仕事においてであり、日常生活では、今でもスマホがなくても支障がないような生き方はしている。

 

もう一つよく使うコンピューターがパソコンである。もうこんな時代になると、私たちの周りにはコンピューターだらけであると、IT素人の人でもうすうす気づいていると思う。

 

少し専門チックになるが、今どき駅の改札は当たり前として、自動販売機、街灯、監視カメラ、そして、工事中のパイロンまでコンピューター制御されている。家電も当たり前。いわゆるIOTの世界だ。こういう見えにくい、知らいないコンピューターの活用はどんどん進む。

 

ここまで、あえて、コンピューターと書いてみたが、今はこういうことを中心に、ソフトウェアと合わせてできたものをITと呼ぶ。

 

私がプログラマーの時代の35年前は、ITという言葉はなくて、情報システムやソフトウェアという名称で認知されていた。

 

だが私が今日書きたいことは、コンピューター君としておいた方がしっくりくる。

 

最近では、AIの実用化が叫ばれ、イメージとしては日本的ではあるが、人間の形に近いロボット、ヒューマノイド型ロボットが私の考えるコンピューター君のイメージに近い。

 

今、私は毎日のように、コンピューター君のお世話になりながら仕事をしている。

一見これは、私がこなしている仕事をコンピューター君が代行しているように映る。

 


自分で言うのもなんだが、私は、平均的な社長よりITが使える、分かる経営者だと自覚はある。だから、きっと、周囲からは、近藤さんはコンピューターを使いこなしている風に見えているだろう。

ところが、実は、私は少し違う感覚なのである。

 

私が今自分の会社で行っている仕事は概ね2つに分けられる。経営者としての私のベースの仕事が一つ。もう一つは、本来は社員が役割分担してこなす仕事だが、トラブルなどでサポートしないといけない仕事。たいていの経営者は皆同じだと思う。

 

まずは、前者であるが、基本的にはスムーズにコンピューターを使いながら、指示を出したり、顧客とコミュニーケーションしたり、ブログを書いたり、MTGのアジェンダを作成したりしている。ここまではコンピューターは使いこなせていると言える。

 

ところが、なまじっかコンピューターの能力、出来る事を知っていると、以下のようなジレンマが生じることがある。

これって、こういうソフトがあったら、自分がしなくてよいのに。時間さえあれば、あれをダウンロードして、この仕事に使うと劇的に時間も短くできる。あるいは、外部のやりとりで、SNS系のメッセージ機能を複数使っていて、これを一本化するソフトがあれば、とても楽なのに。音声で吹き込み、自動的に文章ができる機能すら使えていない。

 

こういうのは、しっかりと落ち着いて準備をすれば、コンピュータができることがほとんどだ。そう考えると、私は、すでにコンピュータができる仕事を、人間として代わりにやっているような状態であることに気づく。

 

私はITの仕事をしてきたので、ITをトコトン有効活躍すれば人がどれだけ幸せかが分かっている。だからこそ、ジレンマなのである。

近いうちに、このジレンマは解消したい。

 

前者が長くなったが、後者の私が社員をサポートする仕事は、コンピューターが代わりにできるか?だが、これは無理だと思う。

 

順番が違う。社員がするべきことと言うのは、当たり前だが、本来は社員がすることが先だ。社員自身の仕事にコンピューターを有効に活用する。特に段取りのところをコンピューター君に任せる。当然、進捗管理などのPDCAのCも任せる。

 

こういう状態になって初めて、私のサポートも有効になる。こういう事例で考えても、コンピューターでできることは実はすでに山のようにあるが、結局は今のITツールですら人間が十分に使いこなせてない。

 

昔、携帯電話の失敗をガラパゴス症候群と揶揄していたが、今は、完全にコンピューターそのものが、機能がありすぎ、種類がありすぎ、ガラパゴス状態である。

 

私が何とかコンピューターの代わりをする仕事から早く脱却して、中小企業のお役に立ちたいものである。

 

以上

 

BtoBを視るとより社会が見えてくる

またまた、学生の就職活動が始まる時期が来る。

コロナ禍の影響で去年から就職活動が様変わりした。今年もこの流れは続きそうだ。

 

春先から日本の名物とも言える、リクルート服に身を包んだ学生が街を闊歩する姿は今年もお目にかかれそうにない。

こういう日本の風物詩とも言える就職活動は、どうも日本だけの独特のものらしい。

 

今年は、一気にオンライン就活が定番化すると思う。期待値を込めて先走ると、コロナ禍が収まった時、再び従来の就職活動に戻るかと言えば、完全には戻らないだろう。

 

オンライン面接が一気に定着するとは言えないが、少なくと動画でのプレゼンも当たり前になるだろうし、極端に言えば、AI君が選考者の一人になるのは大企業では当たり前になる。

 

採用活動に膨大なコストと労力をかけてきた企業にはメリットである。様々な要因が重なって、企業も学生も大きな変革期にあると言える。

 

ただ、今の学生にぜひ知っておいてもらいたいことがある。

私は創業時から学生採用の際に、“会社は社会の入り口である”と、伝えてきた。

今はこれが高じて、採用活動とは関係なく学生に社会のことを発信している。

今後は、オンラインを使ってもっと多くの学生に伝えたいと思っていることがある。

今日はその一つを書こうと思う。

 

toBやBtoCという表現を知っているだろうか?

 

ビジネス界では今や常識となったが、会社の取引形態をシンプルに表現したものである。大まかに書くと、会社の顧客が個人か法人かで分けることが出来る。もちろん、両方の場合もあるし、もっと、入り込んだビジネスの形態もある。

まずは、単純にこの2つで話を進る。

 

親の職業とか、身近の人の影響がない限りは、会社で実際働くまでは、ほとんどの生活者はBtoCの会社と接することになるので、BtoBの会社の事をあまり知らない。

テレビCMにしても、BtoBの会社はあまり見かけない。TVなどのマスメディアが生活者を主たる視聴者としている以上、至極当然のことである。

 

比較として、タクシーのサイネージ広告を見るとよく分かる。今どき、タクシーにのると座席の前のディスプレイに広告が流れる。結構、BtoBが多い。東京などでは特にそうだ。決裁権のあるビシネスパーソンや経営者が乗る確率が高いので、なかなか良いところに目を付けた広告だ。

 

世の中は、商品をダイレクトに訴求する、企業のブランディングのためのイメージ戦略など、色々と広告に囲まれている社会と言える。

 

感覚的には、これらの広告は9割近くが、BtoCである。また、日常生活していても、スーパーに行っても、コンビニに行っても、商品を通してBtoCの企業名が刷り込まれる。

こんな感じで、少なくとも一般的な学生は、BtoCの企業を認知した状態で、就職活動が始まることとなると思う。

 

もちろん、自分の専門や大学の推薦で動けば、ブレることはないが、今は、社会全体が激変している。社会の事を知るためには、BtoCの企業だけ見ても不十分だし、かといってBtoBを積極的に知ろうとしても、今度はつながりが見えないことになる。

 

サプライチェーンという言葉がある。食関係であれば、似たような言葉にフードバリューチェンというのもある。要するに、商売は皆つながっているのである。

 

例えば、チョコレートの原材料はどこから来ているか?私の年代にはガーナが真っ先に浮かぶ。

 

今やSDGs企業としてのエクセレントカンパニーであるネスレなどは、原材料の調達元にも責任を持っている。そしてこれを見える化している。

 

エシカル消費がひそかにブームになりつつある。これは、商品だけ見るのではなく、その材料がどこで生み出され、どういうサプライチェーンに乗って供給されているかまで、意識を高めて、環境にやさしい、健全なビジネスをしている会社の商品を選択しましょう。というイメージだ。

 

すでに20年以上前から、会社選びではなくて、社会を見ましょう。と私は伝えてきた。

 

今、就職活動が始まる学生に伝えたいこと。BtoCであろうがBtoBであろうが、無限にも見える複雑なサプライチェーンの中の一つに過ぎないという事を意識して、少しでも社会を学んでから会社を選んでほしい。

少なくともBtoBtoCの意識で、BtoBもBtoCも見てほしいと思う今日この頃である。

 

以上

 

記録の時代にフェイクニュースは減っていくのか

皆さん、フェイクニュースに騙された、痛い目に遭った、振り回された。こんな経験はお持ちだと思います。

 

フェイクニュースを私になりに、簡単に日本語訳すると嘘の情報、偽情報ということになると思うが、仕事柄もフェイクを見分けるスキルを身に付ける必要があり鍛錬を意識している。

 

まず、フェイクニュースは誰がどういう目的で生み出すのか?考えてみる。

 

今は、SNSやネット全盛期だから、こういうITツールが助長する人間の心理というものが明らかにあるのは分かる。特にうわさ話やフェイクまがいの話は、大袈裟で、刺激的だ。また驚きであったり衝撃であったり愉快であったり、極端に喜怒哀楽を刺激するので、拡散しやすい。

今の時代は、ITで瞬時に世界に広がると言っても過言ではない。コロナ禍で一躍、注目のキーワードになった感があるインフォデミックで連想しても、感染力、伝染力、爆発力は抜群だ。

 

この根っこを見ると、例えば、高学歴者や美人が犯罪を犯したり事故を起こすと、メディアがここぞとばかり騒ぎ立てる行動や現象と似ている。

鶏が先か卵か先の議論がここでもついて回る。

日頃、TVの報道系バラエティー番組を非難しつつも見てしまう心理にも近いと思う。

 

フェイクニュースを見分けるコツはあるのか?

これは完全な解は永遠にないと思う。

いたちごっこなのだ。

 

とくに、今は記録の時代かつITが地球上を覆ってしまった状態である。まず、どこの誰が発信源かを特定するのは極めて困難である。

 

例えば、私も子供の頃生活体験した、村社会を考えてみる。ある意味、村の特徴は閉鎖社会である。だからこそ村の外からの情報にとても敏感で、誰から伝わってきたかは分かりやすい。

 

一方、村の中は噂話が好きだ。私の子供の頃の村の感覚は200人ぐらいだった。それでも、うわさ話、悪口などが蔓延していた。本音と建前の世界だ。ただ、村であるがゆえに、大抵の人が、発信源が誰かは共有していたりした。

 

極端な事例だが、今は、こういう村の単位がITで世界中につながり、拡がっていきつつある。

村と村のつながりの中にも、新しいうわさ話が生まれ拡がる。

ある意味、すでに、こういう世界では人間の能力を超えたものを作ってしまったと思う。

 

いずれにしても、現代においても、本能的にでも経験的にも、その情報の発信源を探ることは大切である。それがある程度特定出来たら、その人やそのメディアが信用に値するかどうかである。もちろん、自分の主義主張にあっているとか、好き嫌いが出てくる。

 

このあたりが、一つの落とし穴で、普段から自分とは合わない、持論と対立する情報や斜陽にも触れておく必要がある。そうしないと、比較して判断出来なくなるとフェイクにハマる。

 

あとは、盛り上がっている情報の中にはハマらないことである。野次馬になってはいけない。野次馬になって、見ている情報が仮にフェイクでなかったとしても、野次馬になっている自分を後ろで、誰かが見ていることを気付くべきである。

 

フェイクでない情報に群がっている人に、フェイクをしかけることは結構容易であると思う。群集心理と言うものだと思うが、一つの事に関心を持っている集団は、フェイクにハマりやすいと思う。

私も時間が捻出できれば、仕事からもあり、フェイクニュースが生み出されない健全な社会創りのための調査研究などをしたい。それと、ファイクに踊らされないように、情報リテラシーメディアリテラシー、コミニュケーションスキルなど色々と学ぶ機会も作っていきたい。こういうゴミに思えるような情報にも触れながら、情報の見極め力を身つけることも大切だ。

 

以前ブログには匿名の掲示板の話も書いたが、私は匿名掲示板にメリットは全くないと思っている。昔から全く変わらない。真実であろうとフェイクであろうと、匿名で発信したものを信用する考え方を変えることが大事である。いつの時代も、

 

ITがあろうがなかろうが、特別な場合を除いて、匿名での情報発信には永久に信憑性はない。仮にこの先、AI君かスーパーIT君が、機密データの保持を前提して、デジタル上で情報の発信源は特定しているから安心してください。と言われても、誰が信用できるだろうか?

 

人間は基本的に動物であるが社会的動物である。人間同士の信用でなりたっている。

情報発信の基本の基本は、実名である。

これを崩さなければ、ITは健全な方に使えるのは間違いなく、フェイクニュースの判別にAI君活用できる時代はもうそこに来ていると思う。

とはいえ、村社会が人間の原点だから、そういう噂話は永久に無くならない。と子供の頃の体験でそう思う。

 

以上

 

これからの起業家にも新規性が本当に必要なのか?

起業家が増えない。

国も民間も躍起になって起業家を増やそうと支援したり政策を矢継ぎ早に出したりする。

こういう状態は、少しは変化はあるにしても、もう20年ぐらい続いているように思う。

 

私が31歳で創業した時、しばらくしてから第三次ベンチャーブームの風が吹いてきた。

私は単純に独立したかった。することは全て自分で決めたかっただけなので、最初はベンチャーは別世界と思っていた。

 

結局、無知で未熟だった私は一時期中途半端にベンチャーブームに流されるように巻き込まれた。

今はスタートアップと表現して、世間ははやし立てているが、20、30年前と何ら変わらない雰囲気を感じる。

今でこそ、当たり前のキーワードになったが、当時は、時価総額経営が席巻していた。時価総額1000億をめざしましょう。しかも短期間で。こういうブームが私の周りでも吹き荒れた。

 

積極的にこの流れに乗った起業家、流されて乗っかった起業家。そして、見向きもしなかった起業家。私は神戸にいたこともあり、中途半端にかかわった。どっちつかずだったと思う。

東京で起業していたら、全く違った方向に行ったかもしれない。

 

一流企業として今も存在する会社に成長したところもあるが、当然、それはごく少数だ。殆どの起業家は倒産か事業停止か。あとは、数年で売却したつわものもいる。色々と社会問題になった起業家も記憶に新しい。

 

だから、私には今のスタートアップブームはその頃の焼き直しとしか思えない。

 

人間は不思議なもので、昔と同じようなことをしていても、表現を変えて違うものに見せることが出来る。最近の10年ぐらいの幅でしか、こういう世界を知らなければスタートアップは全く新鮮に映るだろう。

 

もちろん、経営環境が全く違うから、別物だと言う人もいるだろう。今はITを駆使すれば、短期間にスケールの大きい成長ができると確信している人もいるだろう。

常に千差万別、多様な意見はあって当たり前。ついでに言うと、人間の毀誉褒貶もなくなることもない。

 

私が警鐘を鳴らしたのは、大事なことを忘れていないかだ。雇用の創出や地域活性化のために起業家を増やすことは大賛成だ。当然、シニアや女性がその重点ポイントになる。ところが、このあたりまで十把一絡げで、スタートアップブームにしてしまっている。何をかいわんやである。

 

小さくても普通の静かなコツコツ型の起業家の輩出の方が、スタートアップで派手に大きくなるより何倍もこれからの日本に必要な事なのだ。

中小企業が減ってしまうと日本の経済は間違いなく揺らぐ。

 

また、日本は不思議と欧米のスタートアップに対抗しようと言う意識も根強い。

土俵が違うことを分かっていない。

こんなことをしていたら、日本の価値や良さを見失うし、そもそも、様々な複雑な日本独特の社会問題の解決などできようがない。

 

もっと日本の強みのモノづくり力や現場力に根差した起業の支援に軸足を置くべきだと思う。背景も歴史も違う国と同じ土俵で勝負しようとすることがナンセンスである。

 

 

スタートアップの事業モデルの尺度は、とにかく新規性があり市場性がありかつ短期間でスケールアップだ。もう一度言うと、これは私が創業時にベンチャーブームを体験した時と何ら変わっていない。その当時から大事なことが欠けている思っている。

 

創業して5年目で1億ぐらいをいわゆるVC(ベンチャーキャピタル)から調達した際、最初は、自分がやりたいことだけを事業計画に書いた。意に反して新規性に見えるネタに書き換えを強くアドバイスされた。

これに安易に乗っかったことは、今でも自分自身の反省の一つである。

 

この時の世間は、新規性、市場性、独創性が経営者を判断する視点だったと思う。

起業というのは新規性ありきではない。

が私の持論だ。すでに誰かがやっていることを前提に、いうなれば創意工夫や改善をすればよい。特に今の時代は、様々な見える化やつなげるだけでも社会貢献で勝つ収益性のある事業は無限にある。それだけ多様で変化の時代なのである。

 

また、ITのプラットフォームも常に光と影がある。健全に使うことを前提にすれば、これからは大の時代ではなく、小のつながりの時代であることは一目瞭然である。

仮に小さい個の企業活動に新規性がなくてもそれがつながるだけで、全くの社会性でありかつ新規性になる。

 

色々と書いてはみたが、私は起業家に必要なのは新規性ではなく、今ある日本の問題をどう解決するか?この一心があれば十分な時代だと思う。

 

今ある問題と言うのは、時代の変化や生活様式、ビジネスの進化に伴う新たな問題もあるが、それよりも、以前からあったものだ。

いいまで優先順位が低かったり、問題意識が低かったりのために放置されてきた問題や課題に焦点を当てる。

 

そういう意味では、新規性と言うよりも社会性が何よりも重要となる。誰が果敢にそういう問題や課題を解決するか?これからの起業家に期待したいところである。

 

直接金融は充実しつつある日本だが、残念ながら、そういう起業家には資金の援助は乏しい。今、日本には本当のエンジェルは少なくなっているのではと思う。私は創業時、VCからも資金は一時的に受けたことはあるが、それ以外は基本的にエンジェルと経営者仲間などが資本参加していただいている。

 

近いうちに、これからの日本を支えるような小さな単位の起業家を支援するしくみを構築しようと思う。その支援のポイントを挙げるとすれば、社会貢献、健全性、継続性である。収益性は当たり前のことであるし市場性もこんな時代に予測できるものでもない。

こんなスタンスでこの先も、小さな多様な起業家の輩出を中心に貢献する考えである。

 

以上

 

“記録”の時代に“記憶”に残る仕事をしてみたい

“地図に残る仕事”をしてみないか?

 

もう何年前だろうか?

TVのCMかベトナムの看板だったかは定かではないが、このフレーズを見た時のゾクゾク感が今でも体に残っている。

世の中にキャッチコピーは沢山あるが、私にはとても強烈なインパクトがある言葉である。

これは大成建設が商標を持っているようだ。

 

私は、ゼネコンで現場監督を目指したが、今は違う仕事をしている。

なぜ、現場監督をしたかったか・・それは学生時代の無知で未熟な中でも、なんとなく、生活空間や街、都市にビルや商業施設が出来あがる様子を幾度となく見ていて、こういう創造的な仕事に惹きつけられたことを覚えている。

 

そもそも、地図と言うのは土地に何か書く話ではない。人間が誕生して以来、道を作り、橋を渡し、家を建て。そういうことを長年に渡って繰り返し都市や街が生まれ進化する。

 

そして常にスクラップ&ビルドの繰り返しだ。

もちろん、世界遺産や国宝のようなものは1000年、2000年を越えて保護されるが、ほとんどの建築物や道路は耐用年数を待たずとも作り替えである。(なんともったいないことか)

 

そういう意味では、形は変えながらも人類誕生以来、継承されてきているものがある。それは、物理的な建物ではなく、その街の文化や生活様式などであり、本当に感動するぐらいの変遷の歴史がある。

 

今であれば、明治時代以降は、結構写真が存在しているので、そういう変遷を振り返ることが出来る場所もある。

例えば、私が今住んでいる神戸。

150年ぐらい前の神戸港界隈の写真を見ると、様々な想いが脳裏に浮かぶ。

この進化のスピードにまず関心と感動である。

今の神戸港と150年前を比べると、たったこんな短い期間に良く進化したものだと感心する。そして、神戸港を埋め立てした場所に住んでいる私としては、その当時の人から見たら、考えられない状況であることは容易に想像できる。

まさしく地図に新しく生まれた街である。

 

こんな風に考えていくと、地図に残る仕事とは何かであるが、記録と言う意味での地図ではなさそうだ。

私なりに勝手に解釈する。

地図の意味は、単純にある場所に新しく高層ビルが出来て地図に載る。新しいトンネルを掘って地図に載る。こういう話だけではない深い意味を含んだコピーだったと今にして思っている。

 

ようするに、建物や土木の建造物と言うのは、少なくとも、それを利用する人やその周囲の生活環境にも影響がある。それが長年積み重なっていくと文化や伝統が生まれる。それが1000年も経てば語り継ぐべき遺産になるかもしれない・・。

 

地図は記録と見れば、今どきは、デジタルデータ化されている。この視点で考えれば、ビルやトンネルの情報は永遠に保存することが出来る。未来から振り返ると、克明に存在した場所や設計図、施工過程の出来事など様々なものが全てデータとして残る。

理論上は、何万年後でも、それらの情報と写真や映像を重ねると、バーチャル上では、歴史上の年や街はいつでも再現できることになる。

こういう風に考えていくときりはないが、現実に記録の時代とはそういう事である。

 

私は、いまさら、現場監督をしようとは思わないが、縁があってITの仕事を軸足に色々な事で仕事やビジネスを楽しんでいる。

IT活用には自信を持っている分、記録の事ばかりに目が行きがちになる。

 

しかし、やはり折角の人生、

記憶に残る仕事もしてみたい。

 

日増しに思うようになってきた。

記録に残る時代だからこそ、記憶に残る仕事。

今後は、こういう取り組みをしようと強く思っている。

 

今の私にとっては感じるメディアがそれに一番近いように思う。

ある意味、建設関連もデベロッピングと言われるが、メディアの世界でのデベロッピングと考えると、建設業界が目指してきたこととも通じるものもある。

そして、都市や街や建築はメディアと表現されることも多い。メディアデベロッピングを軸に、記憶に残る仕事をしようと思う。

 

以上