話しすること、書くことの曖昧性を考えてみる
最近つくづく思うことがある。
話しすることも書くことも実に奥が深い。
まずは話しするを考えてみる。
私はたまたま仕事柄、話することが比較的に多い仕事を20年以上してきた。
社長業は会社を代表して、自社の価値や役割を伝えたり、時には自己PR的なこともしないといけない。基本は話しする必要がある役割である。
加えて私はアライアンスや営業活動もすることがあり、必然的に人と話する機会は多くなる。
また、昔は現場仕事として、企業への経営支援や現場の改善、幹部などの社員研修をしていたこともある。その時はその時で、結構話しする機会があった。これは、日本だけでなく新興国でも行った。特にベトナムではベトナム企業のコンサルティングや幹部研修も数多くこなした。通訳が入ってはいるが、これも話ししないと始まらない仕事である。
そして、国内外で、20年以上前からずっとしているのがセミナーや講演という活動だ。
今は、ほとんどがオンラインであるが更に頻度は増えている。
話しするのと同等以上に書くことも多い。出版会社を運営していることもあるが、もともと、書くことについては、自分の書籍も発刊してきたので、書く苦労は人並みには分かっているつもりだ。
一般の仕事でも書くことは仕事に不可欠である。
例えば、昔であればメールやグルーブウェアでの情報発信や情報共有、顧客とのやりとり、社員とのやりとり。今どきはSNSチャット、いずれにおいても、書かないと仕事が始まらないし、仕事が成立しないと言っても過言ではない。
これは、ITを使う使わないの話でもない。
書くことは仕事の基本であるし、特に私の場合は社長の平均的な頻度よりもはるかに多い。
今はこうしてブログも書いている。また、出版会社も運営しているので、書くことは仕事の源泉でもある。
改めて、最近、この話す、書くことについて思うことがある。
それは、コミュニケーションの重要な要素だが両方ともとても曖昧だということだ。
先日、知り合いのお祝いの場で、乾杯の音頭をとる機会があった。少しばかり、ご挨拶も交えた。昔なら、ばっちり原稿を用意していたこともあるが、今は、こういう機会は全てアドリブだ。
ただ、シナリオだけは考えることにしている。スマホにポイントだけタイプしておけば十分だ。ただ、これにしても、話し出したら、臨機応変と言ったら格好つけすぎだと思うが、結果的には話は思いつくままになる。
こういう時に改めて思う。
もう一度、同じ立場で話するとして、全く同じ話は2度とできない。
原稿を読むなら、何度でもほぼ似たような話は出来るが。
こんなことをあれこれ考えていると、話することぐらい曖昧なことはないと思う。
世の中では仕事に限らず、至る所で会話がなされている。そう思うと、結構曖昧な中でのコミュニケーションが日常茶飯事だと改めて気づく。
だから、どうのこうのはないのだが、会話に完璧を求めても仕方がないと言える。
もちろん、ビジネスでの会話は利害関係の発生源であるし、仕事の成果に密接に結びつくので、話の内容の精度や中身に正確性は必要だが、それでも結局曖昧性は排除できないのである。
では、書くことはどうだろうか?
これもまた、別の意味で曖昧である。記録に残る分、書き直しは何度もできるので、話するよりも正確性は高めやすいと言える。
いずれにしても、話するのも書くのも、発するときはとても曖昧である。
だから、聴き手も読み手もそういう曖昧性を含んでいるという前提で受けて入れると快い。曖昧さ故に、揚げ足取りぐらい馬鹿らしいものは無い。
以上