時と場合により短所であり長所であり
人間はいつから、長所と短所を分けるようになったのか?
ふと、考えてみれば、小学校の通信簿には、長所と短所が明確に書かれていたと思う。
今は、どうなっているかは分からないが、これぐらいの時から親や学校の先生との関係性において、だんだんと長所や短所を自己認識し始める。
流石に私ぐらいの年齢になってくると、自分の長所と短所を人に対して明確に説明できない人はいない。ただそれは、長所と短所を根拠があって表現していると言うより、その時の立場や状況によって求められたように合わせて話しているだけにすぎないのではと疑問を持っている。
短所と長所は区分する方が実際は難しい。
例えば、今は私自身もあまり表現として使わなくなったが、神経質という言葉がある。
世間では概ねネガティブな暗い人の印象で使われてきたと思う。この逆はおおらか、さっぱりしているという感じだろう。
私も子供の頃、長い間、神経質な自分が嫌だった。闊達で明るい友人たちを見ては、なんであんな風にできないんだろう。人の中心にいたいなと思ったことも何度もあったように思う。私は学級委員長になるようなタイプではなかった。
単純に今の私をその当時の担任の先生が知ったらどう思うんだろうかと考えたりすることもある。
神経質と言うのは、そもそもの根っこは、人のことが気になる人という感覚が今の私にぴったりくる。当然、些細なことは気になる。人の機微にも関心がある。常に対人対応のことも考えている。
世間でも当たり前に言われるが、経営者は心配性な方が良い。経営者に求められる大胆かつ慎重にの本質的な話だ。
私自身のこと書いてみたが、結局は、子供の頃の私の特徴は、会社経営をするのには向いていたことになる。だから、単純に小学校の担任の先生と話をしてみたいと思う。
話は全く変わるが、今、量子に興味があって、色々と探求している。
私が理解している範囲で簡単に書く。量子は粒子でもあり波でもある。これは2面性を持つという解釈よりも、量子の特徴と理解するほうが自然のようだ。
しかしまだ、私は常に2つの性質を持つのが量子であるとしか頭が反応できない。いずれ、これが自然体で量子のイメージが出来たとき、量子という言葉を使いこなせるようになると思っている。
人間の特徴をそもそも、長所と短所に分けるのが無理があると私は強く思っている。
量子になぞらえて言うと、どっちでもないの一言である。長所や短所と呼ぶのをやめて、特徴とすればよい。そういう意味では特長とも違う。
そもそも、長所や特長は相対的なものでしかない。つまり、誰かと比べるか、誰かの尺度で便宜上良いか悪いかに分けているだけである。
こういう世界で植え付けられた“あなたの長所はね・・・短所はね・・”を背負って、多くの人が生きていくことになる。
こういう事を書いている私も、少なくとも40歳ぐらいまでは、自分の長所や短所を意識していたと思う。
では、今はどうかというと、しつこいが量子的な考えだ。人間が成長していく結果、身に付ける能力であったり、生まれつきの特徴である。特性と書いてもずれることはないと思う。
先ほど、私の事例で書いたが、もう一つ、最近思うようになったことを書くと、昔の文豪と呼ばれる作家たちは、結構、対人対応が苦手な人が多かったのではと、あらためて思うようになった。
ナイーブだからこそ、人のことが気になり過ぎる。他人の機微が分かる。だから、繊細な表現ができる。でも直接人とかかわるのは苦手。アートの世界でもこれは当てはまる。独創的な人ほど、変わった人に思われる。
もう一つ、普通の職場の事例で書く。
子供の頃に生徒会長の経験がある社員がいたとして、仕事を任せれるか?
実際、昔私の部下にもいたが、子供の頃のあー全く因果関係が見いだせないことの方が多かった。
仕事におけるリーダーシップとは違う。また、子供の頃と大人の世界のリーダーシップも違う。こういうケースを書き出したら幾らでもある。
結果どうなるかというと、長所は短所でもあり、短所は長所でもある。だから、区分するのではなく、一つの特徴として把握する。
そして、仕事の場で言えば、適材適職ということになる。自分の就職活動にしても、自分がやりたいことを探すのも大事だが、その何倍も大事なことは、まずは、自分の特徴をよく知る。そして、適職を探す。適社ではない。
もちろん、自分の特徴は磨くこともできれば、そっと、使わないで持っておくこともできる。
長所を伸ばす教育も大事だが、人それぞれの特徴をいかに生かすかを考える社会の構築が必要な時代だと思う。
以上