縁の下の力持ちという生き方
人前には出てない、目立たない、謙虚である、控え目である。あまりその活躍や存在が知られていないけれども、とても重要な人。
縁の下の力持ちという言葉には、こんなニュアンスがある。
語源を調べてみても、予想通り。
今、縁側がある家は、都会では見当たらないが、田舎に行くと縁側があり、その下をのぞけば見える。色々なものが縁の上に乗っかっても、平気なように、柱がある。その下には基礎だ。
仕事の世界でも縁の下の力持ちの役割は大きい。
エンターティメントなどの舞台や映画の製作などでは、裏方のスタッフのことを言う事もあると思う。要するに、表で脚光を浴びたり、リーダーシップを発揮したりするわけではないが、そういう人たちを裏で支える心強い人たちの事だ。
世の中には、エッセンシャルワークという呼び方もするが、どんな時でも、災害の時でも、一般の生活者が困らないように、支えてくれる仕事をしている人が沢山いる。
コロナ禍での医療関係者が最たるものだが、水難の際の救助隊、火事の消す消防隊、災害時のボランティアの人達。本当に、自然災害や困難の事が起こるたびに、こういう方々の活動のありがたさを実感する。
決して、他人ごとではないのだが、自分がなぜ、そういう仕事をしていないのだろうか?そういう役割でないのだろうかと思う事がある。
ビジネスの世界に入ると、どうしても、なんだかんだと言って、利益を稼がないといけない。
SDGsやESGと言われても、稼いでこそ成り立つ。もちろん、会社には、色々な社員やステークホルダーが連携して、事業の成果が決まる。
だから、私のような社長業から見たら、全員が縁の下の力持ちなのかもしれない。
そんな私も、性分的に、子供の頃から、縁の下の力持ちの役割が性に合っていると思っている。
そういう意味でも、会社の経営者であっても、社会の縁の下の力持ちで居ようと心がけているし、小さな存在だとしても、社会が健全に良くなるために、不可欠な役割を果たしていこうと思っている。
先行き不透明な中でも、いつの時代でも、縁の下の力持ちとして、地道に堅実に活躍されている方が、どこの世界にもいる。
ただ、残念ながら、こういう方々の存在や役割は、身近な人か、よっぽど感度の良い人以外には知られることがない。
私たちの食を支える農業や漁業に従事する人達の役割や仕事にしても、多くの人は知らない。日本の食品加工工場で働く、外国人技能研修生の存在を知らない人もいる。
今、見える化の必要性があちこちで叫ばれているし、実際、ITの恩恵の中、見える化も進みつつある。
こんな時代だからこそ、縁の下の力持ちの方々の世界を見える化することはとても大切だと考えている。
もちろん、こういう方々は、謙虚で控え目なので、何か情報を積極的に発信したりすることはない。だからこそ、そういう方々の存在を知ることができるような仕組みができればと思っている。
以上
理論と実践のギャップのジレンマとバランスのとり方
理論より実践である。
これは、仕事に限らないが、現場で実際に実践している人の言い分である。
私もこれに同意するところはある。言うだけ番長になりたくないので、理論が先行しそうになったら、現場に行く。
この逆で実践より理論という話は、聞いたことがない。理想とする所は、理論も実践もちゃんとできている事。私の目指すところもここであるが、これは実に難しい。
自分がやっていても難しいが、世の中を見ていても、人間の永遠の課題ではないだろうかと思うところもある。
私は、会社を創業した人間で、まずは、経営にこの理論と実践を当てはめてみる。
私のようなタイプは、会社名を決めて法務局に登記した以外は何も準備をしていない起業である。
これを理論派から言わせると、なんと無謀なということになる。
一方で、私のようなタイプは、何も知らずにするワクワク感を味わいたいと思っている。
へんに知ってしまったら、行動に制約を受けるようにも感じる。
もっとも、これは言い訳も混ざっていて、後になって想うものだが、やっぱり、経営のイロハぐらいは知ってから、あるいは、資金調達の仕方や労務管理などの基礎知識を知ってから、起業するべきだと思った。
だから、もう一度、起業するならば、もっと、リスクがない状態、確実なやり方はできると思う。この意味での理論は必要だった訳である。
また、会社経営をしていると、MBAの話題は尽きることはない。MBAとは、有名な経営学修士号のことで、英語でMaster of Business Administrationとなる。
経営を理論的科学的体系的に学ぶ学問だと私は解釈している。
私は、企業支援もしているので、結果的には、このあたりで、学ぶことも、実践を通しながら、学んできた。
いわゆる鶏が先か卵が先かである。
だから、経営には実践も理論も大事だと確信している。
ただ、経験上一つ言えることは、このMBAのような領域は、学びすぎると、怖がって、イノベーティブな起業や経営は不可能になると言う事だ。
MBAは、今までの学問であって、決して未来を学ぶわけではない。こんな激動の時代は、偶発的なつながりが、イノベーティブに発展したりする。つまり、理論的ではない部分も沢山あるのである。
まあ、例外はあるにしても、MBAを取得してから、起業する人はほとんどいないし、そういう経営者は皆無である。やはり、前のめり感としても実践が先である。
とは言いながら、実は、こういう話は、少々複雑で、ちゃんとした理屈で言うならば、理論も実践も、PDCAで繰り返せばよいだけである。
つまり、出発点は、いきなり理論でも実践でもどちらでもよい、だが、ひとたび、PDCAに乗ってしまえば、結局は、どっちが先かではない。
理論->実践->理論->実践・・・か、
実践->理論->実践->理論・・・は、
同じことなのである。
最後に一つ、農業の事例を書こうと思う。
ベテランの農家は職人の世界だ。だから、超実践派である。一方で、農業には理論もある。
最近流行りのIOTで様々なデータを取得・活用して生産性の向上に貢献する。こういのうは科学的アプローチであり、理論の範疇に入るものだ。
実は、今、日本の農業は、こういう理論的なものと農家が長年積み上げて来た実践論がぶつかり合っている。私からすれば、どちらも正しいと思っているが、なかなか、それぞれの立場はそうは思わない、頭でわかっていても、体が順応しないのかもしれない。
これも、先ほどの話と似たようなもので、理論も実践もどちらも大切であるということが定着した時に、日本の農業は飛躍的発展ができると考えている。
以上
起業も創業も色々なのに・・・
起業も創業も、私がずっと関わって、気にしてきたキーワードだ。
私は結果的に31歳で起業したし、そもそも創業という活動が好きだ。
今、世間でも起業を推奨するブームを感じる。
この30年間で考えても、起業が流行った時期が何度かあった。私が起業して間もなくして、第三次ベンチャーブームであることに気づいた。そして、その勢いに巻き込まれた。
その時からすでに起業を支援する活動は色々とあったが、日本としては、欧米並みに起業家を増やしたいという願望は今も変わっていない。いや、むしろ、もっと、起業家を増やさないといけないということで、今や国の課題とも言える。
そして、数年前から、スタートアップという起業の形が喧伝されだした。こういう言葉と言うのは、IT業界にあるバズワードと似たような性質があって、本当の意味はどこかに行ってしまい、目新しさを利用したい人達が、都合よく勝手な解釈で使う。
スタートアップは、本来は短期間に社会変革を起こすぐらいの成長を遂げる起業のことだったはずが、結局は、昔からあるベンチャー企業も包含して、何でもかんでもスタートアップとあちらこちらで使うようになった。
だから、様々な誤解を生んでいる。
また、起業には女性活躍推進や高齢化社会の進展を受けて、お一人起業も増えている。
私は、もともと、働く人全員が個人事業主となる社会を推奨しているので、お一人起業が増えことは大賛成だ。組織に属することも意味はあるが、企業が世の中の変革をリードする時代は終わりに近づきつつある。
そういう意味でも、一人ずつが自律する方が社会変革につながりやすい。
そして、それぞれがつながるとなお良い。
こんな変化の中での起業も、もっと多様化すると私は考えている。だから、猫も杓子もスタートアップと呼ぶブームには警鐘を鳴らしたい。何も、スケールアップすることだけが、起業ではない。
起業と創業はセットで使われることが多いが、私の場合、創業とはやはり、事業創造という意識が強い。
こう考えると、起業家が皆、事業創造するわけではない。一人ずつの考え方とタイプによって大きく違う。
起業しても必ずしも事業創造する必要はない。特にお一人起業であれば、まずは自立することが大事で、仕事の内容は、世の中に溢れていても良い。また、会社を成長させる過程で、必ずしも新規事業でないといけないという理屈はない。
例えば、自分の住んでいる街で、和食店をオープンする。流石に、これは起業ではあるが、事業創造ではない。
あと、私が日頃、様々なタイプの経営者とお会いしている中で想う事がある。
それは、事業創造は必ずしも起業家の専売特許ではない。特に、創業者の二世三世の中には、創業社長を凌駕するぐらい起業家精神にあふれて、創造的破壊や新規ビジネスに果敢にチャレンジしている方もいる。
また、番頭や参謀的な役割の人で、起業家精神にあふれる人もいる。こういう体験を積んでいると、起業家=起業家精神に溢れている人ではないと分かる。
今までの話を整理すると、これらの世の中も、必ずしも新規事業ばかりが必要な訳ではない。既存事業の延長であったり、改良を加えていく方が圧倒的に多い。
そして、その10%か20%ぐらいが変革を伴う新規事業ということになるだろう。こういうことを担うのは、起業家だけとは限らない。起業家精神にあふれた人が、立場に寄らず、新規事業を創造する。こんな感じで、私は起業と創業を考えている。
以上
情報にお金を払う人は一体どれだけいるのだろうか?
情報はタダである。
日本ではこういう考え方が長く蔓延していた。
私が起業した頃、中小企業の経営者の多くは情報はタダでもらえという感覚が主流だったと思う。その頃、中小企業向けの有料の情報提供などは成り立たないと言われていた。
実際、中小企業向けの経営誌ぐらいが関の山で、とても重要な経営情報でもタダで手に入れるという人が多かった。
一方で、士業の顧問やコンサルタントと付き合っている人は、顧問料などを支払うことによって、彼らから貴重な情報を得ている。
ただ、そんな日本も、新興国などへ進出するときは、情報は有料で手に入れようとする。
企業情報や市場調査など、有料サービスは定番だ。とはいえ、それも大企業中心の話であった。中小企業はできるだけ無料で情報を得ようとする。
実際、経営者として情報に対価を支払う事は、結構、判断に迷う。
なんとなく、設備投資やIT機器を買う場合などは、ものだけに納得感が出やすい。仮に、それが使われなくなってもそれほどのショックはない。
ところが、情報は見えないだけに、対価を支払って得た実感が得にくい。また、形がないので、その時に役に立たなければ、タダの無駄な買い物になる。
世の中には、販路開拓にしても、企業マッチングにしても、色々と仲介する人はいる。今、完全成功報酬というスタイルのビジネスモデルも増えてきた。こういうのも情報を頼りにビジネス活動している。
先に、情報提供料を支払う代わりに、成果が出たら対価をもらうというやり方だ。これは、顧客からの納得感を得やすい。
話は変わるが、今のように、情報が巷にあふれると、自分にとって有益な情報を取捨選択するのでも、なかなか難しい。そんな時に、自分に合った役に立つ情報だけを選別してもらえるサービスがあれば、有料でも私は良い。
むしろ、積極的に使う。信用がおける人や組織が提供する目利き情報は有料であっても不思議はない。
日本でもBtoBマーケティングの世界では、顧客開拓のアプローチ情報は、企業の信用調査会社などから、購入できるようになっている。実際、電話帳やネットで調べて集めるよりも、よっぽど効率が良い。
また、有料会員向けに、ネットで健康の事や病気の事を相談すると、オンラインで医者から返答が来るシステムがある。
こんなサービスが今は、次々生まれる時代なのである。
これからは、必要な情報を見つけるのには、その分野のプロから有料で購入するというのが主流になって行くだろう。
一方で、情報検索が得意で、数多溢れる中から、自分にとって有益な情報を見つけるスキルがあるなならば、ぜひ、自分で続けていくべきだろう。
結局は、自力で情報を見つけるスキルを身につけた上で、それでも誰かから同じ情報を買ったほうがコストが安ければ、そちらを選択という方法がベストな時代である。
以上
言われなくてもする人、言われたらする人・・・
人間、色々なタイプがある。これは、どこの国の人でも変わらない。
私の場合は、日本人だけではなく、ベトナム人などのアジアの人やアフリカの人と、仕事をしているが、基本的な事は変わらない。
彼ら彼女らを部下として見た場合、何か指示を出すことは多い。ところが、国籍変わらず、一定の比率で、分かれるのが、言われなくてもする人、言われたらする人。
前者は、自主的に率先垂範出来る人。もちろん、何も言われていないのに先回りしてできる人も稀に存在するが、一般的には、一度、言われたことがあり、2回目からは、学習して、何も言われなくても自主的にできる人のことである。
後者については、毎回言われないと出来ない人という言い方もできる。この後者も部下としては厄介だ。なぜなら、毎回、同じ指示をして、毎回チェックしないと仕事ができないとしたら、これはこれで問題だが、実際の組織には、もっと問題な人がいる。
それは、言われてもできない人である。
これは、日本人だけではない。どこの国の人もこういう厄介な人はいる。
つまり、言われてもしない、言われてもできない人である。組織やチームのメンバーとしては、足を引っ張る存在である。
私は、仕事や経営をするとき、PDCAを最も大切にしている。もちろん、それは土台としてと言う意味であるが、今のところ、これ以上の仕事の考え方を他には見つけたことがない。
このPDCAにしても、色々な派生的な言い方ややり方はあるが、基本は、やはり、PDCAである。Pのプランは概ね計画という意味で使うが、これは少々大袈裟なことがあるので、ここを段取りする、準備するに置き換えると、シンプルに理解できる。
仕事にしても、スポーツにしても、流石に、いきなり着手、実行することはない。やはり、準備や段取りが必要である。
個人として考えれば、自分が段取りして、実行する。これは料理を作るのでも同じである。今日の夕食のレシピを考える。すでに冷蔵庫にあるもので作る、なければ、買い物と言う段取りが入る。そして、実際に料理する。これはが実行である。まあ、普通は、味見をする。チェックである。何かスパイスが足らなければ、追加する。改善や修正のアクションである。
私達が何か目的をもって活動するときは、仕事以外でもたいていこういう感じである。これが組織やチームになると変わる。
指示をする側か指示をされる側で考えるのが一番分かり易い。指示する側は、個人で自己完結が出来る人が望ましい。
そうしないと、そもそも、段取りがいい加減になるし、PDCAを回すことはできない。
その上で、部下に指示をする。チームのメンバーには、一度言われたらできる人を是非、入れたい。こういう人は、近い将来、指示をする責任者になれる人である。
組織で活動する場合、指示されたらできる人は最低限の条件である。だが、残念ながら、指示されてもできない人かいる。こういう人をどうやって動かすか?これは、とても厄介な問題である。
ところが、得てして、こういうケースは、指示が曖昧だったり、ムラがあったり、チェックが甘かったり。結局は、指示する側の問題であることも多い。もちろん、こういう言われてもできない人を、何とか仕事させることが、ずっと、根気よくできるわけではない。
だから、基本的には、当該プロジェクトや短期的活動の中で、どう成果を出させるかであるが、結局は、そういう人も徹底的にPDCAに乗っける事である。これは、とても根気がいるし忍耐も場合によっては必要である。
だからこそ、私は、今流行りの最先端RPAを作る考えである。筋肉が衰えた人が使う、アシストスーツのようなものにはなり得ると思う。
以上
本音と建前の人間関係の中で
人間関係を好きな人もいれば、わずらわしいと思う人もいる。
人間関係の中で疲れ果て、ストレスが溜まり、悶々としている人がいる。
人間が社会的動物である以上、人間関係を避けて生きることは難しい。
ただ、必要以上に人間に関わらなくても、幸せに生きることはできる。
特に、家族や親しい人に囲まれていれば、それで充分とも言える。
ところが、長い人生、様々な人付き合いが生まれる。学校に通えば、友だち関係、先生との関係だけでも大変に思う子もいる。私も小さい頃はその部類で、とにかく、人と接するのは苦手だった。
それがいつの頃からか、人間関係の中で積極的に仕事している自分がいる。根っこは変わらないので、時々、人間関係に疲れ果てる。
しかも、会社ではつなげる活動をベースとして事業活動や社会貢献活動をしている。自らの発信により、新たな人間関係が加速度的に拡がる。特に、SNSとの絡みで、自分の行動次第では、世界のどんな人とでもつながれそうな時代感である。
一方で、人間関係という密なつながりは、人間そのものの限界があって、やっぱり、100人、多くて200人ぐらいだろうと今でも思う。
椅子取りゲームではないが、キャパは個人差はあれど、決まっているように思う。
人間関係を論じた本を私は好んで読む。特に20代後半、30代前半で、結構はまった著者がいる。中野千枝さんだ。主な著書揚げると、"タテ社会の人間関係"、"タテ社会の現代社会"など、なかなか意味深い奥の深そうなテーマがある。
20代後半に読みだしたのは、自分が人間関係で悩んでいたわけではなく、なんとなくこのテーマに関心があったからだ。
その時の読後の鮮明な記憶は、いまも、心のどこかに残っている。社会的動物とう表現は、大分後になってから知ったが、若い頃のインパクトとしては、人間関係も複雑と、様々な関係性の中で、思い悩んだり、慮ったり、コミュニケーションを円滑にする努力をしたりと、人間は実に悩み深いと言うか、奥が深いと思う。20代に読んだ、先ほどの中野氏の本の中には、本音と建前のせめぎ合いが鋭く表現されていた印象が強い。
実際、今でも思う事は、どんな人でも人間には本音と建前がある。
本音と秘密とは少し違う。建前だけで人と接していては、親密な人間関係が生まれることはまずない。
一方で、極端に言えば、本音だけで付き合いができる人間関係があるのか?と言えば、こちらもレアケースである。やっぱり、両方の使い分けだろうと思う。
もちろん、自分本位に人間関係を構築するための使い分けと言う意味ではなく、基本的にはお互い様。お互いに、本音もあるし建前もある。
だけで、あなたは親友だから、誰よりも本音の比重や密度は濃いですよ。こんな関係がお互いに通じ合っていれば、とても良好だと言える。世間でも親しき仲に礼儀ありとも言う。流石に、どんな人間関係でも言っていいことと悪いことがある。なかなか、奥が深い。
人生が長くなると、それなりに親しくしていた人でも、ある日突然、誤解や何かのトラブルが原因で。実は、こう思っていた。この際だから言うけどね。と、昔の事を走馬灯のように、持ち出して、関係の悪化を招く人がいる。本音が突然表に出てきた状態だ。もちろん、いざという時、利害不一致でも解決しないといけない場面では、こういうこともなくはないが、
やっぱり、良好な人間関係を保つためには、ある日突然の本音は避けたいものである。
以上
自分でする仕事と人に依頼する仕事の区分と考え
仕事を自分一人で完結する場合と、人に依頼して完結する場合、どらちが難しいだろうか?
ケースバイケースで簡単に答えられるテーマではないが、仮に、自分がある分野のエキスパートとして自他ともに認められる状態だったとして、それを人に任せることから考えてみる。
当然、自分にはプロとしての納得できる品質、出来具合などの尺度がある。もちろん、こだわりという見えないものも加味される。
この仕事を誰かに任せて、自分が手掛けるのと同等以上の結果を出すことを目指した時にどうするだろうか?
単純に考えて、自分以外でそういうレベルの人を探して、委託すれば済む話であるが、現実のビジネスではそんなことは簡単には実現しない。
コスト度外視であれば、成り立つ可能性もあるが、そもそも、自分以外に委託するにしても、委託料には限界がある。そうすると、自ずと、社員に任せようと言う選択になる。
デレゲーションという言葉がある。
仕事を任せる時の基本的な考え方だが、自分が何らかの責任者になった時に、仕事を部下や組織の誰かに任せて、結果を出すことが求められる。仮に自分が10のパフォーマンができるとして、人に任せることで、自分が基点になって、チームで100や200のパフォーマンを出すことを求められる。
その期待に応えることはとてもハードルが高い。
最初は、人に任せて仕事をスタートしても、どこかで問題が発生したり、進捗遅れ、仕事の品質の劣化などが起ったりすると、たいていの人は、自分が引き取って、やってしまう選択をする。
誰しも経験があると思う。自分がやった方が早い、自分がやった方が質が良い。こういうことは、日常茶飯事に発生することだ。
ただ、こういうことを繰り返していると、極端な話し、いつになっても、自分以外の人の仕事レベルは向上しないし先につながる経験もできない。そして、いつまでも自分がする範囲だけの仕事しかできなくなる。
私が20年ほど前に読んだ本がある。
そのタイトルは“はじめの一歩を踏み出そう”である。パン職人の話である。一人の秀逸な職人が、複数店舗展開をするにはどうするかのテーマで、少なくとも自分以外のもう一人のパン職人を育てないといけない。
ところが、なかなか任せることができない。それを乗り越えて初めて、自分以外の人に、自分の納得できるレベルの仕事を依頼することができる話である。
もちろん、仕事をずっと個人で楽しむやり方もある。これはこれで、選択の自由なので、自分の技や仕事レベルの向上に神経を集中すればよい。
一方で、人に任せて仕事をしていきたい人は、越えなければいけないハードルが幾つかある。その第一歩が、人に任せてみることである。
最初は、ほとんどの場合、期待外れか失敗に終わる。だけど考えてみたら、自分も駆け出しのころは、そういう期間と機会があったはずだ。
それを乗り越えないと、一人前にはならない。とすると、任せる側と任さされる側の信頼関係が不可欠なことが分かる。
重要な局面で、任せて失敗すると、任せた側が必ず、どんなに負荷がかかろうと修正、回復する用意が必要だし、絶対にそれができないと、仕事そのものを失敗してしまう。
そういう意味では、仕事を任せるレベルの人は、いざという時に、余裕をもっていないといけない。任せたことが順調にいかなかったときのリカバリーする余力が必要な訳である。
これは、単純に、当該の仕事スキルに長けているだけでは不十分である。
自分自身に、人を育てると言う信念と根気が必要になる。
仕事を個人ですることも意味があるが、人に任せてする仕事は、その何倍もハードルが高いのである。
以上