近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

昔の自分、今の自分、未来の自分

マイセルフ。

長渕剛さんの結構昔の歌だ。

もう10数年前のこと、元社員とカラオケに行った時、退社した元アシスタントの彼女が熱唱していた。とてもさっぱりした凛とした女性だったが、その歌いっぷりが今も脳裏に焼き付いている。一緒に聞いていた会社のメンバーも、意外な彼女の選曲に驚いた様子だった。

最初は、長渕剛さんの歌をカラオケでよく歌う私に合わせてくれたのかと思った。

 

以来、私は、マイセルフがお気に入りだ。

やりたい事とやりたくねえ事が思いどおにいかなくて・・・

特に、このフレーズが好きで、今でも何度聴いても身に染みる。この歌の、とにかくまっすぐ生きたいという切実なる想いにとても共感するのだ。

 

私ぐらいの年齢になってくると、子供の頃の自分はどうだったかを振り返る機会が多くなってきたように思う。その頃は、生きるというのはなんとなくしか感じていなくて、その日のことだけを考えて日々を過ごしていたと思う。

人生が始まったばかりで、この永遠に続きそうな日々を、目の前のことだけを考えて生きていたと思う。

 

自分が何者か、どんな性格か、何を大切にしているか、こんなことも考えた記憶がない。誰かに負けたくないとか、目立ちたいとか、全く意識になかったと言えば、嘘にはなるが、自分はなんとなく、主役じゃないポジションの人なんだとずっと思っていた。

 

高校受験の頃になって、周囲の流れに乗って、進学校に進むことを選択し、そして、入学した高校で、いきなり、大学の受験戦争が始まった。

まわりは、県下から集まったエリートばかり。そのクラスで一年生の時、年中感じたことは、劣等感。

こんな世界はとても合わないと思いながらも、親しくなった友だちの関係維持のために、それなりに勉強した時期もあった。

 

そうこうしているうちに、3年になって、受験する大学を決める時期がやって来た。周囲は、1年の頃から目指していた難関大学に入学するために、一心不乱に勉強していた人が多かったと思う。受験勉強が近づくにつれて、緊張感が漂っていくのがあった。

これは、きっと、受験を経験すればだれでも味わう事だと思う。

 

そんな中、私が考えていた事は、どこかの大学に入れたらいいやということと、神戸に興味があったので、そこに住みたいという想いが高まっていった。

無事に大学に入っても、目的意識も持たず、社会に関心もなく、たまたま仲良くなった友人たち10人ぐらいで、毎日のように麻雀をし、パチンコをしていた。アルバイトはそれなりにしながら、遊びの軍資金にした。

行動範囲も狭く、下宿していた街と大学の往復だった。と言っても、2年になってからは、大学にすらいかなくなったので、毎日遊んでいたというのが正しい学生生活の思い出である。

 

時代背景もあったが、こんな感じで20歳ぐらいまで過ごしていた私が、なぜ、起業して、今の様な活動をしているかというのは、自分でもよく分からないところがある。

 

とは言え、その理由を考え続けた日々でもあった。特に、10年ぐらい前から、生きる意味、生きる目的、せっかく生きているのだから、楽しいことをしようと言うのは日々強まってきた。

 

しかし、自分自身が本当は何をやりたかったのかは、子供の頃を振り返っても分からない。

ただ、感覚的には、マイセルフの歌の通りなのである。

この歌は、私が30代半ばの時の歌なので、私が青春時代にはなかった。

この歌を知ったのが10数年前。子供の頃、自分がどうしたかったのかが、今は、この歌に表現されているように思っている。

 

 

以上

アワーファームでの収穫祭は格別

先日の土曜日、待ちに待った収穫祭を行った。

朝の7時前に現地入り。早速、2時間後のスタートに向けて各々の準備を始めた。

 

私は、野菜炒めの準備をした。誰から言われたわけでもなく、私の野菜炒めは十八番だからだ。学生時代も、ベトナムに住んでいる時も、四六時中野菜炒めで生活した。 

なぜ。野菜炒めかと言えば、農家生まれで、子供の頃、自分でよく作っていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の野菜炒めは、地産地消の野菜炒めで、その時に目の前にある野菜を使って作る。学生時代は、近くの商店街やスーパーで、キャベツや玉ねぎを基本に買っていた。

子供の頃は、季節ごとに農家の自前の畑でできたもの。ベトナムでは、スーパーや市場で手に入れた旬の野菜。

 

まあ、時代と共に場所によって、様々違いがあるが、私の野菜炒めの味付けは常にシンプルだ。豚肉と醤油。塩コショウ。これで私にとってはおいしい野菜炒めがいつでも作れる。

 

私たちの第1号ファーム、RINCファームは、南あわじ市の津井にある。

1年前に古い家を農地付きで借りた。昨年の11月に、市長も参加いただき開所式と玉ねぎの作付けを行った。玉ねぎの苗は、地元で有機農業を営む三原かよこさんから、いただいた。 

約100本の玉ねぎの苗を植えてから半年、玉ねぎは想像以上に立派になった。

生育中に肥料はゼロ。農薬も無し。いわば放ったらかし。そう。結果的に自然農法になった。

 

途中、生育状況が心配になった時もあったが、この1か月で急にしっかりと大きくなった。畝の場所によって、大きさがかなり違う。

あらためて農業の勉強にもなる。玉ねぎの作付けの後日、チンゲン菜、小松菜、ネギ、春菊、スナップエンドウなどの種もまいた。

もちろん、本格的な農業とは言い難い。私も子供の頃の農業体験からしても、まだ、幼稚園レベルだとは思う。 

 

しかし、一方で得られるものが沢山あった。何よりも思うのが、自分たちの育てた野菜を食する体験。どんな食べ物よりも料理よりもおいしいという実感と感動。

また、若者や地元の人が集まって、畑の前でのバーベキュー。私もバーベキューは人に招かれて色々と参加してきたが、自前の食材でするバーベキューは本当に格別だ。

 

農地を借りてから、畑を耕すためにミニ耕運機を買い。近くの農業資材を豊富に扱っている量販店で鍬や鎌を手に入れ。何から何まで、自分でやってみる。畝づくりもYouTubeで勉強しつつ、農機メーカーのおっちゃんにも指導を仰ぎ。

 

こういう一つずつのプロセスが全て、パーティの話のネタになる。だから、格別なのである。

今回は、老若男女、実にバランスの良い参加者だった。今後はもっとこのつながりを拡げていきたい。知り合いの社長や社員も参加して欲しいし、特に、都会の子供たちにこういう場の提供をしていきたい。

今、市民農園や家庭菜園が流行っている。私は、こういう動きかどんどん加速して欲しいと思っているし、そういうことが促進できるように活動して行こうとも思っている。今回、特に思ったことの一つは、自分が育てた野菜でバーベキューパーティをする。これを日本全国に広げていこうと思う。

 

以上

おじさん達の昔の話

こういうのを昔自慢と言うのだろうか?

最近、おじさん達の昔の話を聴くのが楽しい。

おじさん達のご年齢は、皆さん、70歳を超えている。

先日もひょんなことから、知り合いの方の若い時の話になった。昼食を一緒させていただきながら、その方が、20歳ぐらいの時の写真をスマホで披露された。今と60年近く前の姿のギャップ感に、一同大騒ぎ。とってもハンサムな好青年に皆驚いた。

早速、別の同世代の方も刺激された様で、自分の写真も沢山あるからから、オフィス戻ろうとおっしゃる。その後の展開はご想像に任せるが、

ここ数か月、おじさん達の昔の話を聴くのが私の趣味になって来た。

 

こういうネタは、単なる昔の自慢話と違って、とても面白い。シニアになって嫌われる人の典型が、聞かれてもいないのに、昔の話を繰り替えしする人。こういうシニアにはなりたくないものだと思って日々過ごしてきた。

そんな中での発見だ。

 

自慢話やつまらない話ではなく、今、魅力的でアクティブな方々の子供の時、若いときはどんな感じだっただろうか?

改めて関心を持ってみたら、これは面白い。

その上、昭和の時代の世の中の様子や人の行動様式、その時代の遊び方、エンタメなどの世界まで蘇ってくる。

 

先日も、教育ビジネスのエキスパートの古希を迎えた社長と新規ビジネスのことで盛り上がった。適度なところで、オフィスでの軽めの飲み会が始まった。これまたひょんなことに、昔話に花が咲いた。聴けば、50年前ホストをされていたと面白おかしく(ご本人は事実をありのままにだったと思うが・・・)お話しいただいた。

 

やっぱり、人間は見かけと違うし、昔は今とも違う。今と昔の自分がどっちが本当の自分かという議論にもなりがちだが、当たり前の話、両方とも自分。少なくとも姿かたちは変わっている。時代背景も変わっている。

半世紀の時を経て、魅力的な方からの昔話と言うのは、そのギャップ感が本当に面白い。

 

考えてみれば、自分の年代年代で出会った方々から見えている自分はそれぞれで違うはずだ。そもそも、実際の今の自分と言うのを自分自身が分かっているかと言えばそうでもない。

 

それぞれの時代に付き合ってきた人たちから見たら、私自身も別人に見えると思う。

 

こんなことを考えていたら、平野啓一郎氏の分人論に書いてあったことを思い出す。

多重人格ではなく、分人論の発想は面白い。

ただ、この話は、基本的には、今の自分と言う尺度での話だ。最近私がハマっている昔話というのは、時空を超えての分人論かもしれない。

 

幼少期の自分、20歳ぐらいの自分、31歳で創業した時の自分、迷走した40歳前後、ベトナムに実質住んでいた40代の自分。

こんなことを考えてみると、ごく身近な人以外、こういう変化を自分以外に誰も知らない。これを外から見ると、興味を抱く人がいても不思議ではない。

 

では、どうやって、それを引き出すか。

聴く相手がいないなか、しゃべるものではない。たいていの方がおっしゃるのは、自分の昔の話なんか、誰も興味を持たないですよ。と。

でも、実際に聞いていて面白い。もちろん、それは今のその方が魅力的だからである。

 

人生100年時代、こういう昭和のおじさんの昔の話は、ぜひ、記録に残して、未来に残そうと思う。ビジネスや社会活動の大切な話しも重要だが、おじさんの昔の話も結構役に立つ。

おばさんと言うとお叱りを受けそうだが、女性の方の昔話も男性とは違う価値が相当あることも知った上での話しでした。

 

 

以上 

社会課題を解決するとはどういうことか?

最近、社会課題というキーワードが目立つようになった。

ビジネスの社会は言うまでもなく、一般の生活者の間でも社会課題を意識している人は増えてきた。また、必然的に政府や行政も社会課題の解決のための政策や予算の執行が増えている。

 

私自身が運営する会社での活動も、経営者と向き合いながら、官公庁自治体とのかかわりの中でも実感するところである。

社会課題と言っても今の日本には実に多くある。

高齢化社会少子化、農業の衰退、保育園不足、健康の問題、医療の制度、労働者不足、そして、これから高齢化社会に向かう中での悩める中年のビジネスパーソンも全体で見れば、社会課題と言える。

 

だからこそ、私達は、社会とは何かを知っておく必要がある。

最近仲良くしている20代のいけているビジネスパーソンの知人と飲んでいて、私にとって大切なことが見えた。それは社会学だ。

以来何冊か本も読んだし、社会学に関心の高い人との情報交換、意見交換も積極的にしてきた。

まだ、浅い知識しかないが、そもそも、人間が生きるために集まりができる。そして社会になる。

 

例えば、大学、学校、地域の活動。企業も社会の一つだ。ビジネスの世界では、実に様々な企業の集まりがある。商工会議所、同友会、青年会議所・・これも社会だ。村、町、市、地方自治体も社会だ。私たちは、社会無くして生きていけない。

 

本質的には、人間が社会的動物と言われる所以だと思う。社会は無限に存在できる概念にも思える。そうすると、現状の社会に満足できなければ、問題があるという事になり、それを計画的に解決しようと思えば、それは全て社会課題と言っても過言ではない。

 

こう考えてくると、人間が誕生以来、社会生活を営むようになってから、何万年も社会に課題はあった訳である。だから、今が、最も社会課題が多い時代と言える根拠は中々見当たらない。

 

むしろ、人間の営みやビジネスが進化しているとすれば、それは社会課題を克服した結果に過ぎない。でも社会課題は永遠になくならないと思う。

今どうして、社会課題の解決に多くの人の意識が向くのだろうか?

 

それは、社会全体の見える化が進んできたからだと思う。可視化と言い換えても良いが、やはり、この最大のきっかけは、IT社会の浸透であることは疑う余地はない。

見えなかったものが見えてくる。それまでは、意識すらできなかったものがつながっていく。そもそも顕在化していたそれぞの社会の課題が、一気につながり、見える化されることにより、知りえなかった人が社会の課題を認識する。

 

そうすると、共通意識も高まるケースも出てくるだろう。自分の村も遠い先の村も同じ課題があるんだ。例えば、高齢化社会の実情は、どの地方に行っても本質の課題は同じだ。自然と、連携して社会課題を解決しようと気持ちが昂る人が出てくる。

一方、自分には実感がなくても、例えば、アフリカの発展途上国の食料危機の問題が見えてくる。今私たちが生活している実情と照らして、何とか出来る事があるのではないかと考える。

 

そして資金的な支援も含めて、応援する、一緒に啓もうする。色々な社会課題の解決に向けての行動が始まる。

 

見える化が始まりつつある時代。

あと、10年もしたら、社会課題が目新しいことでなく、当たり前になって、私たちが生活したり働いたりする事が自然と社会課題の解決に向かっていく。

こんな時代の到来も近い。

 

 

以上

そもそも社員教育は何のためにするのか?

最近、ずっと考えていることがある。

それは、今の社会人とは何かである。

そもそも、昔は、社会人=会社人=働く人という印象を持っていた人が多いと思う。

私も、学生の頃は、社会人=サラリーマンになることと思っていた。

 

サラリーは給料のことであるから、サラリーマンとは月給をもらって働く人のことを指してきたと言える。

これは高度経済成長期を眺めてみれば、自然のことかもしれない。

貧しい生活から抜け出すため、豊かな生活をするため、車を買うため、美味しいものを食べるため・・皆がそんな似たような動機のなかで、猛烈に働く。これがその時代の働き方であり、サラリーマンの象徴であった。

 

それがいつの頃からか、ビジネスマンが主流になった。そして、さらに時代も変わり、今は概ねビジネスパーソンと言われるようになった。

男女平等の元、"マン"ではいかがなものかという事で、パーソンになった。偏見を含んだ和製英語が変わった事には私は賛成だ。私も随分前からビジネスパーソンに切り替えた。

 

だが、サラリーがビジネスに変わっただけで、要するに金を稼ぐという意味合いはいまも変わらない。

日本は、すでにバブル崩壊から30年を超えた。

もちろんバブル崩壊は日本だけではない。どこの国も、経済に限らず、加熱しすぎたことは崩壊するという自然の摂理で考えれば日本だけが珍しいことではない。

 

私は、そろそろ、日本のビジネスパーソンが会社人間から脱皮するべき時期だと思う。経済成長ありきの時代は終わっている。

この約30年も実にいろいろな事があった。それを人は変化の時代と言う。

 

改めて、社会人とは何かを考えてみたい。

冒頭で書いたように、働く人と言う印象もあるが、大人という定義でもあると思う。

少なくとも日本では、社会の一員として、人生を過ごさないといけない。

社会と言っても様々だ。会社は言うまでもなく、大学、PTA、市民としての立場、マンションの管理組合。大小目的も違う様々な社会がある。

 

その中で、社会人の働く事のウエイトは今はどれぐらいだろうか。

高度経済成長期と違って、働く事がすべてに優先の時代ではないのは明白だ。働く以上に社会への貢献も求められる。

しかし働く時間は、昔とそうは変わらない。働き方改革が叫ばれ、労働時間が少しは減る傾向にはあるが、働き過ぎの日本が変わったかと言えば、それほど顕著ではない。

 

そもそも、ヨーロッパの人の働く時間がとても少ないと言う情報もあるが、彼らは働く時は日本人のかつての猛烈サラリーマンよりも働く人もいる。要はメリハリだ。だから、必ずしも働く時間が多い少ないでもない。

今は、仕事以外の時間で意識することは劇的に増えた。生活者としての立場から見た社会が見えるようになってきた。メディアの変化もある。エシカル消費などの意識の変化もある。

 

私は会社は社会の入り口の一つに過ぎないと考えているので、これからの日本では、仮に働くとしても会社以外の社会を知らないことには、どのみち、仕事の成果は出にくいと考えている。

 

これからは社会人教育が必要で、企業の社員教育を変革する絶好の機会だと思う。

にも関わらず、社員教育は、相変わらず手を変え品を変えて仕事のスキルアップを目指す。企業は、ずっと以前から社員教育をしてきた。今どきは、中小企業も頑張って、オンライン教育などでコストを抑えながら、社員教育をしようとする。

 

ところが、残念ながら、私が知る限り、仕事力をつける、仕事で結果を出す、会社の業績や付加価値づくりに貢献する。せいぜい、こういう教育がほとんどだ。

 

会社が、今すぐ始めないといけないのが、生涯にわたって役に立つ教育ではないだろうか。社員が一生一つの会社でいる時代はとっくに終わった。

 

今、流行の健康経営にしても、仮に社員が退職しても、社会人として一人の生活者として健康に暮らす。それが巡り巡って社会の貢献につながる。こういう動きが芽生えてきた。

 

そいうこととも密接だが、社員教育も自社への貢献だけではなく、生涯にわたって社会に貢献できる素養を身に付ける、社会の基礎知識を習得する、社会とのつながりを創る。こういうことに力点を置いた社員教育を創めよう思っている。

 

 

以上

 

ベトナム活動が活発化しつつある楽しみ

越日国交樹立50周年。

来年2023年は両国にとって節目の年である。

これは、ベトナムから見たら、戦後50年という事になる。

私は、小学校の頃、ベトナム戦争の様子はテレビで観た記憶がある。

あれから、半世紀と思うと、本当に思いは複雑でもあり懐かしくもある。残念ながら、あれからも世界で数多くの戦争が繰り返されている。今もである。

 

日本もそうだが、戦後復興を人類は繰り返してきているとも言える。ある意味、なんと愚かなんだろうとも思うし、復興を成し遂げるさまは人間のレジリエンスを感じる局面でもある。

私が、ベトナムに初めて訪れて、すでに20年を超えた。その時は、単純に引き算すると、戦後30年。

感覚的なものでしかないが、日本の戦後30年だと1975年ごろであり、私が10数歳のころ。東京ではなく徳島の田舎にいたので、私は比べる尺度は持っていないが、きっと三丁目の夕陽の時代感なんだろうと思っていた。

あれからの20年のベトナムの進化と変化、本当に想像を超えたことばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特にこの10年は、あっという間に高層建築が増えた。本当にあれよあれよと言う間にだ。私は、仕事柄、建築関係もしているので、高層マンションや高いビル建築を見て、大丈夫かなという心配で見ていた。

たった10年前に立ち上がったようなゼネコンが、いきなり高層建築を建てる。いくら地震がほとんどないからと言っても本当に大丈夫か?懐疑的にしばらく見ていた。そもそも専門家でなくてもそう思うだろう。そんな私の勝手な心配をよそに、街は日々、生まれ変わった。

 

車も一気に増えた。住宅も豪華な家がどんどん建つ。目の前の経済成長を目の当たりにしながら、いつも日本の昔と今に想いを馳せたものだ。

 

今日の今でも、ベトナムを知らない日本人は沢山いる。観光でもビジネスでも一度でも行けば、かなり違う。百聞は一見に如かずである。

 

しかし、実は、ベトナムは小さい印象があるが、すでに人口は1億人近い。今でも世界で15番目である。当然、若い国である。日本よりも勢いがある。また、縦長の国土は、日本にも雰囲気が似ている。私は、それを並べてオリジナルな地図を使ってきた。

 

経営者の目線で見れば、知らなければ、ベトナムの魅力や可能性は分からない。行ってみなければ、実際の雰囲気や勢いは感じられない。

しかも、行った場所や回数によって、ベトナムの見え方は実に多様だ。貧富の差も日本に比べるとかなり大きい。都会と田舎のギャップ感は、すでに日本以上かもしれない。

 

まだまだ、ベトナムの実態を知らない経営者が沢山いる。この20年間も多くの経営者にベトナムのことを伝え、ご案内もしてきた。視察ツアーは軽く100回を超え、チャーター機も3度飛ばした。情報発信は毎日のようにしている。

 

冒頭で書いたように、私は、越日国交樹立50周年は、両国の関係を飛躍的に発展させられる絶好のチャンスだと思っている。

今まで、地道に積み上げてきた活動やビジネスの実績は大切にしたいが、一方で、その延長線上にない取り組みを色々と仕掛けようと思っている。

 

その第一歩として、お互いが行き来するのが大切な事ではあるが、やはり、すでに日本に来ているベトナム人とどれだけ仲良くなれるか、共生できるかだと思う。

 

だからこそ、ベトナムでする記念行事や活動も大切だが、日本のつずうら浦でも行っていこうと思う。

 

以上

 

セルフ文殊の知恵を勧めるわけ

最近、仕事でよく使うようになった言葉がある。

3人寄れば文殊の知恵。

子供の頃から知っている言葉だが、改めてネットで調べてみた。

デジタル大辞林から引用する。


文殊は知恵をつかさどる菩薩》凡人でも三人集まって相談すれば、すばらしい知恵が出るものだということ。

 

シンプルで分かり易い。

人間の知恵は奥が深い。仕事でも知恵のある人と仕事を常にしていたいと思う。

反面、個人で突出すると、他の知恵や意見を聞き入れなくなる。何事もそうだか、その道のプロになると極端に言えば、孤高の人という世界になっていくことがある。

 

身近なところでは、アイデアが思い浮かぶ。

私の場合、何か新商品やサービスのネーミングもある。あとは、書籍のタイトル。こういうものは特に、何かひらめいたら、機密にしておかないといけない部分あるが、一方で、すぐに身近な人、信頼できる人に知恵をもらうことが大切だ。

ブレインストーミングを活用する人も多い。

 

本創りで少し、深堀してみる。

本を一冊作るのには、概ね8万文字ぐらいの文章が必要だ。昔風に言えば、原稿用紙200枚。書いたことがない人が、この数字を聞くと、ちょっと引き気味になると思う。しかし、工程を分解して考えると、書くことだけなら思っているほど労力ではない。

実は、そこから先の工程で苦難が始まる。整合性をあわせたり、自然なストーリーにしたり。仕上げの推敲も大変だ。

きっと、小説家になるような人は、全体にまとまりがある文章を構想する力があるように思うが、ビジネスを書く人は、私も含めて、そういう特殊な能力を持っている人は少ない。

 

だから、何よりも大切なのは、他人に読んでもらうことが大切になる。読者目線で読んでもらいたい部分と、専門分野が分かる人にも、同じ立場として、粗さがしをしてほしいのだ。

実際、私は、本を作る場合は、最低でも数人に原稿を読んでもらう。もちろん、ほとんどは社員だ。それと本のテーマ、内容によっては、身近に自分を知ってもらっている人、知人などである。

 

そうすると、必ず自分が知らない、気付いていない、エッセンスとなるような大事な一言。こういうのが抜けていることもあるし、表現の仕方がより良い内容に変わったりする。

 

あと、もっとシンプルな事例で言えば、お客様に出すちょっとした文章。

特に、お詫び系の内容や、込み入った折衝の文章。こういうのは、第三者に入念に赤入れをしてもらう。やはり、人間には思い込みがあるのと、どんな文章を書くにしてもそうだが、話し言葉とも似ていて、書く時に思いつくのは一つのパターンに過ぎないからだ。

 

こんなことをつらつら書いていると、では、身近にそういう人が実際にいない。あるいは、切羽詰まっていて、そういうタイミングが取れない。こういう時はどうするのか?という疑問がある人も多いだろう。そんなときのとっておきの方法がある。

 

もう一人の自分を使うのである。

もう一人の自分と言うのは、客観的な自分の事である。一度、自分の頭の中から忘れる工程を作るのがポイントだ。

具体的に言えば、何かのアジェンダを作る。それを印刷して1日か2日ほっておく。(もちろん、大切にした上での話だが・・・)

そして、翌日か翌々日の自分が見直す。つまり、そのアジェンダを書いた前日、前々日の自分とは違う自分がチェックする。思い込みの半分は消えているので、新たなものが見えてくる。

 

これは、本にも報告書にも使える。もちろん、ほっておく時間が長いほど良い。本などは、2、3か月ほっておくと、自分が書いたとは思わなくなったりする。こういう時は、セルフ文殊の知恵が実感できる。

 

 

以上