無駄な消費が減ったことで見えて来たこと
コロナ禍が始まって、すでに1年。
大変なことや不安なことも多いが、怪我の功名というか災い転じて福となって欲しい。今回は大きな転換期になるのではと思える変化や活動も、すでに数多く生まれている。
その一つが、無駄な消費が減ったことである。
これを経済的な側面から見ると、経済規模の拡大が命題とすれば、マイナスではある。
もちろん、必要な買い物や必要な活動が出来なくて、減った部分はあるので、こういうものは早く回復するなり別の手立てを生み出さないといけないのは間違いない。
ただ、実際に、日本のような先進国は必要以上の消費をしていた特異な国である。食品などはその典型で、食品ロスの問題も深刻だった。
日本はとにかく新商品が次々と生まれる。消費する側の生活者もそれにそそられて、次々と新しいものに手を出す。
新興国から見たら、よだれが出るほど魅力的な商品が使い捨てされる。そして、一部は新興国の彼らの生活必需品になる。
こういう部分的な流通を見れば、中古品の有効活用につながるリサイクル、リユースの世界なので、一見、健全な流れにも見える。
しかし、地球全体の事を考えれば、当たり前すぎる話だが、無駄遣いは地球の資源の無駄使いであり、ゴミを増やすことは環境破壊につながる。
至る所のメディアでも出ている話だが、コロナ禍の影響で一時期、工場の稼働が制約された中、世界の多くの工業地帯の空がとても美しくなっていた時がある。よっぽど、強制的で意図的でなければ、現代人がこういう景色は眺めることはなかった。元の美しい姿をすっかり忘れていた訳である。
先進国の経済メカニズムというのは、できるだけ多くの消費を促し、できるだけ消費サイクルを早くして、次々と商売を拡大することである。
もちろん、経済発展が全てダメだと考えている訳ではなく、地球環境を破壊して、地球の資源を使い果たすような経済発展は誰の目で見てもとっくに限界が来ている。
人間以外に地球上で地球を壊す生き物はいない。
こんなことを考えていると、コロナ禍自体は早々に解決して欲しいのは当然としても。
一方では、こういう得難い経験をしたことで、日本人だけでなく、今の地球上の人類がこの先どうするかが大切である。のど元過ぎないうちに、この経験を活かすことを考えないといけない。そして、行動を変えないといけない。
しかし、それはとてもハードルの高いことである。今の経済メカニズムで社会生活が成り立っている。
無駄を排除して、今の経済が仮に20%縮小したとする。これは地球にとってとても好ましい選択である。CO2排出の削減にも寄与する。様々なメリットはある。しかし、失業者があふれる。社会が乱れる。こんなジレンマの中で、本当に変革を誰が実現するのか。
それを、企業に期待できるかといえば、経済メカニズムのど真ん中に存在する以上、これは難しい。カニバリゼーションのジレンマの中で身動きできないだろう。
やはり、生活者の意識と行動が変わるのが最適な方法だ。無駄なものは買わない。環境に悪いものは使わない。
水も必要以上に使わない。風呂の水、洗濯の水、ホテルに泊まっても水を節約する。
ファッションも同じだ。次々と服を買わない。
こんな風に考えていくと、私たちが当たり前と思っている今の日本の生活は、もしかしたら、すでに人間が到達しても良い便利さ贅沢さを飛び超しているようにすら思える。
アフリカも同じ地球だ。アフリカの生活を基準にした時に、アフリカの全ての国が日本のような水準の生活をするとしたら、いったい地球が何個必要なのだろうか?
こんな論説もすでに世の中に溢れている。
コロナ禍前に元に戻るとしたら、人類はラストチャンスを逃すことになると思う。
そのためには、まずは、現実を知ること。地球上の隅々の現実を知ること。
アフリカをマーケットとしてのラストフロンティアとして見るのではなく、これからの新しい人間の生活や経済の仕組みを再構築するモデルとしてのアフリカの存在意義を考えることが重要だ。
人類が発祥の地である意味と言うのは、こういうことであると思っている。
以上
ITという科学技術を創った人間が向かう先
“利器か凶器か人類に問う”
去る4月3日の日経新聞の一面の見出しである。
これだけ見れば、核兵器や最先端の戦争テクノロジーを思い浮かべても不思議ではない。
実際に、人類にとってこれらの深刻な問題が解決した訳でもなければ、良い方向に向かっているという事は決してない。
また、今となってはずいぶん昔のように思えるが、2007年に上映されたダイハード4は時代を先取りして、サイバーテロで都市を破壊する話だったと思う。すでに、絵空事ではなくなった。
人間は科学技術を発展させながら、一方でこの使い方で苦悩している。必ずしもすべての人間が健全に使おうと思っていないところが、人間の弱さであり怖さである。
読まれた人もいるだろうが、実はこの記事は、情報についてである。ネガティブな部分から見ると、悪い情報やフェイクニュースはちゃんとした情報の6倍速く伝わる。その背景として、インターネットが世界に普及し、今は、スマホ、SNSを一般の人が使うようになったから。
こんな感じの内容である。
まあ、記事の内容は、私のようにITの専門的な仕事をしてきた立場から見ると、特段目新しいことはない。では、冒頭で紹介した見出しは大げさすぎるのか?と言えばそうでもない。なぜ、日経新聞では最近こういう記事が最近目立つようになってきたのか?を考えてみたい。
デジタルやネットというのは今や私たちの生活やビジネスの社会インフラの一つであると言っても過言ではない。
例えば、移動を考える場合、日本のように交通手段が全国隅々まで充実している国は世界でもない。日本国内だけで、生活していると今の環境が当たり前すぎで、この恩恵に日々感謝しようと言う気持ちは薄くなる。
実際は、メリットは相当大きくてもその価値をあまり分からなくなる。これをひとたび、新興国で活動している側から見ると、日本ぐらい移動が楽な国はない。しかも安全である。もちろん、安全と言っても、交通事故は少なからずある。だから、平均的な人は、事故を起こさないように細心の注意を払って交通インフラを利用する。
こういう社会インフラに比べると、ITを基盤にした情報流通のインフラはここ数年で一気に世界に拡がっている。
こういう基盤の上で、SNSなどのアプリケーションが乗っかっている状態である。
日本の車社会の黎明期の戦後、車の性能も悪かったし、交通ルールも未整備だった。そして後追いで法律ができてきた。続いて日本ならではの交通マナーも醸成されてきた。
今のような先進国の中でも比較的安心安全な日本の交通インフラは少なくとも半世紀の時間をかけて、人間が自ら改善しながら発展してきたのである。
一方、ネットを基盤にした情報流通のインフラには、全く無知で無謀な人が何の制限もなく参加できる。もちろん、悪意を持った専門家がどこに潜んでいるか、知る由もない。どう考えても、犯罪の温床なのである。
結論から先に言うと、人間の適応が環境の変化に全く追いつかずに、科学技術が走り過ぎている典型だろう。
科学技術が生まれてきた数百年として、かつて、これだけ加速度的に進化している分野はなかったのではないか?
しかも全世界で全ての人が論理的にはネットは使える状態である。少し考えただけでも恐ろしい。
だから、この見出しは、決して大げさではないのである。
もう一度、冒頭に戻るが、この記事の中では、意図的かもしれないが、インフォデミックという言葉は使っていない。
コロナ禍に関して、真偽入り交ざった情報が飛び交い続けている。
しかし、最近、落ち着き感もある。それは、科学的思考が少しでも浸透しつつあるのではないか。安心安全な情報の見分け方、活用の仕方が身に付きつつあるように思う。数字であったり統計であったり、科学的根拠はあるのか?という思考が生まれてきたのではと思う。少なくとも私がお付き合いしているつながりのなかではそうだ。
利器か凶器かについて、私も長年ITに関する仕事をしてきた中で、昔から使っている例えがある。それは包丁だ。石器時代にも同じ用途のものはあったと思う。
包丁は基本的には本来の料理を作る用途であれば、利器である。しかし、これを凶器として使うことはできる。
私は、これをメリットとリスクと表現してきたが、この記事で言うところも、私たちが体験しているネットでのヒヤリハットも、基本的な原理原則は変わらないのである。
以上
出る杭になりにくい国、日本は変われるのだろうか?
今、親として大人として、子どもたちに
“出る杭になりなさい”と本気で言えるだろうか?
この10数年が顕著だが、出る杭の足を引っ張ろう、揚げ足を取ろうという風潮がものすごく蔓延していると感じる。
その最大の原因は、SNSに代表されるネットだろう。
今では当たり前になったが、メジャーなヤフーなどにしても大抵の投稿記事にはコメントが書けるようになっている。私も時々眺めることはある。
例えば、先日のゴルフの松山選手の優勝や池江璃花子さんの活躍ぶりには私も嬉しかったし、心が揺れる。そんな時に、称賛する記事に対するコメントを見るとそれはそれで楽しいし、共感できる部分も多い。
流石にこういう快挙を批判するコメントは皆無だ。一方で、人間の毀誉褒貶ぶりがネット上で増長されて、今では炎上対策なるものまで登場している。
昔から世間でも言われてきた。中途半端に出るから叩かれる。突出すればよいと。
確かに一理はあるが、そんな無理筋な話では日本は変わらないだろう。そもそも、最初から出る杭になる人は、人に何を言われようと関知しない志の高さと勇気が必要だと思う。
いまの世の中には、ネットの世界で炎上を自ら誘発して、それで商売につなげる人達がいるのが事実だ。単純にネットでは、人の本音が暴露されやすいというのもあるが、厄介なのはこういう人たちが、不健全なビジネスを幾らでも作れてしまうことにある。
この出る杭になると言うのを言い換えると、失敗を恐れない。ということでもある。
日本は、外国に比べると失敗を極端に怖がる国である。よく、オリンピックなどで話題になるが、金メダルをとれなくて国民に申し訳ない。というコメントが典型だ。
もちろん、愛国心であったり、自己肯定感であったり、そういう気持ちが強く出ての発言だと思うが、日本人は、背景には失敗を看過できない国民性があるとの意見も多いが、私も同感だ。
この背景は根が深く複雑だと思う。島国であることや遺伝子の特徴も根底にはあると思う。
ただ、今は、グローバル化がどんどん世界で進行している。これは大都会だけの話ではなく、日本の地方でもグローバル化とは無縁ではない。
私は、大人が自ら挑戦して失敗することも素晴らしいことであると思っている。大人の率先垂範を子供たちにと伝えていくことが大切だと思う。
例えばスタートアップという起業が確かにある。しかし、この定義ぐらい曖昧なものは無い。短期間でスケールアップする起業のことだと言えば、なんとなく分かるが、その意義はあまりあるように思えない。
ひところ、GAFAを称賛していた人たちはどうなってしまったのか?情報系のプラットフォーマーが巨大化して影響力が多大になってきた今、批判と規制の嵐だ。
ようするに急激に独占状態で発展する企業に健全なるものは無い。という自然の摂理だと思うが、それでもIT系のスタートアップをはやし立て生み出そうとする日本の風潮は大丈夫かと本気で心配になる。
日本は、世界マーケットで大企業を生み出すことに価値がある訳ではない。ちいさくても良いので、世界のマーケットで、出る杭になる起業家がどんどん生まれる国の姿が望ましいと思う。
シニア起業や女性起業家などが増えて年齢性別問わず多様なビジネスが生まれてつながる。こういう時代を日本が世界でリードできる絶好のチャンスだと思う。
以上
今話題の二刀流のすごさと難しさを考える
私は今、大谷翔平選手にぞっこんである。
日本の野球ファンであれば、皆同じ気持ちではないだろうか。
もっと言えば、野球ファンでなくても、
この二刀流への挑戦は、とても興味があるのではないかと思う。
野球に詳しい人ならだれでも知っているが、そもそも、野球はアマチュアの世界では、投手としてエースでバッターとして4番というのが定番だ。
私も少しは野球したことがあるので分かるが、ピッチャーとして優れている選手はバッターとしてもすぐれている。
高校野球の甲子園の戦いなどを見ていてもそれはよく分かる。強豪校のほとんど中心にはエースで4番と言う存在がいる。
もちろん、例外もあって、エースだけで4番を打たない選手もいるが。
大谷選手も高校まではそういう凄い選手だったわけであるが、それがプロ野球でできるかと言えば前例はほとんどない世界だった。
明らかに、メジャーリーグの方がレベルが高いわけで、元メジャーリーガーが大谷選手の最近の活躍を表して、メジャーリーグがリトルリーグに見えると評した。
それだけ、超越しているのだと思う。
なぜ、大谷選手が二刀流になったかと言えば、もともと本人が挑戦したいという強い気持ちがあったにしても、日本ハムの栗山監督からの提案だったとしてメディアでは知られている。
高校を卒業して即メジャーリーガー思考だった大谷選手を日本ハムがドラフトで指名した。口説き文句の中で出たらしい。
こういうことを思うと、本当に人間の運命とは分からないものだ。出会いや様々な因果で選択肢が常にいくつもある。
二刀流は、そんな中での大谷選手自身の選択だったと私は思っている。
そして、日本での二刀流でそれなりにセンセーショナルな結果を出した。
それにしても、今年のスタートダッシュには驚きだ。いちファンとしても応援しているが、メジャーリーグの常識を破る活躍をしてほしいと願う。
大谷選手について、ファンを中心に周りは様々な評論や想いを語る。ネットで見ていても結構面白い。
一番多い意見は、どちらかに専念してはどうか?凄い成績を残せるのは間違いない。こういう議論や意見が多く、二刀流推奨派は少数だったと思う。ところが今年の活躍で、そういう意見も大きく変わってくるだろう。
そういう私も二刀流で成功して欲しいと思いながらも、どっちかに専念したらどうなるんだろうということは常に考えていた。
バッターの方が大成するのではという意見が多いが私も同じだ。なぜなら、毎日試合に出れるのと、ピッチャーは怪我をしたら回復に大変という考えがあるからだ。
レベルは全く違うが、私たちの仕事の世界でも二刀流の話は結構存在する。
言い方を変えれば、“2足の草鞋を履く”だと思う。
私もできれば、二刀流、三刀流を目指したいタイプである。
剣の達人の宮本武蔵は、二刀流だ。
二刀流は強そうに思う。
では、二刀流で一流になれるかと言うと、これはなかなかハードルが高い。
仕事の世界で考えると、10年一つの事に精通してから、次の事。こういう順番で積み上げるのが一般的だと思う。
仮に同時に2つのことを磨いていこうと思うと、一つだけに専念している人の半分の時間しか取れないわけである。しかも、違う事を2つするメリツトもあるが、デメリットの方が大きいと思う。
大谷選手の場合だと、メディアに良く書かれているが、鍛える筋肉が違うしトレーニングの方法も違う。そういうことを考えるとなおさら凄さが分かる。
きっと、これからはメジャーリーグに限らず、世界の野球少年が二刀流を目指すのではないかと思う。
どこかで、野球とゴルフの両方をする子供が出てきても不思議ではないのではない。メジャーリーグで二刀流の大谷選手を分類する尺度がなかったので、変更したようだ。
オールスターの投票もしかり、年俸交渉も前例がない。二刀流の価値を評価する新しい基準が創られつつあるようだ。
仕事の世界でも二刀流の評価化できる価値観の醸成と人事評価などが追い付いてくると、二刀流は増えていきそうに思う。
以上
未だに私が中小企業のIT化支援に強い関心がある理由
創業以来、中小企業のIT化支援をつねにビジネス活動の軸にしてきた。
そういう意味では、この分野の第一人者の自負はある。この中小企業のIT化については、多くのITサービス会社の関心の中心であり続けている。遡ること30年。私が20代の頃から、日本の中小企業のIT活用が始まったと言える。
最大のトリガーは、パソコンが登場して、仕事でも使えるようになったことだ。今やパソコンの語源を考える人もいないと思うが、パーソナルコンピューターだから、個人ユースの意味である。もちろん、仕事も個人ユースと言えばそういう部分はあるが、その当時の中小企業は、コンピュータを使うとしたら、オフコンが定番。ちなみにオフィスコンピュータの略である。
または、手書きのみの業務処理であった。今は流石に完全手書きのみという中小企業はないとは思うが、いずれにしても、アナログと言えば中小企業と言うイメージは根強い。
これは、ITを使う、つまりデジタルを使うかどうかの視点もあるが、そもそも、中小企業の仕事は大企業に比べて現場寄りだ。
例えば、建設業。大企業のゼネコンから出るのは現場監督とその見習い、それと事務職の人である。あとは、いわゆる下請けである。鉄筋工や設備屋さんなど全て下請けの中小零細企業が請け負っている。
たいていの業界はこういう構図だ。資本主義社会の中の経済メカニズムでは今のところ、これが理想的な業務遂行体制だと考えられていると思う。
私が、“だから中小企業のIT化は失敗する”を上梓してすでに20年を越えた。ITサービス会社が手を替え品を替えて、未開のマーケット開拓に臨む。
この20年で中小企業マーケットで成功したITサービス会社も無くはないが、必ずしも経営に寄り添っているとは言い難い。儲け主義が先行する今の世の中では、なかなか、中小マーケットに参入は難しい。
私は、先ほどの本を上梓して以来、
IT工務店を標榜していた時期があった。いつのまにか使わなくなっていたが、実は今でも私はとても気にいっている。
私はITを建築の世界のイメージで考えている。
例えば、家を建てたいと思えば、今であれば大手ハウスメーカーを筆頭に多くのしっかりした会社が乱立する。こういう選択も当然ありで、どこで家を買ってもそん色はない。
一方、減りつつあるとはいえ、今でも地方に行けば地場の工務店がある。そして大工さんがいる。職人さんが信頼関係をベースにお客さんの望みの家を建てる。手作り感満載である。最終的には顧客の選択だが、こういう工務店は永久に無くならないだろう。
今のようなIT全盛期になると、一概に比べることはできないにしても、やはり、中小零細企業のIT化というのは、日本の経済の根底に関わる重要な課題である。
私は、こういう企業に寄り添って、今の時代にできるITサービスを再構築しようと考えている。
その時に、考えておきたいポイントを幾つか挙げる。
今、ITの進化は加速度的だ。結果的に新商品やサービスが次々と生まれては消える。
しかし、そういう世界だからこそ、ITは分かりにくい。
一番重要なことは目利きである。
それと、無駄なコストが発生しやすい。これは、私たちが日常で知らず知らずのうちに、スマホの中に使わない有料アプリがてんこ盛り。こういう時代である。
あとは、ITリテラシーの問題。昔で言えば、ITアレルギー。ただ、今やパソコンは苦手でもスマホを使っている人が圧倒的に多い。
こういうところから、IT化に入っていくのも今どきのポイントだ。
いずれにしても、ITが不得手な企業が振り回されないようなサポートの仕組みを再構築しようと色々と考え中である。
ある意味、中小企業支援ビジネスとしては最後の貢献にしようと思っている。
以上
”新興国の起業家たちに何を学ぶか”
スランプ脱出の大きな要因はやっぱり人だと思う出来事
4月12日は、日本のゴルファーにとっては、一生忘れない記念日になった。いや、日本国民にとってもそうではないだろうか。
PGAのメジャー大会、マスターズで松山英樹選手がチャンピオンになり、長年の日本の悲願が達成されたのである。私は、毎年恒例の通り、ネットのライブ中継にくぎ付けになっていた。
少し専門的でゴルフを知らない方には恐縮だが、サンデーバックナインと言われる決勝日の後半の9ホール。かつて様々な劇的なドラマがあった。
スーパースターのマキロイ選手やジョーダンスピース選手も数打差の首位でこの位置に立ちながらサンデーバックナインで崩れ去ったこともある。
それだけ、プレッシャーは相当だと想像できる。
前日の3日目の大爆発で、トップに躍り出た松山選手。決勝のこの日は、前半の9ホールを終えて、5打差で首位だ。普通に考えれば、勝利はほぼ間違いないところだが、何せ追ってくるのはトッププレーヤーばかり。しかも、数々の逆転劇が私の脳裏に浮かぶ。
そして、一方で、日本人がこのままチャンピオンになったら、日本の今日というこの日は一体どんな1日になるだろうか?そんなこともワクワク感も想像しながら、わずか一時間少しを心臓バクバクしながら視聴していた。
結果は、1打差で逃げ切り。日本中の大歓喜の渦の中に私も放り込まれた。
未だに、他人ごとではあるはずなのに、自分事のように嬉しさがこみあげてくる。
そして、ゴルフ好きの仲間に会うたびに、誰にとってもこの嬉しい出来事が話題の中心にある。
大した話ではないが、私もそろそろ、ゴルフの再開を期待されだしたし、練習を始めようと思っている今日この頃である。
今日のブログはこれで終わてしまっても、私がどれだけゴルフ好きかは分かっていただけるかもしれないが、今日書きたいことは実はスランプについてだ。
実は私は松山選手に限らず、スポーツのトッププレーヤーの浮き沈みに人並み以上の関心がある。
これは、ずっと前からそうだ。子供の頃から興味が強い野球がそうだし、今はスポーツ全般にそういう意識が強い。体操にしてもそうだ。内村航平選手が、オリンピックで金メダルをとること以上に、今復活を目指していることに強い関心がある。体操の羽生選手しかり、関心の対象は挙げだしたらきりがない。
トッププレーヤーにも必ずと言ってもよいほど、数年間ぐらいのスパンで見ていると、不調の時期が訪れる。
それは怪我が原因であったり、ここぞという試合での敗北がきっかけになることもある。また、すい星のように現れたスターに敗れることもある。
こういう悲喜こもごもの人生のスランプを眺めていると、とても多くの学びがある。
こういう感覚で、松山選手を数年間おっかけていたこともあったので、余計に喜びが爆発した。
松山選手と言えば、2017年の全米プロの最終日を思い出す。
全米プロは、マスターズも含めて4大メジャー大会のひとつである。
私はこちらもTVで観戦していた。
この頃の松山選手は絶好調で、その勢いで全米プロ、最終日の折り返しでトップになった。生涯のライバル、トーマスとは僅差の争いだった。後半で崩れトーマスに逆転された。そして、悔し涙を流した。
この大会から、松山選手は、ツアーの優勝から遠ざかる。私は、メディアからのネタなので、詳しく書けるわけではないが、ある意味スランプの始まりだったと言われている。
私も正直、2年ぐらい前から、あの時が最高到達点のかもと思い始めていた。しかも、今回のマスターズの前哨戦では、芳しくない成績。
本人のコメントもマスターズにはあまり期待できないというようなものもあり、私は、全く期待していなかった。
そんな中、3日目に爆発した。
こんな風にずっと、松山選手のことを考えていて、今回はスランプを脱出したと言える劇的な優勝だが最大の要因は何かを私なりに考えてみた。
やはり、それは、コーチとの出会いであるのは間違いないと私は思う。
松山選手はコーチを持たないことで有名だった。タイガーウッズでもほとんどの選手がコーチを持つ中での松山選手の存在も際立っていた。
昨年末に目澤コーチがチーム松山に加わった。
今回の優勝でコーチの人生を考えることも、おもしろいが、これは別の機会とする。
コーチをつけた。アドバイスやサポートが的確だったのは疑う余地がない。
ただそれだけではないと思う。
私は常々、人との出会いがきっかけでスランプを脱出することが世の中で沢山あると思っている。マスターズ優勝という偉業の達成には、コーチとの出会いそのものが大きな転機になったと確信している。
そういう意味でも、今年の松山選手の活躍はさらに楽しみでならない。
以上