近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

物事をどこまで直感で決められるのか?

勘が鋭い、直感の人だ。

世間にはこういう風に評される人がいる。

 

少し古いが、プロ野球長嶋茂雄氏が典型だろう。カンピュータの人と、言われていたことが今でも記憶にある。真実は私には分からないが、実は、長嶋氏は、緻密に考察する、熟慮するタイプであるという記事に、妙に納得した記憶がある。

 

直感で何かを決める人と言うのは、見ていて清々しい感がある。当然、決断力がある、迷いがない人という印象もある。

私もできることなら、そうありたい。ところが、現実はなかなかそうはいかない。ひらめきや勘ですることというのは、判断ミスや選択ミスを誘発する。

また、気分に左右されると思うし、体調にも影響される。正直、私も波があって、調子のよい時、乗っている時、勢いがある時などは、どんどんも物事を判断するし、実行するし、指示もする。

 

一方で、どうも調子の悪い時がある。

もちろん、体調が悪い時もあるが、それよりも、巡り合わせが悪い時、例えば、トラブルや問題が連続して発生する時。こういうことは、重なりの法則と言われるが、私は法則と思っている訳ではなく、確率の問題で、梅雨時以外で、想定外の雨が続くような感じだ。

 

なので、総じて不調に感じる時は、できるだけ、重要な判断や決め事をしない。

できるだけ、絶好調の時に一気に片付けるようにしている。もっと、良い方法があるかもしれないが、40年近く働いて、今のところは、これがベストである。

 

では、直感とは何かを掘り下げてみる。

単純に、赤ちゃんに直感があるのか?ということだが、それはないと思う。この世に生を受けて、生きていくために本能的にお腹がすけば泣くし、自分にとって大事な親は見分けることができる。私達大人が直感と言っているのとは違うと思う。

 

私は、少なくとも経験がないことに関して、直感は働かないと思っている。言い換えれば、直感と言うのは、様々な経験を積み重ねてきた結果、脳に蓄積された判断するための材料や基準だと思っている。

例えば、私が長年仕事で関わって来たITの分野に関しては、40年近くの様々な事が知識として記憶されているし、それにまつわる知恵もある。

 

そして、様々な局面で判断してきたそのロジックもインプットされている。今は、流行のAIでいうと、ディープラーニングしている訳だ。

逆説的だが、人間は、そもそも、AIの仕組みで活動している。

AIが幾ら自動学習することができるようになりつつあると言って、インプットのデータや情報がなければ、機能しない。

 

それと同じで、人間は、長年の失敗経験などを積み重ねてきて、りっぱにAIになっている。だから、必要な時、緊急火急的な時に、判断ができる。だから、カンピュータという表現は、意外と正しくて。単なる感ではなく、しっかりとした体験と情報が裏付けとしてあるかを問う事である。

 

それに加えて、後は、パフォーマンス力だと思う。私もそう思うが、リーダーシップがあったり、華があったりする人は、人心を引き付けるポイントを心得ている。

それこそ、生まれつきかもしれない。もちろん、後天的なものもある。いざという時に、即決することが何よりも、好影響が大きいと言う事を分かっているからだと思う。

 

ただそれは、単なる感ではなく、普段から熟慮した膨大な考察の結果から、いつでも即決できる材料と判断基準の準備が出来ているからだと、私はそう思って日々過ごしている。

だから、備えあれば憂いなし。なのである。

 

以上

 

とても大事だけどついつい疎かになるもの

私たちの日常生活や仕事において、とっても重要なんだけど、ついつい、疎かになったり後回しになったりする事は、結構多い。

 

結局、人間は、目の前の事、今の事、極端に言えば、切羽詰まったことには意識は高いし、それに関する行動はできやすいが、大事な事でも先の事になると、なかなか、実行できない。万人共通の悩みではないかと思っている。

まあ、人間皆一緒と思えば、あきらめと言うか納得もできるが、そうは言っても仕事ではとても大きな課題である。

 

有名な7つの習慣に時間管理のマトリックスがある。これは、とても秀逸で、私は、自社の組織運営における社員教育でも、お客様である企業の支援でもかなり頻繁に活用している。これは、日本だけではなくベトナムでもそうだ。

 

詳しくは、書籍かネットで調べていただければと思うが、シンプルに書くと、何かをするのに、重要な事、そうでない事。緊急な事、そうでない事の4つの枠で分けられる。重要で緊急な事を第一領域、重要で緊急ではない事を第二領域に絞って説明する。

お客様からのクレーム。

これは明らかに第一領域だ。仕事以外で言うと、急にお腹に激痛が走った。これも第一領域だ。

第二領域は、普段からの健康管理。これは分かり易いだろう。

こんな感じで、自分が日々行っていることを、この二つの領域に分けると、如何に人間は、第一領域のことに縛られているかが分かる。

大事なことは、どうやって第二領域に取り組むかなのである。

 

話は変わるが、わたしの仕事柄、今気になっていることの一つに、IT社会がどんどん進展している中でのデジタルデータのバックアップは大丈夫か?ということがある。

もちろん、企業経営において、重要なデジタルのデータや情報が沢山ある時代、バックアップは万全ですと言いたいところだろうが、このバックアップというのも、第二領域にハマる。

 

パソコンで仕事していて、もうすぐ出来上がる手前の文章や表計算のシートが、消えてなくなる経験をした人はどれだけいるだろうか?

今は、便利な自動バックアップなどが出来てきたので、何かうっかりミスでもリカバリー機能が進化してきたから、こういう経験も減ってきているだろう。

私自身は、20代、30代の頃、折角仕上がりかけのプログラムや文書データを失ったことは何度かある。当然、ショックは大きいし、損失も大きかった。

何度か大きなミスをしたので、2度としないということで、パソコンでの仕事は、必ずバックアップをまめにすることが習慣づいた。

 

昔は、パソコンも不安定で、ハングアップといって、突然、動かなくなることも多かった。こんな時に身についたことは、今でも習慣になっている。もちろん、自動バックアップ機能は知っていても。

 

今、クラウドサービスにはじまり、自社の重要なデジタルデータがどこに保存、保全されているかを知らないユーザーが激増していると思う。それだけ様々な機能やサービスが登場してきて、バックアップの概念が薄れている。

 

ますます、重要な経営資産がデジタル化される時代。バックアップの意識を高めておかないと、結局それが情報漏洩リスクなどに直結することになる。何が大切で、どういうところにどういうやり方で保管されているかを知ることは、IT全盛時代には、絶対に不可欠な事なのである。

 

以上

 

 

ベトナムと日本の情報セュリティレベルの違いと課題

ベトナムと日本を行き来してきた約20数年。

両方の国ともIT社会の進展は目を見張るものがある。こういう中で、お互いのギャップに目を向けると、様々な事が見えてくる。

 

その一つに、IT活用の中の情報セキュリティがある。

今、日本では、急速にリスク認識と言う視点でのITセキュリテイリスクへの認知が高まっている。中でも一番強烈なのはサイバーテロだろう。これは、一般市民には遠い話としても、実は、軍事レベルではすでに当たり前の領域である。

 

このあたりは、専門家にお任せするとしても、私達産業人であり一般市民としては、サイバーセキュリティとなると他人事ではない。

 

日本の産業界では、企業におけるインターネットの利用の機会が増大している昨今、加えて、今まで、イントラネットで活用してきた業務システムなどをクラウドシステムの利用に切り替えることが、劇的に進んできた。結果的に、ITリスクが急速に増大している。

しかも、このリスクにはなかなか気づくことが難しい。

当社では、ITリスクは大きく2つに分けて考えている。ITの可用性などに代表されるITが使えなくなったり障害が発生したりの時に顕在化する損失などを総じて、ITリスクと定義している。それに加えて、デジタル活用の進展ともに、重要な情報を扱う事が増えてきたことによる情報セキュリティのリスクも含まれている。

 

新興国でのIT産業が有望な理由を前回のコラムで書いた。

新興国でも雨後の筍のようにIT系の企業が誕生している。企業や生活者がITを利用する機会が増大し続けているのであるから、必然の成り行きであろう。

日本のような先進国でも情報セキュリティ対策には四苦八苦しているのが現状で、果たしてビジネスの遂行力が未成熟であったり、組織のコンプライアンス力が脆弱であったりと言う意味でも、不十分な新興国で、情報セキュリティが一定以上のレベルで確保できるのだろうかと疑問になっても不思議はない。

 

日本のような先進国から、ベトナムのような新興国へIT系の仕事をアウトソーシングするケースで考えてみる。

一般的には、オフショア開発と言って、日増しに、この領域の業務委託は増えている。新興国のIT力が向上し続けていることに加えて、人件費が日本のような先進国に比べてまだ安い。

もちろん、ベトナムを例に挙げると、ベトナム国内でのIT業界の給与水準は高い。だが、まだ、日本から比べると1/3から1/2である。だから、日本からベトナムへ業務委託と言うスタイルはまだまだ拡大する。

これは、中国でも同じだった。ベトナムはIT分野では中国の10年から10数年後を追っかけてきた。

 

当社が20年以上前に、ベトナムでオフショアの受託を始めた時、顧客が一番心配したのが、情報セキュリティだった。日本での開発環境もその当時は、今のようなセキュリテイレベルではなかったが、ベトナムなどの新興国とのギャップは相当あった。

ベトナムの全産業がまだ未成熟だったから、当然のことだと思う。それが10年も経つと、日本や米国などの先進国の要求を受けて、目に見えて変わった。

情報セキュリティ対策には、物理的対策、技術的対策、人的対策の3つがあるが、物理的対策の強化を進めるスピートは早かった。

私が、ベトナムで友人のIT会社に訪問すると、入退室管理に指紋認証が使われていた。当時は、日本のIT会社でもICカードによる入退室管理が始まった頃で、このギャップには驚いたことがある。

新興国の特徴の一つでもあるが、新しいものは直ぐに取り入れる。

だから、こういう物理的なセキュリティ対策の先端的な象徴である生体認証の仕組みは、私の知る所では、日本よりベトナムの方が実装は早かった。もちろん、これは、IT業界などのセキュアな世界での話ではあるが・・・。

 

しかし、一方で、情報セキュリティ対策は、物理、技術、人的の対策がバランスよくできないといけない。そういう視点で見ると、一日の長は日本にある。特に、人的対応レベルは高い。それは、社会的な信用がある背景もある。人事評価制度の充実やビジネスマナーという部分も相まって、人・組織面での対策レベルは新興国のそれに比べると、突出している。

 

その日本でも、今の情報セキュリティ対策は、先進国とは言い難い。両国とも情報セキュリティの視点からみたIT活用については、両国とも課題が山積していて、IT活用新興国と考えるのが妥当である。

 

                                  以上

悲観主義との上手な付き合い方

自分は悲観主義だとか、自分は悪い方に物事を考えるタイプだとか、こういうことで日常悩みを抱えている人は多いと思う。

まして、日本は先進国の中でも突出したストレス社会である。しかも、これは少なくとも30年以上変わらない。私も時々、この原因は何だろうか?と考える。

 

日本人特有の気質からくるものもありそうだし、日本人が自ら創り上げた、あまりにも出来すぎたりっぱな社会が原因になっていることもあるだろう。少しでもストレス社会を軽減して、一人でも多くの人が健やかに安心して穏やかに暮らせる社会にしていきたいと思っている。

 

話は変わるが、私は週刊誌を結構好んで読む。その中に週刊現代がある。

昨年の11月12日号の中の記事でとてもキャッチーな見出しを見つけた。

悲観主義で幸せになる方法”

 

とある。いの一番に読んだ。普段は、流し読みだが、この記事はじっくり読んでみた。結構同意することもある。

私は自他ともに認める、ポジティブシンキング派だ。ただ、こういう私のようなタイプは誤解を招きやすい。親しい人にはざっくばらんに話しするが、私も当然ストレスもある。うつの気分になる時もある。大人になってリカバリーが少しは上手になったという感じだ。

 

私の好きな言葉に、"悲観主義は気分に属する、楽観主義は意志に属する"がある。

フランスの哲学者アランの言葉だが、この解釈も様々だ。深く読み込めば、必ずしも、悲観主義を否定している訳ではない。単純に楽観主義になろうというものではない。

私なりの解釈は、人間とは、いったりきたり、どんな人でも、両方が複雑に気分の変化とともに相混ざって、人の心は揺れ動く。

私は結構、悪いことを徹底的にシュミレーションする。つまり、できるだけ最悪の事を想定はしておく。そうすると、大抵、そこまでは至らないのと、想定している分、仮にそうなっても、準備はできているから楽だ。

これを繰り返していると、実際に悪いことばかりが起こらなくても、思考回路やメンタル面での免疫力が付いてくる。

 

この週刊現代の記事には、絶対悲観主義とも書かれている。

少し引用しながら、要約するとこんな感じだ。

“人生は思い通りにはいかない。全体で言うと、上手くいくことや成功の方が少ない。世の中は決して甘くない。だから、普段から、上手くいかなくて当り前と考えていれば、たまにある成功を大いに喜ぶことができる。こういう考えを、絶対悲観主義と呼ぶ。”

なんと刺激的な表現だろうか。

 

昔から世間で言われることだが、子供の頃から優等生やエリートは挫折しやすい。

特に、ある程度の大人になってからの挫折は重たい。私の持論でもあるが、子供の頃から、免疫を付けるためには、失敗や挫折をどんどん体験できる方が良い。

徐々に免疫が付く方が、人間は自然に受け入れられる。

別の表現でネガティブ・ボジティブという考えを提唱している人もいる。私も感覚的にはこれに近い。

何もかもうまくいくと思う楽観思考は危険だ。

世の中そんなに甘くないから。

だから、さぼって、手を抜いてはダメ。しっかりと、することはした上で、後は、野となれ山となれ。いわゆる、人事を尽くして天命を待つ。そして、結果に一喜一憂しない。結果が良ければ、めっけもの、こんな感じが、私の考えるネガティブ・ボジティブである。

 

以上

もし新興国の人が自分の上司だったら・・・

もう15年以上前になるが、近い将来、自分の会社の上司が、アジアの人だったら?

と、セミナーや執筆の機会に問いかけた。

加えて、自社の新卒採用の説明会でも、結構話していた。

 

昔からそうだが、いわゆる外資系の企業(概ね先進国)で働くと、上司は外国人というは当たり前だった。ある意味、日本国内でも外資系の企業で働くことは結構なステイタスだった時代もある。

特に金融系などはそうだ。

今ならIT系も外資系は多い。欧米などの先進国と日本の関係で見たら、戦後復興の中、先進国に追いつけ追い越せで、日本は頑張って来た。

 

ここ20年は、アジアの国が日本に追いつけ追い越せになって来た。

例えば、ベトナムに進出している日本の企業には、沢山のベトナム人が働いている。彼ら彼女らからしたら、日本は外資系の企業だ。

 

一方で、ベトナムの企業も、日本人を欲している。だから、日本では第一線をリタイアしたような60代後半、70代の人は、経営幹部として重宝される。日本の高度経済成長期を経験した人の付加価値は高い。

 

私が、自分の会社の上司がアジアの人だったら・・で、言いたかったことの一つに、日本が成長著しい新興国と伍していくには、日本の大学を卒業した若者が、ベトナムにあるベトナム企業に、ダイレクトに就職しても不思議ではないという意味だ。

あの頃から、10年以上が過ぎ、IT系を中心に、ベトナム企業も日本国内に現地法人を構えるところが増えてきた。それだけ、日本のマーケットに魅力があることは言うまでもないが、ベトナム企業が、かつての先進国の欧米のように、日本に進出して勝負できる時代が来ているとも言える。

 

当然、そういう企業では、日本人が働く。すでに、日本人の上司がアジアの人の時代は来ているのである。

私は、もともと、日本の若い人には、できるだけ早いときに、新興国体験をしてほしいと思っている。

もちろん、ベトナムなどの新興国にある日系企業での体験も貴重だが、それ以上に、ベトナムの企業で働くことに意味があると思う。

そして、さらに言うと、ベトナム企業の報酬体系の中で、ベトナム人と同じ土俵で勝負する。

日本国内での生活感覚と水準では不可能だが、ベトナム社会に溶け込めば、十分に可能だ。

私が15年以上前に、考えていた事は概ねこんなイメージだった。

 

あれから月日は流れ、多くの若者がベトナムで活躍するようになった。ベトナム企業で働く若者も少なからずいる。

タフな環境でもまれながら、新興国目線で仕事を覚え、社会の変化を感じる。こういう体験は、近い将来の日本にとっても、とても貴重な人材になることは間違いない。

 

これからは、新興国の人は、日本で日本人と同じ環境、待遇で働く。日本人は新興国で、その国の環境と待遇で働く。

こんなことが当たり前になった時、日本は新たに輝く時代がくるのだと思っている。

 

以上

顔を識別する人間の能力とAIを考える

今、世間ではChatGPT(チャットジーピーティー)騒がしい。私の周りでもとても盛り上がっている。とは言え、まだ、知らない人も多いと思うが、Microsoftの最新AIチャットサービスだ。

そんなことで今回はAIの話しにしようと思う。

 

仕事柄もあるが、もともと私は、変わったことを調べたり考えたりするのが好きだ。

最近、少々ハマっていることがある。

それは、人間がなぜ、人の顔を判別できるのだろうか?を考えることだ。

 

よくある話だが、世界には自分に似た人が必ず何人か存在するらしい。それは、同じ国の人とは限らない。私も、新たに出会った人が、誰かに似ているというのを発見するのが好きで、結構な確率で、初対面から、○○さんに似ていますね。と会話をすることが多い。

もちろん、たいてい、お互いが共通で知っている有名人をあげることが多いが、たまに、私の大学の友人にそっくりです。と言うこともある。

まあ、これは話しのネタではあるが・・・

 

誰かに似ていると話しすると、たいていの反応は、よく言われるんですよと返ってくる。そういう反応は、私の予定通りということだが、はじめて言われましたと返ってくると妙に我が意を得たりと嬉しくなるものだ。

 

とは言いながら、単純に自分の主観の思い込みや願望だから、大した根拠ではない。

私は、こんなことを日常の楽しみにしている。

一方で、私も若い頃は色々な人に似ていると言われてきた。大学生の時は、銭湯で見知らぬおっちゃんに、“よう 若島津”と背中を叩かれたこともある。たしかにガタイはでかかった・・・。(ちなみに若島津はお相撲さんです)

 

まあ、こうやって、人間同士、誰かに似ているねという会話も人間関係を円滑にするコミュニケーションの一つである。

 

そろそろ、今日の本題であるが、AIはいつか、人間の顔を人間並みに判別できるのだろうか?

数年前に、AIが進化しているとして、数多くある画像の中から猫を識別したニュースが流れた。

 

確かに、どんどん、AIが進化している事例としては、将棋やチェスでプロに勝ったという話題と同等以上に多くの人の知る所となった。

 

今、スマホに顔写真があると、勝手に、同じ人物をまとめてくれる機能がある。だいたい正しいが、たまに、他人が混ざっている。ということは、ある程度は、多様な人でもグルーピィングはできているということだ。

そういう意味では、私の、"**さん、○○さんに似ていますね”よりも精度が良いのかもしれない。そう考えると、私のこの似ていますねというのは、たいていアバウトなものと思える。

 

ところが、私も、もちろんそうだが、人間は確実に、一人一人を見分けている。流石に、瓜二つの双子になれば、少々時間はかかるが、それでも間違えることはない。

人間は一体どうやって、一人ずつをこんなに正確に判別できるのだろうか?

赤ちゃんの時から、そういう能力があるのだろうか?

きっと、世の中には、こういう研究をしている人も沢山いると思うが、勝手に私が想像していくと、人間には人間が気づかない、本能的な識別能力が備わっているように思う。

だが、私たちが犬が沢山いる中から、個別の特定の犬を見分けられるだろうかと考えた時、多分無理だと思う。

一方で、動物同士、同じ個体では、きっと見分けているはずだ。そうしないと、家族がバラバラになる。もちろん、動物の場合は、においなども判別要素にあるのかもしれない。

だが、人間は一般的には、顔だけだろう。この顔のパーツのみで、人間一人ずつを見分ける能力。

今後、AIがどんなに進化してもAIが人間を上回るのは不可能なように思う。

自分と似ている人は見つけられるかもしれないが、人間一人ずつを判別して覚える能力は、コンピュータでは実現不可能なように思う。

 

以上

 

 

長年仕事していると誰でもが陥る落とし穴

長年仕事していると、どんどん退化していく能力がある。これは、仕事だけとも限らない。

 

それは、思い込んでしまうという癖や習慣だ。

ある意味、本能的なところから生まれるものではないかとも思う。

どんな人でも、基本的には、安定的に穏やかに生きていきたい。精神的にはストレスを溜めたくない。変化は少ない方が良い。

昨日、上手くいったことは、今日も明日もそのまま、上手くいってほしい。一回、良い結果が出たら、できる事なら、そのプロセスを反復したい。

 

毎回、昨日までも、いままで上手いこといったのに、今回は、分からない、失敗するかもとは思いたくない。できるだけ、余計なことは避けたい。心配も減らしたい。こんな風に、人が考えるのは自然だと思う。

 

一方で、ハイレベルの現場では、こういう思い込みは、たいていの場合、トラブルを引き起こす。今までそうだったから、こんなことが起こるとは想定していませんでした。手順通りしたので、問題ないと思っています。いつもと同じだから、そんなに慎重には対応していません。

 

要するに、今までが大丈夫だったから、今回も大丈夫と思う。こういう思い込みが習慣化されると、知らず知らずのうちに、とんでもないリスクが増大していくことになる。

これは、健康面においてもよく聞く話だ。重要な早期発見が遅れて手遅れになる人の思考回路、行動パターンに多い。まずは、大丈夫と思い込んでしまう訳だ。

 

こうなると、自分から、念のため、もしかしたらと健康診断を受けることはめったにない。第三者の強い勧めや、何かのきっかけで、たまたま、運よく、早期発見につながる人がたまにいる。本当に運が良くて良かったですねとしか言いようがない。

自分自身の思い込みにも当然、気を付けていきたいが、自分一人で完全にできるものではない。だから、周囲の人に頼らないといけない部分はあるし、相互牽制は有効だ。

この相互牽制のコツは簡単だ。

人を性弱説で見て、どんなに仕事ができる人に対しても、反対の意見、反対側からの指摘をするということだ。

質問でもよい。言い方を変えれば、第三者チェックをどうするかだ。

私は、PDCAは仕事の基本の基本だと確信している。その中でも、Cのチェックができる人が、最高に仕事力がある人だと考えている。

 

いくらプレゼンが優れていても、企画力が突出していても、現場力が凄くても、PDCAができない人は、真に仕事ができる人とは言えない。これは、日本人でも外国人でも同じだ。

 

仕事力が高い人というのは、当然、品質、納期、コストに対してシビアである。この実現には、CHECK無くして成立しない。私達が生活している中でも、気付けることであるが、ハイサービス、高品質の世界には必ず、仕組み化されたチェック機能や、個人スキルの突出したチェックが機能しているものである。

飛行機、交通インフラ、病院、高級レストラン、身近などれをとっても、チェック機能が機能しているから実現できている言い切って過言ではないのである。

 

以上

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