近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

都会の街中の雑草を眺めていて想う事

自然と言えば、皆さんはどういうイメージを持っているだろうか?

育った環境や生活している環境、あるいは、個人的な感性や好みも影響するとは思う。

 

とは言え、人間、皆が自然に親しみを感じるし、誰にでも、どこかで自然との関りや共生を望む気持ちがあるのは間違いないと思う。

 

私が、アフリカとビジネス活動で縁が出来て、そろそろ7年になるが、アフリカは周知のとおり人類発祥の地である。その場にいると、人間の存在や本質を、もっと知りたいという欲求が湧いてくる。同時に、人間が誕生した環境はどうであったかに想いを馳せる。

 

様々な調査や研究が進み、年々、人類誕生に関する情報や考察は進化している。そんな中、人間は、そもそも動物であり、自然の中で生きていた事を知ることができる。

森林や平原、そして川や池や場合によっては湖という100%自然に囲まれた中で、暮らしていたのだ。

そういう環境で生きてきた遺伝子が受け継がれているのは間違いないと思うし、今回のコロナ禍で、本能が目覚めたと言ったら言い過ぎかもしけないが、自然回帰が起こるのは本当に自然体の話だと思う。

 

誰にでも、本能的に自然回帰の部分が目覚めるようにできていると思う。

とは言え、子供の頃、自然に囲まれた田舎で育った人と、大都会で生まれ育った人の、自然に対する感覚は違う。

私は農村のど田舎だったので、未だに体に染みついている。自然は、わざわざ探す必要もなく、私の生活している場そのものが、自然だった訳である。

 

一方、都会生まれ都会育ちの友人たちに聞くと、やはり、自然は、日常で接することではなく、特別な時に触れ合うものという感覚を感じる。まあ、これは極端な対比だが、今の様な日本で生活していると、田舎と都会での生活スタイルや環境は、大きく違いがある。

 

田舎に行けば、今の日本でも昔ながらの自然や風景はあちらこちらにある。では、都会ではどうかということだが、考え方を変えてみたら、都会にも溢れるほどの自然がある。

 

例えば、東京は緑の多い都市として有名である。確かに高層ビルやハイウェイなどで象徴的な写真をよく見かけるが、見方を変えれば、大きな公園も沢山あるし、街並みの中の街路樹や緑地帯は充実している。

一見、都会の自然とは人が手を入れているという感覚がある。公園にしても花壇にしても、様々自然を人がメンテナンスして維持している。散水も行政の仕事として行われているところが多い。

一方で、田舎に行くと、人が整備している家の樹木もあるが、基本的には自然はそのままである。

 

実は、私は都会の雑草を眺めるのが好きである。

 

 

 

 

 

 

もともと、子供の頃から、自然の植物、木や草や花に関心が高かった。だから結構、田舎に生息していた草花の名前は今でも覚えている。子供の頃は、雑草と言う感覚で草には接していた感覚はない。  

ところが、都会の街並みを散歩したり歩いたりしていると、雑草は至るところで目に付く。どういう風に目につくかと言えば、折角の歩道や遊歩道に、雑草があると何となく美しくないのである。

 

ようするに景観を損ねているのだ。

では、この雑草を取れば良いと考えるのが普通だろう。とはいえ、この雑草取りは大変労力とコストがかかると思われる。

そもそも、雑草は、自由気ままに生えている。点在しているこの状態をメンテナンスするのは大変だ。しかも、駆除したところで、いたちごっこになるのは目に見えている。

 

こんなことを時々思いながら、雑草をよくよく観察してみると、とてもシンプルに思う事がある。それは生命力だ。

流石にまったく、土がない所には、生息できないと思うが、橋の歩道などで、およそ土がなそうに思えるところでも、雑草が生えている。

よくよく見ると、チリやほこりが溜まったようになっている。

 

きっと、風に運ばれた種が、ここで根を生やしたのだろう。なんとまあ、凄い生命力。

そもそも、雑草だから、生命力がすごいわけではない。雑草には迷惑な話だが、私たちが、こういう草を雑草と呼んでいるだけの事である。

生命とは、本当に不思議だし神秘的でさえある。

 

 

 

 

 

 

 

 

以上