近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

見える化は有益かそれともリスクか

今、ビジネス界は見える化流行だ。

見える化は、ITの浸透と相関にある訳だが、ビジネスの世界ではどんどん広がっている。

また、一般市民の側でも、見える化が当たり前化しつつある。

 

もう古い話しだが、グループウェアなるものが、世の中に登場して早20年はゆうに越えた。

今では当たり前のITツールだが、当時のITサービスとしては画期的だった。とはいえ、主要機能はメール機能とスケジュールの共有だった。

 

まずは、社内メールで情報の共有化が劇的に進んだ。そして、外部とのメールのやり取りに拡がっていく。電話やFAXでしかやり取りされていなかった情報やコミュニケーションのプロセスが可視化されたわけだ。

この流れは、いまでもどんどん進化する。いや、エスカレートすると言っても過言ではない。

もっとも、こちらの話題は、コミュニケーションの領域にもなるので、別の機会とする。コミュニケーションの見える化も奥が深い。

 

では、スケジュール共有と言うのは、どれだけ有用かを考えてみる。もうずっと前から私のスケジュールはITに登録されている。そして、しかるべきメンバーとは常に共有している。海外でもどこでも、私のスケジュールはどこからでも見られるし更新できる。

 

スケジュール管理と言えば、ビジネス手帳だ。いまでも、アナログ派の年配の方は、ぎっしり手書きで書き込む。私はそれはそれで味があると言おうか、年季の入った職人技だと思う。しかし、残念ながら共有はなかなかできない。

 

スケジュールの見える化グループウェアの黎明期にこんな社長が結構いた。

"自分のスケジュールは全社員が見えるんです。情報共有化しています。" と公言する人だ。

私は企業の情報共有化のご支援をしていたのと、自分自身の経験を踏まえて、こういう社長と仲良くなったら、このやり方は諫めていた。

 

これこそ、本末転倒。共有のためのスケジュールの開示になってしまっている訳だ。そもそも、社長のスケジュールを全社員が知る必要もないし、時と場合により、リスクやトラブルを誘発することにもなりかねない。もちろん、重要な銀行対応や社運をかけるような顧客との面会などは、クローズしておくべきことで、ITの機能でブラインドにすることが出来るが、そもそも論で、社長がいつどこで何をしているかを全社員に伝えることは、依存を招くし、ほとんど意味がないことである。

 

こんなことが、20年以上前に大流行だったのである。

では、こういう間違えた使い方がどうなったかだが、今はもっと複雑で根拠のない情報共有化が蔓延していると私は考えている。

これは、一般市民の側の意識と行動の変化を見ても分かる。

簡単に言えば、政府に対しても行政対しても企業に対しても、何から何まで見える化を要求する。これは学校にしてもそうだろう。親が学校に見える化を要求する。しまいには、生徒が学校に見える化を要求する。

 

なにごとも行き過ぎは良くない。

世の中何から何まで、開示すればよいと言うものではない。

責任のあるしかるべき人しか知らなくてよいことは沢山ある。

それは責任と権限の問題だ。極端な話し、国の行く末が心配だからと言って、国家機密や戦略を見せてほしいと言っても、これは不可能なこたぬだ。このレベルで書くと大袈裟に聞こえるかもしれないが、実は私たちの身近にこういう事例は沢山ある。

その人の立場や役割によって、知る権利は違う。

 

今、日本では急速にIT化が進展し、大衆のメディア化が進み、玉石混交の情報が溢れて何が正しい情報か、どれが信用できる情報源かの判断がとても難しい。

そういう中で、見える化の要求は、社会全体に高まっている。

本来見えてはいけないものまで、仕組み上、運用上のミスで見えることもある。不正によって、機密も暴く輩もいる。国家間など見えないところでこの応酬だ。一般生活においても、世の中の雰囲気は、何でも知りたい人間の欲求をそそるように、開示要求型があたり前化された。

 

企業も行政も大変だ。ある意味、今の時代の常識というか判断基準がブレた人たちを相手にしないといけないからだ。

健全な社会の構築、健全な生活、健全なビジネスのためには見える化は不可欠だ。ただ、根拠のない、必要のない、悪意に満ちた見える化の要求や行為に対しては、確固たる判断基準で対処して、見えない化をしておく必要もある。

見える化はもろ刃の剣であるのである。

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以上