近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

日本で間違いを認める勇気と責任を持つのは難しい

最近のメディアで、特に気になっていることがある。それは組織の責任者や政治家がお詫びしている姿だ。

 

私は最近、TVは見ていない。でもネットの動画は溢れるほど流れている。

芸能人や俳優でも何か問題を起こすと、お詫び会見というのも多くなったように思う。

 

私は、今の日本は国全体が、揚げ足取り症候群になっていると感じている。

まずは批判、そして、足を引っ張る。ネットがこういう傾向を助長しているのは、確かではある。それは日本だけでなく世界でも同じだ。人間はネット上では普段よりは過激に狂暴になりやすい。このことは様々な見地から証明されている。

 

言い出したらきりがないが、ネットではあおり屋も存在するし、実際に、そうやってビジネスを企んでいる人も後を絶たない。炎上をビジネスのネタにする不健全な人もいる。

 

では、ネット以外の世界での日本人はどうなのだろうか?

私の感覚では、面と向かってはっきり言う人は少ないと思う。昔よりも、言わなくなってきているのではと思う。

 

要するに本音がどこにあるか分からない。

腹の中では何を考えているか分からない。

こういう人たちが、増えてきたのではないだろうか?ただ老若男女10羽ひとからげの話でもない。やはり、高齢者ははっきりものをいうというか、正確に言うと、自分の主張を曲げない頑固おやじという印象が強い。一方で、今の人たちは、昔よりは自己主張をしなくなっているのではないかと思う。

 

極端に書けば、シニアは簡単には自分の主張を曲げない、つまり間違いは認めない。一方で、今の若者の傾向は、あっさり、すみませんと言ってしまう。“おはよう”とか“こんにちは”の感覚とまではいわないが、“すみません”“申し訳ありません”を連発する社会人が増えている。

 

メディアの影響も大きいと思う。子供への影響も心配だ。何かあったら、すみませんと言えばよい。謝ればよいという言葉に重みのない風潮があるようにも思う。

 

冒頭の話に戻ると、今、組織的な不祥事や政治家、校長先生、はたまた芸能人や俳優など、メディアの露出が多い人に謝らせている映像が昔に比べて目につくようになった。

もちろん、ネットもそれを助長している。

そうすると、謝らせたい人達と謝る人の構図が出来上がっていて、今度は、それを見ている人がいる。日本というのは、そういう単純な構図ができあがってしまっている。そして、それに付和雷同の人たちが乗っかる。

 

私は、この謝るというのは、結果責任に対して、真摯にお詫びすると言う意味では、重要な行為だとは思うが、そもそも謝るというのは、失敗を認めるということである。

 

つまり、人の前で頭を下げればことが終わるのではない。

そもそも人間は自分の間違いや失敗をなかなか認められない。自己否定につながる感じもするし、今世間で流行りの自己肯定感から遠ざかる話のようにも思える。

 

しかし、成長のためには、失敗は必然である。特に、積極的にトライしての失敗は、今の日本は特に大歓迎する空気感が必要だ。挑戦がないと現状打破は困難である。

 

失敗の連続かもしれない。そんな時に、毎回、すみません。申し訳ないです。ではない。

だから、間違いを認めて反省して、それを毎回、人前で、謝る必要はない。

色々と書き出したらきりのない話でもあるのだが、私は人にすみません。申し訳ありません。と言う回数は極力減らすという感覚が大事だと思う。

 

間違えても、謝ればことは収まる。穏便に済ませられるという感覚が芽生えてきたら、自己反省が必要である。だから、心の中でお詫びする。頭をさげる。間違いはすみやかに訂正する。

修正する。損害や精神的ダメージを与えたことに対しては、本気で謝る。

 

謝らせる人も謝る人も、その当該の事象だけでなく、一度メディアに乗っかると、とても影響範囲が多いということを自覚して欲しい。

 

本当の謝るというのは勇気がいるし、自らが率先して間違いを認め反省し、お詫びする。それは周囲の空気や誰かに促されてするものではない。責任をもって、自主的に行う行為である。

 

だからこそ、安易に頭を下げたり、“すみません”を連発したりしてはいけないのである。

謝らなくていいのではない。だからと言って、人前で頭を下げるだけで済ませるのではなく、失敗したり間違いをやってしまったりしたら、それをリカバリーすることに責任を持つということが、何よりも大切なことだ。

 

謝って終わり、謝らせて終わりでもない。だからこそ、いつ誰にとっても当事者になる可能性がある社会であることを自覚したいものだ。

 

 

以上