近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

自分のレッテルは誰が貼る?

自分がどう思われたいか?

世の中には、全く気にしない人もいるかもしれないが、私は、かつて出会ったことがない。

一見、人のことはまったくお構いなし、自分がどう思われようと無関心ですという感じの人はいる。だが、実は違う。

そういう振る舞いそのものが、相手からの自分の見え方に影響している。

つまり、自分が意識するかどうかではなく、必ず自分以外の人が存在する以上、やっぱり、どこかで、自覚があるかどうかは別として、自分が他人からどう思われたいかは、人間、本能的にどこかにあると思う。

 

それは、社会的動物としての人間だからという部分と、そもそも動物としての本能的な事に起因しているのではなかろうかと思っている。

私ももちろん、時期時期で違うが、人からはこういう風に思われたいと思って生きてきた。

もっと若い頃。今、59歳になった自分から振り返って、40歳ぐらいまでは、自分が思われたい自分と実際のギャップは感じていた。

 

いつの頃からかは明確ではないが、今どうかと言えば、自分がこう周りから思われたいということに関してはある程度実現している。

ただ、私自身もこの先、進化、変化したいと常々思っているので、数年後は、再び、ギャップ感が生じるかもしれないという感覚もある。

 

レッテルを貼られる。という言い回しがある。ニュアンス的には、悪い意味で使うことが多いようだ。彼は時間にルーズだよね。彼は信頼できないよね。彼は自分勝手だよね。

 

こんな単純なレッテル貼りから始まって、もっと、重い深刻なレッテル貼りもある。

 

例えば、事業で失敗して会社を倒産でもさせようなら、日本では、一生、会社を倒産させ人というレッテルを貼られるだろう。それが今の日本の世間だからだ。

本来、失敗しても再起できる社会を目指すと言うなら、悪い印象ではなく、肯定的なレッテルを貼りたいものだ。彼は、失敗経験があるから、次に期待できるよね。有望だよね。と言った具合に。

 

まあ、屁理屈のように思う人もいるだろうが、レッテルというのは、どちらにしても、周りが貼るように思うが、原因は自分が作っている。

よっぽど、うわさ話や詐欺まがいで、悪意があって、他人を陥れようとする人なら別だが、一般的にレッテルを貼る人は何かの理由や根拠がある。

実際、自分がそう思われても仕方がないような言動をしていることは多い。

 

遅刻を特定の人に対して繰り返していれば、その特定の人は、当たり前のように、遅刻魔としてのレッテルを貼られるだろう。仮に、特定の人以外には、全く、遅刻をしない人だとしたらどうなるだろうか?

特定の人以外には、ちゃんとした人になる。

基本的に、レッテル貼りと言うのは、因果応報だ。メディアに頻繁登場するような有名人は、そういう意味では、意図的な事も含めて、視聴者からは強烈にレッテルを貼られる。

そもそも、計算している部分あれば、演じている部分もあるだろう。

 

そんな立場の人が、実は、私の本当の姿とは違うんです。といっても始まらない。

いま、その気になれば、どういう立場の人も、SNSなどで、自分の考えややっていることを発信することが出来る。影響範囲はともかくとして、上手に使えば、自分の望むレッテルは発信することによって、醸成することも不可能ではない。

 

私もよく引用するが、ジョハリの窓に照らしても同じことだ。

そもそも、自分が知っていて他人が知らないことは、自分が積極的に開示して発信すれば、ギャップは解消する。

自分が知らなくて他人が知っている自分は、それを良い意味でも悪い意味でも、自分が気づいていないレッテルだとしても、やはり、原因は自分にあると考えるのがシンプルである。

 

 

以上

最近、短期出張の新たな価値が分かってきた

この1年、私の短期出張は劇的に増えた。

コロナ禍前は、海外や東京に少なくとも数日単位でまとめて滞在していたが、今は、一泊2日の出張が私の定番のパターンになりつつある。

 

最近の仕事感覚で言うと、一泊2日の出張というのは、どうしても時間がタイトであるがゆえに、とても効率よくアポイントを組み立てる段取りをする。簡単に言えば、無駄がないのである。

 

例えば、1週間や2週間、ベトナムに滞在していた頃は、最近の短期出張に比べると、緩んでいたと思う。もちろん、仕事は懸命にしているのだが、どこか気持ちとして、明日もあるさという感覚になる。

ところが、一泊2日の短期出張だと、集中力が高まるし密度を高めようと言う意識で面会を工夫する。まして、世の中は、在宅勤務、テレワークで揺れ動いている中で、直接の面会と言うのは、格別なものでもある。

だから、お一人一時間程度、仕事以外の人間関係の潤滑のために、じっくりお話をする。

時には、会食もする。

とは言っても、一泊2日ぐらいで、神戸からの移動時間を考えると、せいぜい、2日で頑張って10件ぐらいの面会が限界だ。

 

当社の五反田オフィスに来ていただく選択も無くはないが、いまは、相手先訪問か私の宿泊ホテルのロビーでとなっている。

自然と、合間の時間にカフェで過ごす機会も多くなった。そこから見る都会の喧騒は、何かと感じることは多い。

 

 

 

 

先日、メディアでNTTの全社員を在宅勤務、テレワークにというニュースが流れていた。業種の特性で出来る事でもあるが、私の属しているIT関連もこういう勤務スタイルには移行しやすい。

 

少しニュースを見たところでは、本社への出勤は出張扱い、飛行機の出張もOKと、話題性に十分だろう。こういう動きも今のテレワーク推奨を加速するのは間違いがない。

実は、私の仕事も経営的な仕事であるという事と、専門的な事が、ITやメディアなどで、オフィスにいなくてもできる仕事であるので、どこにいても仕事ができる。

 

一方で、仕事を超えて、他人と付き合う事は、私のライフワークでもある。そうなると、海外も含めてであるが、短期であろうと、出かけていって、直接会って、コミュニケーションをするということが欠かせない。

ただ、このブログでも何度も書いて来たことであるが、移動コストや時間も使う。また、海外となると体力も消耗する。

 

感覚的には、今まで数回訪問していたところが、1回ぐらいで、あとは、オンラインで補完する。こういう感覚が一番しっくりくると思っている。この1年をこんな感覚で過ごしながら、1日だけホテル宿泊も増えてきた訳だ。

今どきは、同じような宿泊客も多いらしく、以前にもまして、ホテルもサテライトワークをする場所としてもすっかり定着した感がある。

 

私は、以前、東京にも住んでいた事がある。その頃は、東京について、とても近しい感じがしていたが、あれから3年にもなると、東京がとても新鮮な日々である。

ホテルから見る、新築の建設の様子一つでも見ていても面白い。

今後、私が東京に住むことはないと思う。

しばらくは、出張族として、東京を改めて眺めていきたいと思うし、その中で、東京、神戸、海外とのつながりをどう創っていくかを模索していこうと思う。

 

 

以上

頼んだり頼まれたりの人間関係

仕事柄、私は何かを頼まれることは多い。

もちろん、ビジネスで考えたら、仕事の依頼ということになる。ただ、私の経営のやり方もあるが、仕事に直接つながらなくても、仕事にならなくても頼まれることも実は多い。

 

その理由は、単純で、私が頼まれることを良しとしているからだと思う。

創業時は、そう決めていたわけではないが、だんだんと企業の支援事業を軸に事業活動するようになってきた。これは、私が、頼まれることが嫌いではないからだと思う。

子供の頃はともかく、学生時代あたりから、人に頼まれることを好んでいる自分に気づくようになってきた。言い方を変えれば、他人に頼られるようになりたいという根っこの願望があったように思っている。

だから、ビジネスでも自然と支援をする仕事にシフトしていく。商品を売らないわけではないが、この30年間、商品販売はあまり実にならなかった。

話は変わるが、自分自身の人生でもそうだが、周りの人を見ていても思うが、果たして頼まれる一方の人がいるだろうか。

やっぱり、人間は頼んだり頼まれたりが一番バランスが良いように思う。

 

社長同士では、この頼んだり頼まれたりのバランスが良い人、バランスが取れている時期はとても心地よい付き合いが出来る。お互い様が気持ち面でも楽なのである。

いくら頼まれることを好きだといっても、一方的に頼まれっぱなしだったら、長く続かない人間関係になるように思う。

少なくとも、自分に頼ってくる人が、他の人から頼られる人であれば、バランスは悪いとは思わない。一方で見境なく誰にでも頼む人がいたとしたら、私は、そういう人には頼まれたくない。

 

このあたり、私はわがままで、自分にだけ頼んでもらえたら、思いっきり一生懸命対応するタイプである。

 

単純なように見えるが、頼んだり頼まれたりの人間関係の構図は、奥が深いし、ビジネスをするにしても、社会貢献をするにしても、生活者として人生を満喫するとしても、とても意識して把握しておくことである。 

 

持ちつ持たれつという言葉とも近い。お互い様でもある。互助という言い方もある。私たち人間は、常に、イーブンの感覚の付き合いをキープする方が、良好な関係になれると思う。

 

次に、頼む時と頼まれる時と、どっちが、気が楽かを考えてみる。

少なくとも、人に何かを頼む時に、ズケズケとお願いする人はいないと思う。やはり、人に何かを頼むという時は、謙虚だ。

困ったときやトラブルを抱えていたり落ち込んでいた時だろう。金銭的な支援なのか、トラブル対応の解決策のアドバイスが欲しいのか、メンタル的に勇気づけてほしいのか、実に色々とある。

また、機密もあるかもしれないし、自分の恥や欠点をさらけださないといけない時もある。

 

経営の観点であれば、何かを頼む時は、やはり、失敗した時だ。こういう時は、更にハードルが高い。自分が幾ら反省していても、何かを頼みに行った人から、厳しいことを言われるかもしれない、能力不足を指摘されるかもしれない。

 

こんな風に、やはり、他人に何かを頼むのはなかなか気が重く難しい。

 

では、人に頼まれる時はどうだろうか?

こっちは結構シンプルで、自分が世間から頼みやすい人と言うレッテルが貼られると厄介だ。

人間と言うのはげんきんなもので、次々と依頼や相談がやってくる。

だから、特定の人以外の世間には、あまり頼みやすい人と言う印象は出したくない。

結局、八方美人になってしまって、ちゃんと頼まれたい人に対しての十分な対応が出来なくなると思うからである。

 

 

以上

断られる勇気と経験

"嫌われる勇気"という本が流行っている。

発刊は、2013年だが、根強く売れているような感じだ。

このタイトル、多くの人の機微に触れる事だろう。なぜなら、人間は本能的には、他人に好かれたいと思っている。

言い換えれば、嫌われたくないわけだ。

私も、もちろんそうだ。

若い頃、私もこのあたりは、思いっきり勘違いしていた時期がある。それは、31歳で起業して、しばらくの間。正確に言うと、35歳ぐらいまでだろうか。

かといって、大学生時代まで、正直、人に好かれるや嫌われるなどあまり意識していなかった。ところが、20代後半ぐらいから勘違いが始まり、10年間ぐらいは、自分は人に好かれる人間だと思っていた。今から考えたら、ノー天気な発想だった。

 

その頃から色々とあり、世間の常識を知った。プロ野球の国民的大スターの長嶋氏の話を頻繁に引用した。あの長嶋さんだって、もしかしたら半分か1/3には嫌われているかも。

そう、蓼(たで)食う虫も好き好き。そもそも、人間にはお互いに相性がある。それが好き嫌いと直結する。また、長い人生の中で、ある特定の人を好きなったり嫌いになったりする。

 

これを統計データ的に考えれば、他人に嫌われない人などいないのである。では、なぜ、嫌われる勇気という本が流行るのだろうか。中身を読んでみたら分かるが、結局、人間は、他人に好かれようと言う本能的な意識が強く、嫌われることを避けようとする。

 

そして、ストレスを溜め、時には人間関係で苦しむ。実に、人間とは不思議なものだと思う。

この嫌われる勇気と近いニュアンスに、断られる勇気というのがある。

 

今回は、仕事の話に絞り込むが、仕事で断られるシーンというのは、社内ではそうそうないだろう。例えば、部下の提案を上司が断るとしたら、それは当たり前の話である。好き嫌いではなく評価の話だ。正確には提案を採用しないという話だ。

 

では、仕事における、断られる勇気とは何だろうか?それは対外的な活動で重要な考え方になる。例えば、分かり易いのが営業パーソンを考えてみる。営業ができる人は、当たり前に知っているが、断られてなんぼだ。これは冷静に考えてみると、すぐわかる事である。商談を進めているお客様が10社あったとする。すべてが受注に至るなんてことはありえない。

 

商売によるが、せいぜい、3割程度ではないだろうか。そうすると、7割は断られるわけである。業界的に言えば、失注である。営業は極端な話し、100件のアプローチで1件だけ制約するような商売も沢山ある。ということは、99回断られる話である。

実は、営業力とは断られる勇気ということでもある。なかなか、断られることを嫌って、クロージングをしない。先延ばしをするである。こういう営業パーソンは間違いなく結果が悪い。

 

実は、これは、経営のアライアンスでも同じである。意中のアライアンス先とすべてが上手くいくことなどない。私は、経験上、常に三件に一件が上手いこと行くと考えている。私なりのブレない尺度だ。だから、ダメなものはダメとできるだけ早く結論を出したい。これもお互いさまの話である。

もう一つの理由は、別の相手先に目を向ける方が建設的であるからだ。いろんなケースが考えられるが、断られることを嫌う人は、なかなか頼み事もできない。また、優柔不断な人に思われる。

 

もう一度、社内の話に戻すが、どこの会社でもやたらと、自分の本業とは関係ない仕事の依頼を受けてしまう人がいる。頼まれたら断れない人だ。こういう人は、断られることに対しも苦手だ。断るも断られるも仕事ができる人の必須のスキルである。

 

 

以上

結果に一喜一憂しない境地とは?

 

結果に一喜一憂しない人は世の中にいるのだろうか?

私は子供の頃、極端なあがり症だった。

だから、人前で何かするようなことになると、心臓がのどから飛び出るぐらい緊張した。 

例えば、音楽の授業で歌を歌う。ちよっとした演劇で台詞を言う。そもそも授業中に先生にあてられて、何かを話することすらドキドキだった。

 

今どうかと言えば、根本的には変わっていないが大抵のことには動じないという外からの印象が私にはあるようだ。確かに図太くもなった。ただ基本的には慣れただけだと思っている。

 

それと良くある話で、案ずるより産むがやすし。

大抵のことは、する前に思っていたほどの困難でもなく、試練でもない。緊張のあまり本番では何をしたか覚えていないことが多かったが、なんとなく、結果は上手くいったことが多かったように思う。

単純に言えば、やったことがないから、失敗したらどうしよう。それに加えて、人前で恥をかきたくない。笑われたらどうしよう。子供心の中で、必要以上に周りの目を気にしていたと思う。

 

そもそも、子供の頃は、私は何事にも自信がなかったので、人前で何かするのが自己PRの場であるとは、気付かなかった。

今となっては、人前に出るのは、基本的には自分の意志が多いので、それこそ、失敗しようが、恥を書こうが基本的には一喜一憂はしなくなった。

 

自分の事はさておいて、では世の中の人はどうなんだろうか?真っ先に、プロと呼ばれる人はどうなんだろうかと考えることが時々ある。

 

今でも印象的なのは、紅白に何度も出ていた有名な女性の歌手が、実はステージは毎回緊張している。いつになっても慣れない。と話しするのを20年ほど前に聞いた。

これは私の仕事人生でも役に立った。

間違いなく、プロでも本番前には緊張する。

 

毎回、真剣に取り組めば取り組むほど、人間は緊張する。それは自信がないとかの話ではない。しかし、やっぱり結果は気にしているのではないかと思う。

そんなことを考えていると、人間は、やったことがないこと、慣れないことに緊張するようにできているのではと思う。動物はきっとそんなことを思わないと言うか感じないのではと思うが。

 

"人間万事塞翁が馬"ということわざを座右の銘にしている人も多い。

改めて、調べると・・・実用日本語表現辞典には次のように書いてある。実に分かりやすい。

 幸不幸は予期し得ない。何が禍福に転じるか分からない

 

世の中、なるようになる。という心境は大切だ。だからと言って、開き直る事ではない。

このブログでも以前、後悔と反省は違うと書いたこともあるが、やはり、済んだことはくよくよしても始まらない。覆水盆に返らずである。

 

こんな風に考えていくと、昔の人も今の人も、終わったことに一喜一憂せず、反省が必要な事はしっかりと振り返り、次も失敗するかもしれないが、また、前進しよう、チャレンジしよう。こんな感じで人間は昔から繰り返しているように思う。

 

実際、人生は長いようで短い。何が起こるか分からないのが人生である。どうせなら、たった一回きりの人生、楽しくというのは当然だが、その前に、結果に一喜一憂しながらも、目指すは結果に一喜一憂しないような選択と行動。こんな感じが人間らしいのかなあと思う。

 

 

以上

地道な仕事は好きですか?

今でも思い出す仕事がある。

それは、学生時代のアルバイトだ。

私は、農家生まれ農家育ち。親父からしたら、子供の私を労働力としてもカウントしていたのは間違いない。それが当時の農村の常識だった。

 

まあ、対価を得ていたわけではないので、仕事とは言えないが、こういう時の感覚が今でも残っている。実に、農家の仕事は地道なのだ。農業には加えて地味という印象もある。

 

こんな私が、初めて仕事したのが大学生になってから。

家庭教師もそれなりにしたが、どうも私には向いていなかった。小学校高学年の子供に教えだして3か月ぐらいたった時、お母さまから相談を受けた。

“うちの子、勉強せずにクラブ活動ばっかりなんです。どう思いますか?”。

私は、あっさりと迷いなく、“それで良いと思います”と答えた。

すると、後日電話がかかって来た。お考えが違うようですと、クビになった。今思い出しても、この考えは間違っていない。

ただ、反省としては、ご両親が私に期待していた事に、背いた。これでは家庭教師失格だ。

 

まあ、他にもこんな感じの話は多いが、一方で、私は、性に合っているなと思った仕事がある。

もっとも、学生時代だから、単なるアルバイトかもしれないが、それでも、私みたいなノーテンキタイプには、結構、社会勉強になった。

 

当時もアルバイトは色々とあったが、今考えてみたら、地道な仕事ばかりを選んでいた。

定番では、お中元の配達。ひたすら、真夏の暑いときに、お歳暮を運んだ。巡り合わせで、山間の一番困難な場所が割り当てになった。約1か月、これはこれで楽しかった。

あとは、お歳暮の包装のアルバイト。小技が得意な私は、誰よりも先に包装の技をマスターしていい気になっていた。また、つくだ煮の工場で、大学芋を作る工程のひとつ、さつま芋を揚げる仕事を1か月ぐらいしたこともある。

あとは、基幹道路での交通量調査。今でも時々見かけると、とても懐かしい思いがある。夜な夜な、車などの通過台数を数えた。

 

中でも、一番面白かったと鮮明に覚えているのが、種屋さんでのアルバイト。それは、朝顔の種を3つずつ、袋に入れる仕事だ。これは2週間はしたと思う。毎日がとても楽しかった。雑談は友人としながらできる。指先だけが、ひたすら、仕事をこなす。

 

こんな風に書くと、地道な仕事だけを選んで書いているように思われるだろうが、家庭教師以外は、全部、こんなシンプルな単純作業と言えるような仕事ばかりだ。逆に言うと、接客などの人とコミュニケーションをとるのは苦手意識が強かったので、そういう類の仕事は避けていたと思う。

 

今、会社経営をしていて、私に対する印象と言うのは、多分、地道な仕事をするタイプには見ていない人が多いだろう。しかし、身内は良く分かっていると思うし、私と一緒に仕事している社員も不思議な話しとは思わないだろう。

 

私は、仕事の基本は、地味に地道にやることが何よりも大切だと思っている。だから、今でも、そういう仕事は喜んでする。こんな現場感覚に触れていることも好きだし、どんなに立派な企画やプロデュースがあったとして、どんな派手なマーケティングをしようが。

商売の原点、仕事の原点は、地道に地味でもコツコツと仕事する人達がいるから成り立っている。

 

だから、金融系などの仕事には、あまり興味がない。もちろん、私が知らない世界で、地道にやっている人も多いだろうが、ものづくりの地道さとは違うと思う。

いつか、時間ができたら、学生時代にしていたような仕事をもう一度してみたいと思う。

 

 

以上

本のつくり方を知りたい人のために・・・

世の中で、本を書いてみたいと思う人がどれぐらいいるだろうか・・。

そして、実際、本を書いて出版に至る人の数は?

私は、何年か前、こういうことを大雑把に計算してみたことがある。

私の試算では、本を実際に書くのは、100人に1人ということになる。

 

では、本のつくり方を知っている人はどれぐらいいるだろうか。

本の種類には色々ある。ISBNコードを取得して、どこかの出版会社から出すというのが基本だ。ただ、もちろん、完全なる自前で、本は作ることも出来る。

 

要するに、私たちが普段、書店で見かけたり、ネットショップで買ったりする本は、本としてそれなりの部数が印刷されて商品となっている。まあ、最低でも3000部程度は印刷することになるだろうか。

こう考えると、単純に印刷コストがかかるのが分かる。具体的には、印刷会社にある印刷機が稼働する訳だ。本のページ数や種類にもよるが、例えば、3000冊を印刷して、その費用は、ざっと、50万円から80万円ぐらいの間だろうか。

仮に原稿の執筆、編集、DTPなどを全部自分でやれたとしても、流石に印刷は専門業者だろう。

だから、結局は、紙の本は、印刷することが、製造コストの多くを占めることになる。

 

で、著者に関心がある人なら、コストも重要だが、実際にどういう風にしたら、本が出来上がるのかを知りたい人は沢山いると思う。

 

例えば、行きつけのレストランに行って、気に入っている料理を自分で作ってみたいと思う事と似ていると思う。そう、実際、私たちは、参考となる、目標にできそうな素晴らしい本は、世の中に溢れていることを知っている。

ハードカバーのものもあれば、単行本のようにコンパクなものもある。もちろん、小説から始まって本には様々なジャンルもある。こう考えてみたら、私たちが、本を書こうと思えば、イメージはすぐに掴める。

 

私の経験上もそうだが、やはり、本を創造するときに、最初に決めないといけないのは、何を書くかである。

その時に真っ先にイメージすることは、本のタイトルだろう。料理で言えば、料理の名前である。

もちろん、最終、商品となる際のタイトル名は、出版社と一緒に熟考することもあろうし、著者が本を書こうとひらめいたタイトルをそのまま使う事もある。

 

私の場合、最近は、書きたい本のイメージは何冊も常に頭の中に持ち歩いているので、本当に書こうと思った時は、すぐにタイトルを決める。最終的には、少々変更するときはあるが、大幅に変わることはない。当然、タイトルと本で書きたいことのアウトラインは一致する。

 

タイトルと同等に大切なのは、目次だ。

私の場合は、本に関わって20年は越えた。慣れてくると、本を書こうと思ったら、何も見ずに、その時点で頭にある、目次になりそうな項目を書き出す。

最低でも数10個は書く。それを何度も見直しながら、目次の精度を上げていく。もちろん、本を書く達人なら、そういうことをせずとも、書き出すことが出来る人もいるとは思うが。私は、オーソドックスに仮タイトルと目次の仮決めを行う。

 

ここから先は、書くだけということになるが、当然、ここからが最難関だ。

先に書いておくと、自分で書くか、人に任せるかの選択がある。任せる場合、プロのライターか身近な誰かに依頼するかの二者択一になる。

 

もちろん、折衷もあるが、理解を分かり易くするために、自分で書くか書いてもらうかで考える。

両者の違いはもちろんある。

私の最初の本は、自分で全部書いた。いままで書いた20冊強の本の中で、半分以上は、自分で書いた。一方で、全部、口述で書いてもらったものもある。

だから、自分にとっての良し悪しは知っている。

 

最近は、本を書こうとする人に出会ったら、時間があるのであれば、自分で書きましょう。そうでないなら、書いてもらいましょうと提案することが多い。

一番の理由は旬を逃したくないからだ。時間がなくて、頑張って隙間時間を捻出しようとすると・・。結局半年とか1年とかに間延びしてしまい、新鮮感も薄れるし、せっかくの素晴らしいコンテンツの価値が下がる。

 

そもそも、原稿が迷走したりする。

着地点が見えなくなるのである。私のお勧めは、やはり、鮮度を保つためのスピード優先である。字数にして、7万文字から8万文字ぐらいであろう。そう、私ぐらいの年齢以上ではなじみの400文字の原稿用紙を200枚程度だ。

実際、手書きすれとなるとぞっとするが、今は大抵の人は、パソコンなどのツールを使う。だから、ひたすらまずは原稿を書くという事になる。

 

もちろん、一気に仕上げられる人もいれば、例えば、章ごとにしあげていくというやり方もあるし、目次の項目ごとに文章を創っていく方法もある。

私の場合は、最近、ブログを続けて書いているので、本も小刻みに、目次というパズルを埋めるように書きながら、制作プロセスを楽しんでいる。

 

で、難産の中、本の原稿は出来あがる。富士山の頂上を目指すとすれば、ここで5合目だろうか。ここから先の、お楽しみ作業は、次回に書きたいと思う。

 

 

以上