近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

妥協と協調は紙一重?

日本人は国内でも海外からも、協調型の人が多いとよく言われる。

実際、私もそういう話題に参加することもあるし、自分以外の日本人を見て、そう実感することも多い。

 

ビジネスの世界でのイメージとしては、欧米などに比べて、日本人は自己主張や押し出しが弱いとされる。私の実感では、これはベトナムなどの新興国でも同じで、やはり日本人はおとなしい国民だと思われている。

 

調和型と言うのは、バランスよく人間関係を構築できる人のことであると思う。英語で書けば、ハーモニィ。歌でハーモニィはとても心地よい音色のイメージだ。

 

単純に考えて、調和を重んじると妥協や我慢を強いられる。自己主張型の集まりで、調和がとれるかと言えば、それはとても至難の業である。ボス猿ばかり集まって、調和がとれるかと言えば不可能だろう。

もちろん、最終的には本能的に誰が強いかの争いになり、その人がリーダーシップで統率すればその集まりはまとまることはあるが、とても調和がとれているとは言い難い。

 

やはり、自己主張が強いものばかりを集めて調和がとりにくいと言うのは、私も実際に経験は沢山ある。

私の場合は、経営者の集まりに参加することや自ら経営者の集まりを企画実行することも多い。そういう経験に照らすと、ボス猿的な経営者が集まった世界では、調和と言うのは取りにくい。

 

一方で同じ経営者でも調和型の経営者が中心に集まっていると自然にその集まりも調和がとれる。当たり前と言えば当たり前なのだが、では、その調和型の人と言うのはどういう人なのだろうか?

タイトルで書いた、妥協するということと何が違うのだろうか?

 

妥協というのは打算だし、誰かが誰かの考えや意見に従う、あるいは抗うのを諦めるという結果に他ならないと考える。

だから、妥協の産物で生まれた取り決めや活動方針というのは、実際には実行に移しても結果につながりにくく、どこかで頓挫する。

 

例えば、国際会議や地球の問題を解決する集まりは幾つもあるが、メディアを見ていても分かるが、明らかに妥協の産物の声明が発表されることも多い。こういう時の内容と言うのは、あまりにも万人に分かり易く玉虫になる。だからとても残念である。

 

お互いに譲れないところは、どこかに置き去りにして、もっともらしい共通点だけを決定事項とする。このレベルの会議ではなくても、政治の世界でもビジネス社会でも日常茶飯事とも言える。

 

こういうこと比べての調和とは何か?

私の考えは実にシンプルで、やはり、目の前の事ではなく、先の事に対しての共通認識があれば、それについては、意見や考えの不一致は殆どない状態になりやすい。

これが調和の前提だと思う。簡単に言えば、随分先の事で一致できない相手とは、調和のしようがないわけだ。

 

例えば、先ほどの経営者の例で言えば、手段選ばず金儲け優先の経営者と、社会貢献前提で金儲けも当たり前に目指す経営者では、何年先になっても相いれようがない。

今流行りのSDGSで言えば、このどちらのタイプもSDGSを提唱することはできる。だが、この両者の調和は無い、しかし妥協はできる。

もちろん、どちらも自分の事を優先するための妥協はできるだろう。

 

こんなことを考えていると、今の日本人は、気骨のある、それこそ武士のような人は少ないと思う。海外からの印象が強い協調型の日本人は、実は、妥協の産物の結果ではないかと疑いたくなる。

 

これからの日本としてやっていきたいことは、地球の未来を見据えて、本気で良い行動をする。今仮にできていなくて、現実とのギャップが沢山あるとしてもそれはお互いが理解して、目標に向かって、努力することに敬意を払う。

 

こういう心持で経営活動もしていけば、この先、日本は真の意味で調和を世界に伝播する役割ができると思う、私はそういう経営者の一人でありたいと思う。

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以上

 

人間の多面性について思うこと

この年になって改めて、人との付き合いは奥が深いと思う。

そもそも、仕事やプライベートでお付き合いしているとして、本当にその相手の事を心底理解できているのだろうか?と思うことが日常茶飯事だ。

 

馬が合うかあわないから始まって、類は友を呼ぶ、同じ穴の狢、一期一会、袖すれ合う縁も多生の縁・・・などなど。人間関係を表現する言葉は数えきれないと思う。

 

他人ごとみたいなことを言いたいわけではないが自分自身もそういう人間関係の一構成の一人だ。

例えば、本音と言う言葉がある。反対は建前だ。

本音と建前の使い分けが過ぎると、人間関係を損なうと言うか、信用されにくい人物のレッテルを貼られやすい。

しかしこれも良く考えてみると、そもそも本音と言うのは永久に自分以外からは分からないのだから、どうやって本音と建前のギャップが自分以外の人に分かるのだろうか?という考えもある。

 

ジョハリの窓という心理学的な考察のやり方がある。私もブログに書いたことがあるが、この中には、自分が知らない他人が知っている自分というのがあり、これは人間力を磨く時の肝だと思っている。その通りに解釈すると自分の本音すら気づいていないことは多々あり、外から接する人は、態度や表情、ふるまいで、当人の本音を察することが出来るのではと思ったりする。

 

実際に、私はどちらかで言うと、直球勝負で通しているが、自己否定するわけではないが、どこまで、本音で人と接しているかは微妙だ。

少なくとも相手によって本音の出し方は変えているし、そもそもビジネスの場面では、やはり、本音と建て前には常にギャップがある。ビジネスでは演じることも大切なスキルだ。

 

では、嘘をつくということはどうだろうか?

これにも色々ある。嘘も方便というのもある。本当に人をだましたり貶めたり、特に犯罪になるような嘘はご法度だ。

だけれども、日常生活などは特に嘘も方便の事例など沢山ある。例えば、良くないことが発生して、発生時点では伝えるのをやめておいて、後日伝える。こういう配慮は人間関係の基本だ。

 

また病気の告知ということもある。インフォームドコンセントと言われるが、本人が言って欲しいという意思表示があれば別だが、家族は知っていても本人に知らせないことも多々ある。こういう風に考えていくと、やはり、誰にでも一過性の秘密は沢山あると言える。

 

話を更に深めると、私は人間の秘密ということにとても関心がある。誤解のないように書くと、知り合いの秘密をとことん知りたいという意味では全くない。

 

そうではなくて表面上での会話のみで、その人の性分や本質、そして経験を判断してはいけないと思っている。もちろん、私にも一生秘密にしていることも幾つかある。山のようにあったら身が持たないが、誰にでも少しはあると思う。もちろん、そうでない人もいると思うが。

 

そして、この秘密にしても例えば20歳の時は一生秘密にしておこうと思っていることがあっても、50歳過ぎたら、そうでもなかったりして、誰かに話したり、どこかで書き物にしたり。こういうこともある。

 

例えば、すでに特段私だけの秘密ではないが、私が小学校低学年の時の女性の担任の教師に“注意散漫精神ガタガタ病”と通信簿に書かれたことがある。当時、これはもちろん親は知っていたが、それ以外は多分私しか知らなかった。

 

30歳過ぎてから、だんだんと周囲に話しするようになり、10数年前には本にも書いた。

要するに、その意味が理解できるようになり、むしろ肯定的にもとれるようにもなったからだ。

これは自分自身の変化もあるが、世の中の変化もあると思う。

 

そんな風に考えていくと、王様の耳はロバの耳の童話ではないが、墓場まで持っていく話というのは、実は密かに記録に残しておくと楽しいし後々役に立ちそうにも思う。

絶対に情報漏洩できない仕組みが確立されたとして、自分の秘密を記録しておく。

例えば100年後に開放しても良い、あるいは1000年後でもよい。しかも、聞かせても良い人も自分が決められる。現実的には子孫という事になるかもしれない。

 

こんなことが起っても不思議ではない時代の人間の多面性を考えると、また、日々の人との接点が楽しくなる。不思議なものだ。

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以上

 

日本と新興国の人材教育はお互い様である

日本の会社が新興国人材を活用するときに、最初に気にすることは、日本語である。

 

日本の会社だから日本語を習得してもらうのが当たり前という考え方を否定するわけではない。

例えば日本にある英語圏外資系の会社が、日本で活動する際に日本人の社員に英語を要求するのは自然の話だ。これが英語圏の現地であれば尚更で、英語ができないと仕事にならない。

 

だから、日本に来る新興国の人に日本語の習得を要求することは当たり前となる。この辺りはそれぞれの立場を考えると比較的分かり易い。

ただ、IT業界などを筆頭にすでに英語ベースで仕事が行われるような分野は、日本語に必ずしもこだわる必要がない。 

 

しかも、ここで大切なことを忘れてはいけない。

新興国からみたら、よく英語の方がつぶしが利くと言われる。それは、英語の方が日本語より、より広く活躍できる国が増えるという意味だ。

こういう理由から日本よりも英語圏の国の方が新興国の海外志向の人には人気が高いというのも歴然とした事実である。

 

グローバル化の時代、日本語は国際的に通用する言語ではない。この事実にも経営者は目を向けて、彼らが帰国した後の活躍の場も考えていかないといけない。

当然、これは採用する際の単なる見せかけだけの人気取りであってはならないのである。

 

日本語の次に、日本人が気になるのが、ビジネススキルについてである。

確かに、私も新興国の色々な人材と接してきて思うのは、日本の様な先進国と比べると、これからの国の人たちは、ビジネススキルは低い。

 

言うなれば、日本の高度経済成長期の初期の頃の日本人のビジネススキルがどうだったかの比較が妥当だと思う。だから、こういうギャップはビジネス社会全体の底上げと共に解消に向かう。

そういう意味では、私がどっぷり関わって来たベトナムのこの数年間の変化は目を見張るものがある。

エクセレントな企業の経営者は、とにかく社員教育を徹底している。外部の専門会社に任せているところもあるが、経営者自らが教育の現場で教えているケースも沢山ある。日本人が教えなくても自力で出来ることをベトナム人経営者は証明していると言える。

 

日本が特に、期待される教育のテーマとしてチームワークと品質向上がある。前者こそ、日本人が世界の中でも最も得意とするところで、これはビジネスに限らずスポーツの世界で、しばしば、日本のチームワーク力は世界で話題となることからも分かる。

組織活動する上では、いくら個人のスキルが突出していても、平均的なスキルの集まりでもチーム力が高い方が、企業経営は安定するのは明白である。そういう意味では、日本は格好のお手本なのである。

 

高品質や高サービスの実現に関しては、日本は世界でも一流である。日本人の特性に依存する部分もあるとは思うが、私も日本の社会で長年働いて、やはり仕組み化されていると思う。

それとセットで教育の仕組みも機能している。根っこはやはりPDCAに尽きる。こういうところは日本人の得意とするところである。

 

ただ、勘違いしてはいけない。日本人が出来て新興国の人ができていない理由を理解しないといけない。それは社会的背景が違うことが多い。

例えばベトナムでは、子供の頃に日本の様な躾やチームワークを学ぶ機会がほとんどない。昔よりは日本は、そういう子供の頃の大切な教育が乱れてきた事実はあるにしても、それでも新興国の実態よりは大分レベルが上である。

 

日本のことがベトナムに伝わってくる過程で、小さい子供を持つお母さまが、日本の躾を身に付けさせたいと期待する声を多く聞くようになった。

ビジネス目的ではなく、子供の躾と言う意味では、日本人に期待するところはこれからも大きくなってくると思われる。

 

ところで、人材育成や人の成長を考える時に、時々考えることがある。それは、仮に日本人の赤ちゃんをベトナムで育てたらどうなるだろうか。その逆にベトナム人の赤ちゃんを日本で育てたらどうだろうか?

遺伝的要素は変化ないにしても、社会や環境や学校で学ぶことは、その国の環境に合わせて身につくだろうことは疑う余地はない。

 

教育の原点は、実はここにあると思う。日本人だから出来て、他の国だからできないと言うレッテルを日本人は貼りがちだが、やはり、人の教育には環境の影響が大である。

 

日本でも、寒い北海道や東北の人たちと九州や沖縄の人たちは違う。こういう違いもよく考えていくと、日本人だけが全く同質ではないし、国が違っても日本人と似た人たちも沢山いることに気づく。

新興国での教育は、砂漠に水をまくようなものだと言う意見もあるが、私はそうは思わない。

地道な水まきが役に立ち植物が育つということも数多く経験した。

それは私が仲良くなったベトナム人の経営者仲間との付き合いの中でのことだ。

日本人以上に社員教育に力を入れて、スキルアップに成功している経営者が沢山いる。結局、どこの国でも意識レベルが高い人は、教育機会によって人を育てることが出来る。

 

日本人は、新興国の人達に対しては、上から目線になりがちだ。教えることも確かに多いが私たち日本人が新興国の人たちから教わることも多い。

 

それは、今、日本人が忘れてしまいかけているハングリー精神やチャレンジ精神である。

また、必死で生きるということもそうだろう。恵まれ過ぎた国で住んでいると、本質的に人間として必要な学びが少なくなる。

 

さらに言えば、彼らの方が他人にやさしい。

実は、私は骨折してギプスと松葉づえでベトナムに出張したことがある。現地では車いすも多かった。なんと彼ら彼女らの目線の優しいことか。色々と移動のお手伝いをしてもらえた。こんな暖かい社会は今の日本には滅多にない。久しぶりの新鮮な体験だった。

 

新興国で活動していると、今の日本が失っているモノに気づかされることが多い。

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以上

 

仕事のための人付き合いと人生のための人付き合い

人との付き合いは、実に楽しい。

と言いたいところだが現実はそうとも限らない。 

やはり気を使うし面倒くさい付き合いもあるし、できれば付き合いを止めたいことも正直ある。

それでも大人として責任ある立場としては、我慢も必要だ。

 

もっともこれは、一方的な話しではなく相手の方もそう思っている可能性は高い。

こんなことをいつも考えている。

 

気の置けない人という表現がある。こういう間柄は、やはり学生時代や中学高校の旧友あたりであって、ビジネスで関係していない人だと思う。

 

流石に私の年で、仕事をリタイアした年上の方と気の置けない関係にはなりたくてもなりにくい。まったくそういう存在がないわけではないが、それは例外だ。やっぱり、気の置けない人というのは人生には必要で、それが先ほど書いた昔からの友人なのかもしれない。

 

私の場合は現役でバリバリ働いている以上、仕事の関係と言うか、仕事のためのお付き合いというのが時間的にも人数的にも大半である。

単純に考えて、面白い事業、刺激的なプロジェクトなどであれば心は自然に踊る。そういう関係のお付き合いも自然と楽しくはなる。

 

だからと言って、それが継続的なものになるかどうかは別問題だ。仕事は仕事だ。

私は10年以上前から、“何かをするかより誰とするか”を表明してきた。

しかし40歳前半ぐらいまでは、どうしても仕事の結果を良好にするため、ビジネスを成就するための付き合いを優先してきたことは否めない。

分かり易く言えば、顧客としてちゃんと予算をもっていそうとか、キーパーソンとして決裁権を持っている人とか。どうしても目先のビジネスに限らず、中長期のテーマでも打算で付き合う人を選ぶこともあった。

 

それが、経営を続けて20年を越えてくる頃、年齢で言えば50歳になった頃に考えが変わってきた。過去を振り返ってみると、その時は仕事やビジネスで盛り上がっていても、長く続いている人は少ないと気づいた。そう考えるとお互いに打算だったことに気づくのである。

 

一方で今までビジネスで密にかかわった人でなくても、巡り巡ってご縁があって10年、20年と何となくつながっている人の方が、今はお付き合いしていて楽しいし穏やかでいれる。

これは冒頭で書いたが、学生時代の友人感覚に近づいていると言える。

経営をしている立場で、良い意味でも反対の意味でも、利害関係がない人との付き合いは盛り上がりには欠けるが実は長続きする。それが、やはりなんとなく馬が合うことではないだろうか。

 

実際、10年以上前にお付き合いがあって、ビジネスでは上手くいかなかった人でも、今良好なお付き合いができている人がそれなりに存在する。

今が旬なのだと思うし、タイミングが合っているのだと思う。

 

そう考えてみたら、やはり短期的に目の前視点で仮に意気投合しても、それが長い人生でのお付き合いに変わるかどうかは分からない。

世の中も変わる。自分も変わる。相手も変わる。そんな偶然の重ね合わせの中で、やっぱり、必然だったんだ。と思える時が来る人とのお付き合いはとても新鮮で、深いものがある。

 

こんなことを重ねながら、日々を楽しんでいるが、結局は仕事を抜きして、付き合える人を探している自分にも気づく。まあ、単純に言えば、自分が仮に大金持ちだったとして、集まってくる人は当然偏るだろう。

 

やはり、相手にとってもお付き合いする意味や価値があるような自分でいようと常々思う。

それが何かの専門や得意領域という事ではなく、なんか付き合っていたら、相手の方の人生も豊かで楽しくなるような私でありたいとつくづく思う、今日この頃である。

 

以上

 

のみニュケーションと社員旅行のこれから

私が社会人になった約40年前、普通にのみニケーション(またはノミュニケーション)と社員旅行はあった。

初めての社会人になった時。それが当たり前だと思っていた。

毎晩のように先輩におごってもらった。特に一年生の時は、1次会にはじまり2次会3次会と、自分で支払った記憶がない。

だが、楽しかったかと言えばうそになる。スナックでカラオケを歌わされるのと店の人と話をするように促されるのがいやだった。

性分として今も変わらないが、マイペースで楽しみたかったからだ。

 

そんな私でも同じ部署の新入社員3人はいつも飲み会に呼ばれた。男性は私一人で深夜まで何度も付き合わさせられた。

この頃に、のみニケーションという言葉はなかった。わざわざそういう言い方をしなくても、当たり前だったからだと思う。

 

私の会社は建設会社だったからだと思っていたが、退職して色々な業界の話を聞くと、業種と言うより時代だったのだろうと思う。まだバブルははじけていなかったし、接待交際費も沢山あった時代だ。

 

もう一つは社員旅行だが、これも当たり前のように義務だと思った。結局4年目の年末に会社を辞めたので、4回経験しただけだが、その当時の写真も少しは残っていて、これはこれで良い思い出だ。

テニスやレクレーションも楽しかった。毎回一泊2日で温泉や保養所でのとても短い時間だったが、上司や先輩の人となりも分かったし、意外な一面を発見できてよい機会だったと思う。

 

ただ、私の場合は、一年生の時に酔っ払って足を骨折したという経験があり、私が退職した後もしばらく語り継がれたようだ。

ただ、これはこれで、私の人生の1頁としては良い思い出にはなっている。

 

時代は変わった。

ここ最近10年、20年は、のみニケーションも社員旅行も少なくなる傾向があった。一方で、あまりにも減り過ぎて、社員旅行も見直しが起りそうな気配もあった。

 

そうしてコロナ禍になった。

オンラインや在宅で社員のメンバーが会えなくなった。

そして1年半の制約から解き放たれたように、昨年の12月はあちこちで忘年会が行われていた。もちろん、ある程度の制約の中だが、少なくとも長い間の反動もあり、やっぱり、飲み会も良いね。たまには、のみニケーションも必要だねというムードだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、自分が関わっている会社では、これからも、のみニケーションは昔ほどにはするつもりはない。それこそ、創業した頃、私が30代では、毎晩のように社員と飲みに行った。

いわゆる大企業などで象徴的な会社の飲み会とは違う。私も若かったし部下はほとんどが20代。 

ただ単に遊んでいた。明け方まで遊んだことも何度もある。これはこれで楽しかった。丁度、ベトナムなどの新興国が今こんな感じた。会社の人と飲むわずらわしさよりも、単純に飲んで楽しむことの方が上回っている状態だ。

 

日本だけでなく新興国でも様々なのみニケーションを体験してきて思うこと。

それは、やっぱり食事をしながら、自由に歓談する、交流をする。とても大切なことだと思う。

 

そういう意味では、最近であれば自然に囲まれた屋外でのバーベキューが最高だと思う。この秋に私自身何回かそういう機会があったこともあって、今年暖かくなってきたら、できるだけ屋外でののみニケーションを色々な機会に行おうと思う。

 

花見も月見もしたい。日本国内は特に良い場所が沢山ある。社員旅行もこれからは、復活するのではないかと思う。

特に自然の中での体験や学び、農業ツーリズムやグリーンツーリズム。ヨーロッパでは当たり前だが、日本もコロナ禍をきっかけにブームがやってくるように思う。

 

また、そういう機会が創れる会社が生き残っていく時代だと思う。

時代と共にのみニケーションや社員旅行のやり方や中身は変わる。

そろそろ、昭和のやり方から卒業して令和ののみケーションや社員旅行が定着するのではと結構楽しみにしている。

知り合いの社長とも連携してするのもありだなと最近思っている。

 

以上

 

最近改めて都会の存在を考えるようになった

最近、私にとっての東京の存在が大きく変わってきた。

以前もコロナ禍になってからの東京とのかかわり方をこのブログに書いたことがあるが、シンプルに言うと、私の東京滞在が激減しますますホーム感が薄れてきた。

コロナ禍以前は、新興国、東京、神戸が私のビジネス活動の中心だった。 

 

会社自体としての東京での活動は以前と変わらずだ。むしろ活動がさらに活発になっている部分もある。それはDXブームの中、都市部では特にITなどの先端技術の活用がどんどん進むことが背景にある。こういった先端技術やDXの実践や実証は、世界中どこでも同じだが大都会を中心に先行して行われる。

 

 

 

 

もともと私が長年住んでいて、創業の地である神戸に主たる活動拠点を戻してもう2年近くになる。これはコロナ禍以前から考えていた事だが、海外に行かなくなった分も合わせて、90%ぐらいの時間を神戸を中心とした関西で過ごしてきた2年だった。そして昨年は日本の地方めぐりを一気に増やした。

 

少し整理すると、世界の大都会東京と、新興国を中心に活動していたのを、ローカル都市神戸と日本の地方を中心の活動に変えた。全くビジネス活動の基盤が変わったと言っても過言ではない。

 

もっとも、仕事の内容はそれほど変わらず、極端に言うと、私がどこにいるかが変わっただけである。蟻の目、鳥の目、魚の目というのがあるが、まずは、蟻の目が変わった。今は神戸と日本の田舎をじっくりと細部まで体感しながら観察している毎日である。 

そして、鳥の目としては、今は海外から日本国内に目が移っている。魚の目としては、日本の国内の都会と田舎を行ったり来たりである。

 

私は、徳島の農村出身で平均的な田舎暮らしだったと思う。高校生までは、私にとっての都市は徳島市である。最盛期でも人口20万人強だと思うが、それでも私達田舎の人間には街にでる、先進的な場所に行くと言う感覚があった。

 

そして、大学で神戸にやってきた。未だに覚えているが大阪の梅田に出て、地下鉄の群衆を目の当たりにした時、30階を超える高層ビルに初めて上がった時の感覚が忘れられない。

こんな世界が都会にはあるのだと知って衝撃だった。なにせ、徳島の一番高いビルが12階だったので、想定をはるかに超えていた。都会育ちの友人には、ちょっとからかわれた記憶がある。

 

今、私は、東京でもニューヨークでも上海でもドバイでも、世界のどんな大都市でも驚くことはない。それは、東京に馴染んでいるからだと思う。

仮に、日本の人で田舎でしか過ごしたことがなく東京を知らない人が、いきなり海外の大都市に行けば驚愕するだろう。

データを見れば明白だが、広がりなどの規模感も含めて、東京と言うのは、そもそも世界一の大都市なのである。

 

最近、この大都市東京が私には少しずつ遠い存在になってきた感覚がある。実際、この2年近く、2、3か月に一回。一泊2日の出張ベースでくると、今まで気づかなかった東京が見えるのだ。

 

そして、その度に考えている。

東京になぜ、これだけ人が集まるのか?

ここに人が集まってくる魅力は何か?

都会で住んでいて都会で働く人は本当に楽しいのか?幸せなのか?

 

もしかしたら、この数十年、田舎の人たちは、皆が行くからあこがれの東京に行く。こんな雰囲気と人の流れではなかったのだろうか?

 

確かに、ビジネスで言えば、東京でやって初めて一人前という雰囲気は無くはない。

例えば、地方都市の飲食の経営者が東京進出とシンガポール進出を天秤にかけたときに、どちらを選ぶかは微妙だろう。それだけ、東京の競争は激しい。

 

東京に行けば、情報の質と密度が違うと言われていたが、今はどうなっただろうか?

すでに情報はITを駆使すれば世界中どこからでも入手できる。情報は人から生まれるとしても、こんなに多くの人が東京一箇所に集中する必要はもはやない。

 

そろそろ、大都市への憧れで東京へ向かってきた時期から、本当に自分が住みたいところはどこだったのかを考え直す時期に来ているのではと思っている。

 

以上

 

時間を如何に上手に使うかは日々なる課題

人間にとって時間とは何か?

こういう専門書もかつては何冊か読んだことがあるが、今もって、時間の使い方を上手にする方法はないものかと模索している毎日である。

 

 

 

 

そう言いながら、慌ただしく毎日が過ぎていく。

実際に年を重ねてくると時間が経つのが早く感じるというのは事実のようだ。私が30代、40代の頃と比べても早いと思う。

かつて読んだ本の中で記憶しているが、結局、過去の記憶が膨大になってくるので、それを尺度として、時間の経過が早くなるように感じるという説に納得している。

 

実際、仕事のことで言うと、日々、仕事の密度や精度が高まっていくことが分かる。流石に、様々な失敗を重ねながら前進していると、かつての失敗は鮮明に記憶されている。記憶と言うよりも、世間で良く言われる体が覚えている状態だ。

 

だからと言って保守的になるのではなく、かつての失敗は繰り返さないように瞬時に反応し次に向かう。相変わらず今でも失敗だらけだが、今のところ致命傷にはなっていない。

 

これは、車の運転にも似ているのかなと思う。

それこそ、教習所を出たての初心者であれば、ちょっとした街中を走るのでもおっかなびっくり。必要以上に慎重になるし怖がる。

もちろん、これが正しい部分もある。

 

それが運転に慣れてくると体が覚えてきて、安全運転の注意を怠らないことを重視しつつも、結構機敏に運転できるようになる。

 

仕事も同じようなことがあり、経験を積むとはそういうことだ。

毎日毎日、仕事をしている訳だが、それは常に時間をどう使うかを考えていると言っても過言ではない。

 

今のところ、仕事のスキルは向上してきたが、どうも時間の使い方については、もっと良いやり方があると思い続けて、今も試行錯誤中である。

 

私の今の時間に対しての大体の考え方と使い方を書いてみる。

基本的には寝る時間はしっかりと確保する。おおよそ5時間から6時間ぐらいの間だ。もっとも、たまに電車に乗ったりする時に昼寝するので、実際はもう少し多いと思う。

そうすると、残りの約18時間で何をするかだ。

 

今のところ、月1回ゴルフをするペースなので、この日は特別だが、それ以外は水泳やストレッチなどで1日平均45分ぐらいは使う。

そうすると、残り17時間弱。

もちろん、こんな正確に毎日考えている訳ではないが、あとは食事などを入れると毎日のルーチンになる。実際は仕事や私用に15時間から16時間の時間をどう使うかだ。

 

私の仕事のスケジュールは随分前から、ITを使っているので私の身近な仕事の関係者は共有している。社内会議、顧客やパートナーとのMTG、セミナーのスピーチなどで、ほぼ空きなく埋まっていく。

週末は基本的に、仕事の棚卸や月曜日の準備に使いたいが、経営者同士、日曜日に面会や会食も珍しくはない。こんな感じて、日々、どんどん空き時間が減っていく。

 

本当はスポーツの時間と同じように、1日平均1、2時間は空き時間にしておいて、そこで、ブログを書いたり、本を読んだり、絵をかいたり、他色々としようと思っているが、この空き時間は結局、仕事時間でつぶれていく。

 

最も、仕事しながらも空き時間でする予定だったことを小刻みに入れているので、仕事もプライベートも効率よく混ざっていることもある。

 

こんな日々の中で、思い切って数日間、予定を入れないようにしましょうという考えは、私にも私の周囲にもある。しかし、そういうことをしようと思っている間に、また知り合いからメッセージが来る。食事行きましょう。オンラインでMTGしましょう。

もちろん、私からもなるべく早くコンタクトしたい人が沢山いるのでお互い様であるのだが。

 

こんな日々の中で、自分自身が1年後、数年後、どんな時間の使い方をしているかの想像はつかないが、かなり変化、進化はしていると思っている。そんな訳で、今日も時間をどう最大限に使うかの創意工夫の毎日である。

 

以上