近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

越日国交樹立50周年への想いと決意

新年早々だが、来年の2023年は私にとっても当社にとって特別な年になる。

20年以上前から私たちが活動してきたベトナムと日本の国交樹立50周年の年だからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

もともとはベトナムは、ビジネス目的で進出したが、今となっては半分以上その目的が変わっている。ここ数年は、心底、ベトナムと日本がもっともっと親密になればよいと強く想ってきた。

 

長年関わって来て第二の故郷という感覚がベースにあるが、何よりもベトナム人の友人たちとの付き合いが財産だ。今の社員はいうまでもなく、色々と訳があって退職していった元社員たちとのつながりも色々とある。

 

長いベトナム活動、現地の経営者や社会を動かすキーパーソンとの密な付き合いの中で、彼らの背負っているミッションや責任をひしひしと感じてきた。

彼らとはビジネス面では衝突は日常だった。お互いの理解不足からくるものや商習慣の違い、時として言葉のコミュニーケーションの齟齬もあった。特に私は通訳に頼ってきたので、そういう部分は弱点だったかもしれない。

一方で言葉は直接通じなくても得難いビジネスパートナーや友人がいるのも事実だ。

 

20年を越える中の出来事やエピソードは簡単には語りつくせないが、常にその時々に全力投球してきて今に至る。

 

この50周年は、国レベルで見てもとても大切な節目になるのは疑う余地はない。それは日本にとってもベトナムにとってもだ。

コロナ禍で双方の国とも試練の最中であり、この時間が、少し前の45周年のことをとても遠い昔のように感じさせる。

 

正確に言えば、2018年のことだからそんな前の話ではない。私達も45周年では、出来るだけの活動はした。特にベトナムの南部の最大都市における越日文化経済交流イベントは、カントー人民委員会とベトナム商工会議所の共催で行った。

我が社が地道に民間主導で進めてきて、それなりにベトナムへの貢献も実りだしたところだった。

 

 

 

日本人の私ではあるが、どうしてもベトナム側から日本を視てきたので、この10年来、日本人の行動の遅さには、ベトナム人と同化してやきもきしてきた。

もちろん日本人なので、日本と日本人のそういう行動の理由は重々分かる。だからこそジレンマであったのは事実だ。どうしても日本人は、相手が望むほどには積極的でないのだ。意思決定に時間がかかるのだ。

ベトナムには興味がないのか?日本人に対するベトナム人の失望感も漂う中、色々と受け止めてきたつもりだ。

 

私もこういう背景を背負って、日本国内、ベトナム国内の経営者セミナーなどで、NOTOの日本を引き合いに、やや自虐的に聞こえるような本音トークを続けてきた。

NATOとは、NoActionTalkingOnlyのことであるが、慎重すぎて保守的すぎて、リスクテイクできなくて、なかなか実行に移さないというニュアンスを揶揄する言い方だ。

 

もちろん、日本側の事情はある。

だが、シンプルに書くと、ベトナムベトナムで目の前のことに必死。国の発展をショートカットで成就したいから。

日本は日本でこれまた目先の事でいっぱいいっぱい。なぜか焦っているし、目先の結果を求められる社会に属しているから。

 

私は客観的に高みの見物ができる立場ではない。両方の調和と共生を考えたときに答えは意外と簡単だ。

両方ともがお互いの未来を共有して前に進む。それは地球温暖化対策であり、食糧危機に備えることであり、グローバルな人材活躍の場を創ることである。

 

まだまだ、他にもが両者が共生して創るべきことは沢山ある。日本とベトナムは、地政学的にもそうだし、歴史上の関係もそうだ。必然の関係にあると言っても過言ではない。

 

目の前のことに関しては、とりわけ経済面では、先進国である日本の方がはるかに余裕はある。

だからこそ、ビジネス面で見れば、日本の経営者がベトナムでどう儲けるかではなく、ベトナム人にどう儲けてもらえるかを先に考えれば、多くのことがスムーズに進むだろう。

 

農業しかり教育しかり衛生しかり、沢山の分野がある。いわゆる信用ビジネスである。

 

再来年はあっという間だと思う。コロナ禍は先行き不透明ではあるが、年明けから2023年の周年に向けての活動を本格化するつもりである。ぜひ、一緒に越日の関係強化を盛り上げていきましょう。

 

以上

 

2022年はいつになくワクワク感が半端ではない

私にとっての新年は60回目だ。

もっとも、新しい年の初めを意識しだしたのは年賀状を書くようになってからの小学校の中学年ぐらいだからではないだろうか。

それまでは、餅つきをする、大掃除をする、親戚が集まる、お年玉をもらう。子供心としてのとても楽しいイベントだった。

 

何となくだが、1年の目標を立てて心機一転、気合も入り、年輪のように1年単位を節目とらえるようになったのは創業した31歳からだと思う。

 

特に毎年、年末年始には1年で達成したい目標を幾つか書いて、行動とチャレンジの拠り所としてきた。今でも、そういう記録は手帳やパソコンの資料としてどこかにあると思う。

30代の頃の内容は殆どが会社をどう軌道に乗せるが中心だった。そのために創業者として人脈を広げるとか、あと、健康管理と言うよりも体が資本であるという意識は30代からあったので、水泳をどれだけするとか、まあ今からしたら微笑ましい目標設定だったと思う。

 

ところがここ数年、年が変わる度の目標設定をすることをしていない。忘れているとも言える。どうしてかというと明確な理由はないが、まず頭に浮かぶのは、1年と言う単位がとてつもなく膨大に時間があり長いと思うようになったからだと思う。

それは、やりたいこと、やるべきことが加速度的に増えていることとの相関でもある。

 

今ぐらいの年になると、過ぎた時間を振り替えると、あっという間だったと思い、時間が経つのが早く感じる。一方で、これからの時間をとらえる時は逆で、例えば20年前の1年でできるだろうことと、今の1年でできるだろうことの可能性が、感覚的には10倍どころか100倍ぐらいに大きく感じるのである。

 

昔の1年が今の1日に感じる日もある。

これはなぜかと言うと、理由は結構明確だ。私の場合は、まだ企業経営の現役なので、これがベースになっている訳だが、昨日のブログでも書いたが、つながることを意識しているからだ。

実際そのつながりが、どんどん、見える化されてきて、今まで種まきしたり温めたりしてきたことが、一気に芽生えて、春の訪れを待つような気分なのである。また、蒔いた種の幾つかは成長中であったり実りの秋が近かったりのものある。

 

それに加えての手ごたえである。単純に、私や社員や関係者の人たちの活動の密度や仕事スキルが日々向上しているという感触はもちろんある。ただ、それは基盤の話であって、それ以上に関わっている人達との盛り上がり感だ。やる気満々の人達とつながっているという実感がある。

 

まさに何をするかより誰とするかと言う状態だ。

そして、もう一つはカオスの中にいることである。物事を成就するには、計画的に進めることの必要性は言うまでもない。

しかし変化が加速している時代。今日の常識は明日の非常識になる可能性が高まる時代。しかも世界がつながっていく時代。こんな時に、明日のことの予測を考えるよりも、すぐに行動する方がより変化に適応できるのは間違いがない。

 

今や情報は欲しいものは、それなりの努力をすれば、昔よりも容易に入手できる。仮に専門的なノウハウが必要であれば、つながりの中で、専門性はそういう方たちに任せればよい。

 

こんなことを元旦から考えていると、やはり、今年1年の目標は書きようがない。ルーチンとしてのTODOはすでにメモした。

ひたすらここ数年間の活動の精度を高めて、前進あるのみである。

 

一つだけ大きな課題があるとすれば、ITサービスに約40年関わってきた割には、自分たちがする活動基盤としては十分に使いこなせていないことだ。私の大きな反省のひとつである。

 

やはり、そろそろ創業時からポリシーである、やってみせるの原点に立ち返らないといけない。ペースメーカーを標榜してきた威信にも関わる。

そういう意味で、身の引き締まる思いである。

 

あと最後になるが、人生に偶然で必然の巡り合わせというのはあると思っている。

今年の12月が創業30年を迎える。それと、個人的には60歳、還暦になる。

両方の意味においてもリボーンということで、温故知新を大切にしながらも、ゼロから色々な事をスタートしようと思っている。

 

 

 

 

以上

 

今年の私の流行語大賞を選ぶとしたら・・・

またまた、あっという間の1年だった。

だからと言って、何か問題があると言いたいわけではない。

年々、時間を感じるスピードは速くなっているのは間違いない。年齢を重ねるとはそういうことだと実感している。脳科学的にも確かなようだ。

 

この一年は沢山の人とのつながりがストックされている実感と、この基盤をベースにさらにつながりが深まりそうな予感にワクワクの毎日だった。

 

特に一年の終盤の11月ぐらいから、コロナ禍が一時的に落ち着いたこともあって、多くの人と直接面会した。お互いに溜まりたまったマグマが爆発したような感じかあった。

だから年明けは少し落ち着いて、様々な情報やネタを醸成しようと思っているところである。

 

今日は、大晦日なので、1年の締めくくりとして今年を振り返ってみる。

世間では、毎年、流行語大賞が選ばれる。これはこれで、少々興味がある範囲だが、ふと私と自社の流行語は何か?と考えたてみた。

幾つか浮かぶが、一つだけで言えば、

それは“つながる”である。

 

実際に、ブレインワークスはつながる会社です。を標榜して数年になる。明確に表現し始めたのは、新興国と日本をつなぐビジネスを長年行ってきた実績を根拠に、数年前の海外進出セミナーである。

 

最初は、すぐに理解する人は少なかった。そもそも、理解してもらおうと言う意識よりも、自分たちのミッションや役割を社員や会社の関係者で共有する目的が強かった。理解度に強弱や温度差はあるにしても、社員間では、感覚的には創業時から共有してきたことである。 

 

今年の前半に、つながるという本も読んだ。これだけでこんな分厚い本になるんだと感心した。

また、様々な本を読むことによって知的なつながりが拡がることも体験している日々だ。

 

 

 

 

今年の後半ぐらいから、初対面の人でもこの“つながる”の活動を理解してもらえる人が増えてきた。

もっとも、今は初対面と言っても紹介であったり、少なくとも事前にSNSなどで、こちらのプロフィールや表現が伝わっていたりするケースが多い。

 

来年以降も徹底的につながり、つながるにこだわっていこうと思っているが、現時点での私の“つながる”の感覚を幾つか書き残しておきたい。

 

まずは、私が好きなフレーズと歌の紹介である。

ティーブジョブスの語録の一つに、“イノベーションはつながりに過ぎない”がある。

この数年で、数百回は使った。実際に私の活動も会社の活動もそういう方法で進めている。この先を考えると、楽しくて仕方がない。 

 

歌では、中島みゆきの”糸“だ。昨年の夏に映画化もされたが、人と人の出会いを謡ったものだ。

私なりの解釈で言うと、人と人は、出会うべくして出会う。しかし、それがいつかは分からない。

 

発売当初からお気に入りの歌だ。最近は毎日のように、糸のような出会いが実現できていることを実感している。これを今の私の感覚に当てはめると、ビジネスにはつきものであるが、計画的にするとか意図をもってするとかの面会が激減してきた。

 

なんとなくそう思う、予感がする。いわば直感や感覚で連絡しよう、会ってみようと思える人と今会っている。

言い方を考えれば、自分からか相手からか紹介者からかはあまり関係なく、なぜかこの人と会うことになった。こんな感じが今年は激増した。

きっと来年以降も続いていくと確信している。その感覚は、自由自在に気の赴くままに人と会う。

 

結果として、楽しく人生が過ごせて、その一部として今やっているビジネスにも寄与できれば尚良しという感覚だ。

 

あと、“つながる”はITと親和性が良い。

先ほど書いたSNSなどの情報発信、情報交換、交流などでの活動も自由度は高い。

ネットを介してつながるという意味もある。メールやオンラインツールもその部類だ。そして、何よりもこれからは情報でつながる時代が進展するのは疑う余地はない。

 

今までは、つながると言えば直接会って信頼関係を地道に積み上げてということが主流であった。もちろん、こういう部分は人間の本質として失ってはならないが、個人の人生を満足させるだけではなく、社会貢献や地球の問題や課題を解決するような活動をしようとすれば、やはり、つながることが重要になる。そういう目的意識でITは使える。

 

更に書くと、つながる、そして見える化する。それを仕組み化する。こういうことをITで実現できる時代が来た2021年だったとも言える。

 

もう一つ付け加えると、シニアが元気になる秘訣はつながることでもある。

世代間のつながり。そして、後世へのつながり。

これも記録をベースにすれば、実現出来る時代が始まった。何百年何千年のちに21世紀は“記録の世紀”と呼ばれるようになると確信しているし、そういう取り組みも来年は強化したい。

 

以上

 

グローバルな人材教育に日本が貢献できる時代

新興国で活動していると、日本の教育に関心が高いことが分かる。

一つはビジネスにおいて、学びたいことが沢山あるということである。

 

それは、日本のように戦後復興から世界でもトップクラスの経済大国に駆け上がった秘訣であったり、高品質、高サービスの実現のやり方であったり、つまりハウツウを学びたいという声である。

 

もう一つが日本のチームワーク、マナーや躾という生活態度全般にも関わる部分である。

前者は、経営者やビジネスパーソンからの日本に対する強い期待値でもあり、すでにベトナムなどの新興国では、多くの日本の企業が教育サービスを提供している。 

私の会社も随分前から、ベトナム人人材育成については、様々な活動をしてきた。このブログでも随時書いて来たことである。

 

後者については子供を持つ親御さん、特にお母さん達の声が強い。

国際的な視点で子供の教育を考える親も増える中で、日本人の立ち居振る舞いや生活態度は、日本に来たことがないお母さんでも、ネットなどで知ることが出来る。日本での在住体験があれば、なおさらその思いは高まる。

 

こちらについても、ベトナムでは、日系の保育園や幼稚園はとても人気が高いし、まだまだ、拡大して欲しいという声はよく聞く。

日本の商品やサービスのレベルの高さは世界中で知れ渡っている。

 

日本との関係性には段階があって、まずは、遠い国でも商品の評判で日本のプレゼンスが高まる。そして、世界の平均から比べたら距離的に近いベトナムなどでは、経済交流を超えて文化交流が盛んになってくる。こういう過程になると、日本の教育に学びたいという声が高くなる。  

 

逆に言うと、今までは日本の教育が何よりも先に新興国発展途上国に普及していくことはあまりなかった。

もう一度、整理する。商品の消費->文化の交流->教育への関心。大まかに書くとこういう経緯だ。

この意味で、日本の教育は、新興国発展途上国から今後ますます望まれるサポートやサービスとして期待値が高まると思う。もっとも、日本の教育のあり方ややり方は、今後も大きな変革が必要であり、必ずしも今までの結果に基づいて教育の内容がこれからの国に受け入れられるとは限らない。

 

温故知新で良いところは今まで通り、世の中や環境の変化に適応する部分は、日本もこれから切磋琢磨して新たに習得していくべき部分である。

この意味においても、日本は課題解決先進国としての役割が世界に対してある。

 

一つは、過去に公害などの様々な課題を解決してきた中で教えられること。それと、高齢化社会や地方の衰退というこれから日本が克服しないといけないテーマで未来に解決するであろうことの中からの教育の内容である。

 

実は日本がもう一つ、世界に向けて貢献できる教育がある。それは、新興国発展途上国の子供たちへの教育だ。日本であれば、義務教育として、よっぽどの事情がない限り、国民皆教育を受けることが出来る。

世界は違う。新興国発展途上国には、教育の機会すらない子供達が沢山いる。いままでも、日本の人たちは、現地に学校を作り教育機会を提供してきた社会的活動をしている人もいる。

 

東南アジアではカンボシアなどはその典型だ。学校施設を提供してきた事例は多い。しかしながら、施設は出来ても教える先生の手当はなかなかできない。また教える内容の標準化やレベルアップも容易ではない。

 

私が約6年前にアフリカのウガンダを訪問した際にも教育を受けられない子供たちのために地元の人がボランティアで教えていたのを目の当たりにした。衝撃だった。学びの場所は廃材などを使った手作りだ。

 

 

 

 

 

 

この時に実現しようと決めていたことがある。戻ってきて、早速、構想はセミナーなどで話した。しかし、当時の日本の反応は薄くまだ遠い話だった。

コロナ禍で事情は変わった。怪我の功名とまではまだ言える状況ではないが、このように恵まれない、教育を受ける機会すらない子供たちに、教育の場を提供するオンラインサービスを年明けからスタートしようと考えている。

 

以上

 

久しぶりの沖縄で見えたこれからの活動の軸

先週、3泊4日で沖縄に滞在した。

私にとっての沖縄訪問は今回を入れて数えても一桁である。だから、それほど分かっている訳ではない。

それでも、日本人の皆さんと同じように深い関心があるし、私自身も以前から必然的なつながりは感じていた。そして今回の訪問で確信に至った。この沖縄で私がすることが明確になったのである。

 

私と沖縄のかかわりを、ざっと振り返りながら書く。私が初めて沖縄に来たのが20代の時。最初の沖縄で台風直撃にあって、延泊となった苦い体験がある。その後も結構、台風に遭遇した。

勝手に台風を呼ぶ男と冗談を言っていた。

 

その後は、仕事でたまに来るぐらいだった。

3年前に、沖縄を舞台の映画を自社で創ったことで、一気に深い縁になった。その時には、一時的に支店登記もした。セミナーも開催した。 

 

 

 

 

映画は私たちが長く活動しているベトナムと日本の越日友好を応援する映画である。

ベトナムは世界的にも有名になった観光都市でもあるダナンと南の巨大な商業都市ホーチミンが舞台だ。日本は、沖縄の座間味村である。ホエールウォッチングで有名だ。座間味諸島にある村である。

 

この映画は、実話をモデルに制作した。ベトナム人の研修生が、日本でしばらく過ごして、ベトナムに帰国して起業家になる物語である。

この研修生のモデルはコアさんという名前で、20年以上前に、神戸の私たちの会社で実際に一年間IT関連の研修を体験した。

今でも、実業家として活躍していて、テーマは農業とITでベトナムの社会貢献に奔走している。

色々なご縁で、私たちの活動拠点のベトナムと沖縄が舞台になったのだが、決め手はやはり、ベトナム人に沖縄のすばらしさや価値を伝えたかったからだ。

 

スクリーンツーリズムという考え方がある。映画を観た人が、映画の舞台になった場所にいきたくなり、訪問するという行動を目的とした映画製作だ。私達の映画はそこまでの目的意識はなかったが、ベトナム人の持つ、沖縄への印象を変えたかった。

 

それは、多くのベトナム人に聞いて分かったことだが、忌まわしい戦争時代に、米軍基地があった沖縄というイメージが染みついている。一方、ベトナムから見たら、沖縄より遠い韓国の済州島には、沢山のベトナム人が随分前から観光などで訪れている。それは、やはり映画やドラマの舞台になっているからである。

こんな背景で、映画“クジラの島の忘れ物”が出来上がって、上映をした訳である。

 

並行して、ITビジネスの拠点としての活用も検討した。ベトナムとのITビジネス連携もそうである。

 

このコロナ禍もあって、私達の沖縄活動は止まっていたが、今回はブレスタ沖縄の場所のあたりをつけるために、滞在した。

ただ、実際は、ほとんどホテル内にいたので、観光したわけではなく、いわゆるワーケーションにほとんどの時間を費やした。

 

特に12月22日に行ったブレスタフェアでは、基本的にホテルの室内と敷地周辺からライブで参加した。今となっては当たり前の話だが、どこにいてもこういう類のオンラインライブは出来る。私は、以前からそうだが4G接続で行っているが、今回も支障はなかった。

 

そろそろ沖縄のブレスタの場所を何か所か決めないといけない時期でもあり、人伝につながりがある場所かをベースに、順次沖縄ブレスタを開設しようと思う。

 

今実際、ブレスタにかかわっているメンバーと盛り上がっている話がある。夏は北海道、冬は沖縄。世間でもよくある話だが、実際に12月の沖縄に来てみて、正直、北海道ほどではないにしても沖縄も実は寒い。気温は20度前後だが、流石に海では泳げない。

また、雨の日も多い。単純にリゾート気分だけで、年中沖縄が最適とはいかないようだ。

 

観光も良しビジネスも良しだか、それ以上に農と食を実践しようと思う。もちろん農業も漁業も含めての話である。

最近力を入れている農と農業に関して、沖縄を探求しようと思う。

改めて、食と農という視点から、琉球時代のからの生活や文化を学ぶ、こういう視点で沖縄を掘り下げていこうと考えている。

 

以上

 

会社が社会と思っている人が多い日本は大丈夫か

日本の奇跡的な戦後復興は、私たちは様々な機会で知ることが出来る。

戦後からすでに80年が近づいてくると、だんだんとそういう事実や語りが遠いものとなりつつある。日本はそろそろ、かつての高度経済成長の結果生み出された経済の仕組みや生活のあり方を変える時ではと思っている。

 

私は特に、ベトナムなどの新興国からと日本の地方からを基点に日本のかつての成長を見ることが多い。日本というのは、会社を軸に社会が構成され発展してきたことがよく分かる。

 

今までも、新卒が就職活動をする際に、会社選びに奔走することを憂えて書籍やブログにも書いてきた。しかし、これもそもそも今の社会と会社の現実に照らせば自然なことである。

大人たちが生活している社会が、そもそも会社という存在を基盤に成立している訳だから、そういう大人たちに少なからず影響を受ける子供たちが、社会は会社であると信じるとしても不思議ではない。

 

ひとつの事例として、私が最近、積極的に力を入れている地方活性化や農業の現場を学びながら思うことを書きたい。

農村が代表的な存在だが、田舎にある農村は高度経済成長が始まった頃から、存続のリスクが発生したと言っても過言ではない。

高度経済成長期は、工業化と都市化が典型的な変化と言えるだろう。農村とこれらは表裏一体の関係であり続けた。今でも変わらない。

 

昔は日本も農村を中心に社会が成り立ってきた。そこに明治維新から徐々に近代化が始まり、戦後復興の過程で一気にそれが加速した。農村の暮らしは、今も昔も都市部に比べて豊かではない。収入も少ない。工業化、都市化の流れで、農民は製造業で働く事を選択していく。安定的で収入も高いから自然の流れだ。

 

工業化も拡大すると、都市部の工業地帯から地方の工業団地へと拡がってく。農民の転職がどんどん進む。兼業農家がダメということではないが、週末だけ稲作というのも日本の農業の典型だ。

また後継ぎの長男以外は、働き口を求めて、都市に行く。都市では会社勤めというのが基本だ。

これが今も続いていて、会社に無縁であった農民中心の村の人たちが、どんどん会社勤めに変わっていった。

 

また、高度経済成長期は中小企業のすそ野のも拡がったが、大企業が驚くスピートで成長し巨大化した。かつて、高度経済成長期のど真ん中の時期は、それなりの大企業に入れば一生安泰。定年まで勤めて悠々自適な生活というバラ色のレールが出来た。今となっては、とっくの前にそれは崩れ去ったが。

少なくとも今ある会社の大半はそういう社会基盤としての労働力供給の仕組みと一体である。だから教育も自ずと、そういう会社に入って勤め上げることに力点が置かれている。偏差値重視の受験勉強が典型的な事例だろう。

 

これは何も日本だけでなく、高学歴社会偏重は韓国やシンガポールでも見受けられるが、日本の場合は、農業を衰退させた犠牲の中で、都市部や大企業の発展があると言っても過言ではない。

 

コロナ禍もあっても今になってようやく自然回帰が始まった。それは同時に地方の衰退ぶりに気づくと同時に、農業の脆弱さ知ることでもある。そして、さらにかかわりが深くなればなるほど、都会の生活や大企業勤めでは到底経験することのない、田舎暮らしの実態を知ることになる。

 

漁業、林業も大切だが、田舎の生活の営みの原点は農にあるのが日本という国なのである。極端な話し、大企業一筋の会社員は、自分の会社が社会だと錯覚している。昔はそれで一生何とかなった。また地球の環境破壊もこれほど深刻ではなかった。だが今は違う。一人一人が社会を知り、課題や問題を把握して、まずは大人達が行動を変えていくことが必要な時代なのである。これから就職する学生の問題ではない。

 

会社を離れて、社会を知る方法は今どきは結構沢山ある。知っておくべきテーマも多い。食料問題、空き家問題、環境問題、高齢化社会の問題・・色々とある。そういう国が今の日本なのである。

 

でも、身近なところから創めるのが一番だ。私が一番今推奨したいのは農村を知り社会を知ることである。戦後の日本の歴史から食糧問題、環境の問題。様々なことが凝縮されていると私は思う。

 

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以上

では

 

新幹線の車窓から観て感じる日本の農業

最近新幹線に乗る機会が少なくなってきた。

コロナ禍で東京出張が激減したからである。私は新幹線の車窓から見る景色が大好きだ。

 

神戸に住んでいて、東京との毎週の往復が日常だったコロナ禍以前。

その時は、海外にも頻繁に出かけていたが、日本にいる時は、平日はほぼ毎週東京にいた。

そんな訳で、毎週、神戸東京間を往復していた。

 

正確には数えたことがないが、会社を創めて以来この約30年間でおそらく1000回は軽く超えている。にもかかわらず、私は車窓から流れていく景色を見るのが好きで飽きない。と同時に最近は、スマホであれこれと写すのが楽しみだ。

 

時にはすれ違う新幹線や景色を動画に撮ることもある。先日は、快晴の富士山をライブで少し配信もしてみた。海外の人にも観てもらいたいからだ。このライブ結構評判が良い。

 

実は、私はベトナム人の友人が多い。

彼らを日本に案内した時に、新幹線に感動していたのがとても印象的だ。ベトナムと言えば、南北に縦長で日本に結構似ている。その日本の中心部を新幹線で走る。自国の将来を想像してワクワク感が高揚していたようにも思う。

 

富士山が観えるあたりを走るとき、私がタイミングをアドバイスしてバッチリ。富士山を観られたた時の彼ら彼女らの歓声もいまだに忘れられない。富士市を通過する僅かの約2分がショータイムだ。

私も毎回富士山を観るのを楽しみにしている。とんでもなく疲れていて、寝入ってしまい通りすぎ後悔したことも何度もある。

 

神戸東京の往復の新幹線の車窓からの楽しみ方は実に沢山ある。

実は、私が新幹線に頻繁に乗るようになって、発見したことがある。日本は農業国であることの再認識だ。それはもう25年ぐらい前の事だ。特に、5月6月ごろの移動の時にそれを強く感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃と言えば、田植えが行われる時期だ。新幹線の車窓から一面水田が広がる。これはある特定の地域に限った話ではない。

 

具体的に神戸からの出発で説明する。

新神戸駅は六甲山の麓にある。だからすぐにトンネルに入る。新大阪駅までは直ぐだ。京都に向かう沿線で、ちらほらと水田が見える。

本格的な水田に遭遇するのは、京都を通過して滋賀に入ったあたりだ。そこから名古屋まで、関ヶ原を越え岐阜に入る。伊吹山などを背景に水田が広がる。日本の水田ほど美しいものはない。まさに自然と人間が織りなすアートである。

名古屋を越えて浜名湖に向かう。その間も一面水田である。

こんな感じて、初夏に水田を眺めているだけでも実に楽しいし、奥行きが深い自然を堪能できる。

実際、毎週移動していると、稲の成長だけを意識していても、新幹線の旅は飽きがこない。

 

そして、秋になると収穫が始まる。背景には紅葉が近づく山々が観える。

春もまた格別な楽しみがある。日本人なら誰でもが愛でる桜である。

桜を楽しめる期間は1か月もない。それでも桜前線の移動を感じることが出来る。私は、新幹線沿線の桜の撮影スポットは全部頭にある。

 

話は元に戻るが、私が最近新幹線で一番関心があるのはやはり農業だ。ビジネスで実際に国内での農業に取り組むようになったからなおさらだ。改めて眺めてみても、実に多様な農業がある。

 

最近特に目立つのがグリーンハウスだ。きっとトマトではないかと思う。それと同時にソーラーパネルも増えた。パネルの下で育てる最近良くある農業スタイルである。静岡辺りは見事な茶畑が広がる。日本の農業の変化もあちこちで感じることが出来る。

 

新幹線の車窓から見る農業は日本の農業の中では比較的大規模で、農業の適地が多いと思う。しかし一方で、一部山間部の農地も垣間見ることもできる。実に多様なのである。

 

何度も書くが、新幹線からの景色は何度眺めても飽きることがない。そんな中、農業だけに意識を集中して、移動すると結構日本の農業を考える時間としてお勧めしたい。

 

以上