近藤昇の「仕事は自分で創れ!」

「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

“感じるメディア”の創造を目指して

“感じるメディアを目指して”

去る2月23日、私が運営する出版会社(株)カナリアコミュニケーションズが主催した第2回カナリアフェスタ。

私の挨拶のスピーチのタイトルだ。

 

“感じるメディア”は聞きなれないと思う。現在、商標申請中だ。

 

カナリアフェスタは、カナリアコミュニケーションズから出版した著者の皆様や制作の関係者、これから著書を計画している方、本に関心が強い方などが集まり、出版の価値と新たな役割の創造を目指して去年の12月から開催している。今後も定期的に開催する予定だ。

フェスタの様子は、こちらからご覧いただけます。

 

 

 

 

振り返ると早いもので、出版会社として誕生して20年近く。事業プロデュースや新興国ビジネスを手掛けるブレインワークスと共に歩んで来た。

 

カナリアの役割は、時代に警鐘を鳴らすこと。

そして、ブレインワークスと共に、起業や社会が時代の変化に適応するべく“時代を牽引する”役割も担っている。

健全なメディアとして外連味のないコンテンツ制作と表現を心がけてきた。

 

 

今、世の中は情報やコンテンツが溢れている。

パンデミックと揶揄されるように、ネットの世界と相まって、情報やコンテンツは境目もなくなり、玉石混交の様相を呈してきた。この混乱や不健全さとの同居は加速するばかりだ。

 

美味しいものを食べ過ぎると、食感や感動がマヒしてくる。こんな時、たまに、子供の頃味わっていた質素なものが欲しくなったりする。

 

これと同じように、昔以上にメディアに対する接点機会が増大している私たちは、お腹いっぱいだ。美味しいものもおいしいと感じれなくなっている。

メディアも食欲と一緒で、お腹がすいてこそ味わえるというものだ。

そして、脚色のない、ひねりばかりでない、ピュアな生情報、本当の話をスマートに表現されたもの。こんなコンテンツを欲している時代である。

 

感じるという観点で言えば、美味しいものを感じる。コンテンツや情報をすばらしいと感じる。この根っこは感性であり人間の本能かもしれない。

 

そういう意味では、生きる力は、貧しいアフリカの新興国の子供たちに強く感じるように、メディアに対しても、どん欲で、ハングリーな状態になある新興国の人の方が、感度は良いと思う。

 

私は、仕事の場で、情報感度を磨けというテーマで本をまとめつつある。

この根っこは、感じるメディアと一緒である。

 

時代は大きく変わりつつある。

メディアは、今までのようにマスメディアで一般人にとっては日常とは別の存在だったものが、個人個人が自由に表現し、コンテンツや考え、ノウハウや生きざま、生活の知恵などありとあらゆるものを発信できるようになった。

 

企業に比べて、外連味のない内容が多くなったことは歓迎だが、メディアの発信者が複雑系になった分、情報の発信源の見える化が出来なくなった。

そして、多様な意見が飛び交い、情報がつながる。例えばSNSのシェア機能一つとっても、拡散や影響のスピードが今までの時代とは違うのは明らかだ。もうすでに、一個人の能力で手に負える時期は過去のものなのだ。

 

必然的に量に対する対処や複雑系のキュレーションなどは、ITの力を借りる時期に来ている。それと言うまでもないが、AI君をどう活用するかの時代だ。

 

こういう役割分担の中で、人間はどうすればよいか?

感じる力を呼び覚ます。磨く。

それに対して、メディアは適応していく。こんな感じが健全ではないかと思う。

 

そういう意味で、シンプルに聴覚と創造力だけに、聴く側が頼る音声のみのラジオメディアというのは有力だと思う。

 

clubhouseがちまたで流行っている。

これは、雨後の筍のように生まれるSNS乱立の流れだと考えているが、行きつくところは、出版が紙の本に回帰しているように、ラジオも従来のラジオに回帰するのは間違いないと思う。

 

以上

日本は本当に大丈夫なのか?それとも覚醒の寸前なのか?

会社経営をしていると、人並み以上に日本の今が気になる。

 

毎日のように、経営者や専門家の方々と色んな場面で情報交換したり議論はするが、やっぱり総じて、日本は大丈夫か?という心配が皆さん先に立つ。私も同じだ。

 

なかなか、この心境を説明することは難しいのだが、まず、誰でも知っている話からする。

 

茹でガエルとここ20年以上、国内でも海外からも揶揄されていた日本は今どうなったのか?

 

突然訪れた想定外のコロナ禍危機に、茹でガエルはびっくりして熱湯から飛び出したはずだった。ところが、まだ、ぬるま湯につかったままの国だと思う。

 

一言で言うと、危機は感じても、自ら先頭に立って変えよう、リスクテイクして未知にチャレンジしようという機運と言うか雰囲気はあまり感じることはない。未だに日本は評論家の国である。

 

誤解がないように言うと、改革派とのギャップが相当広がっている状態だ。

少なくとも、私のお付き合いしている方々は、最大のピンチは最大のチャンスなり。としてすでに行動を始めている。もちろん、私もその部類だと思っているが、そういう私達にしても正念場はこれからだ。どれだけ勇気をもって矢面に立って、改革や変革に挑戦できるかだ。

 

なぜ、ななかなか覚醒しないのか?

その理由は、幾つも考えられるが、やはり、恵まれ過ぎているのだと思う。

 

私自身も、世界の新興国を体験しつつ、そのギャップは痛感する。

今の日本人には、本能的に生きる力、生き抜く力が欠乏している。守られながら平和に生きた時代が長すぎて、少々の危機では覚醒しない。

 

私は、コロナ禍が始まった去年の4月に、日本人らしさを顧みるチャンスである。と思いつくままにブログに書いた。


結構、反響もいただいたが、あれからすでに1年近くになってきた。慣れと言うのは怖いもので、いまだに危機感と緊張感を持ち続ている一部の人を除いて、今の状態にも慣れてきた。

健康面や生活面では適応できている部分は確かにある。

 

一方で、テクノロジーやITの世界では、ビックチャンス到来とばかり、今までの経済メカニズムの延長の話で舞い上がっている。

 

日本人らしさを見直す絶好のチャンスがどこにいったのかという雰囲気になっている。

おりしも、株価が高騰している。一説には、出遅れた日本の株を外国の投資家が買っていると聞くが、それはそれで、やっぱり、日本は大丈夫かと思う。

 

つまり、私も新興国からの目線で思うが、とにかく、今の日本はおっとりしている。

今更、世界の列国と競い合うと言う意味ではない。

日本が世界にリーダーシップを発揮して、悪しき経済メカニズムを変革する、人の教育に対して責任を持つ、豊かに自然とともに醸成してきた日本感で世界に貢献する。

できることは幾らでもある。

 

経済で世界と伍す考えは優先順位を下げたらよいと私は思う。

少なくとも、米国や中国やインドなどの大国と伍すこことはもはや不可能だ。

 

これだけの人口差はいかんともしがたい。 

それよりも、世界には日本より小さい国だらけである。こういう国に対して、例えば、日本は江戸時代の人口約4000万人に満たないぐらいのスケール感で、国の再構築をすればよいと思う。


そういう絶好のチャンスであるにも関わらず、やはり、指標としてGDPを拡大することばかりにかじを切る。どうして、それが、不可能とは言わないが、初めから負ける戦だと気づかないのだろうか?

 

恐らく人口ボーナスは日本には、あと100年は訪れることはない。

未だに、上り坂にいる感覚の企業や人が大半を占める経済の世界では、下り坂の経済メカニズムには気づかないのだと思う。

 

そういう意味でも、私が真剣に取り組んできた、会宝産業(株)の近藤典彦会長の推進される静脈産業の発展にこれからの経営人生をかけようと思う。

 

以上

 

アナログ派は中途半端なIT活用はしない方がマシ

今日は、IT活用について徒然に書いてみたい。

 

今どき、なんらかでITを仕事で使っていな人はほんどいないと思う。

 

少なくとも、現役世代であれば、最低スマホを持っていて、メールのチェックをしたり、SNSのメッセージ機能を使っていると思う。

 

今であれば、こういう利用をIT活用と呼ばず、DX(デジタルトランスフォーメーション)レベルがIT活用であると喧伝したり、踊らされている人も多い。

 

例えば、建設工事現場で、この数年、ipadなどを利用した工事の進捗管理、品質管理などが劇的に進んだ。これは、通信の発達のおかげと言っても過言ではない。

 

現場の写真をタイムリーに本部や関係者と共有するだけでも仕事の質は劇的に変わる。

日本のようなアナログ経済立国は、こういう簡単なIT活用で劇的に仕事が変わることは幾らでもある。それは概ね中小企業の現場や第一次産業の仕事であることは言うまでもないことであるが。

 

IT活用は、加速度的に一気に拡がっている。

私達が知らないところでも世界中でIT活用は進展する一方だ。

 

イメージで言えば、世界中に張り巡らされている道のようなものだ。飛行機で飛んでみると分かるが、人間が住んでいるところで道のない場所はない。舗装されているかどうかではなく、人が歩く道は必ず存在する。

 

ITの環境は、この状態に近づいていると言っても過言ではない。

5Gで象徴されているが高速通信は、高速道路と考えればよい。当然、ITの高速道路は無制限に早くなる。舗装された一般道が今ならwifiぐらいでちょうど良い。これから未舗装の世界中のITの道が、通信で舗装化されていくだろう。

 

結局、DXと言う言葉を仮に使うなら、人類の最大のメリットは世界中に張り巡らされていくだろう通信のインフラである。

世界の道の完全舗装化は地球の傷み具合を考えると永遠にあり得ないだろう。残念ながら、今の経済メカニズムの建設は、地球を痛めることにしかならない。

 

一方、通信の方は、ますますテクノロジーが発達すれば、世界のかなりの部分がつながるようになると思う。もちろん、国力や経済力により、通信の早い遅いはあると思うが。

 

私は、世界の人がコミュニケーションでつながることが出来、様々な現場の情報が見える化されれば、世界は劇的に変わると確信している。

合わせて、記録される社会が、健全な人間の行いを促進する。

 

コミュニケーションと見える化が、ここ10年のIT活用の最大のメリットだと思う。

便利や快適さの追求は、人間の欲が源泉なので、これはきりがない。だからこそ、シンプルにIT活用を健全なところに第一優先で活用するべきなのである。

 

私は、20年以上前に発刊した拙著“だから中小企業のIT化は失敗する”で、仕事ができない人はITを使わないほうが良い。先に仕事のスキルアップをしてからでないと余計仕事の生産性や効率が下がると書いた。

 

一方で、仕事がもともとできた人は、IT活用することによってその当人の影響できる仕事の範囲は劇的に広がると書いた。

 

あれから、テクノロジーは確かに進化した。通信回線も早くなった。便利な携帯端末もより取り見取り。パソコンも相変わらず高機能化、高性能化が続いている。

まあ、人間のしていることは、何事においてもこんなものだから、今更これをどうのこうのいう気はないが、日々、ITに翻弄されている人、IT環境で疲れ果てている人、IT環境で仕事ができない人が増殖されているのは疑う余地がない。

 

中途半端に進化途上のITを使って、疲れ果てるのであれば、あと数年、コミュニケーションと見える化に関する以外のIT活用からは、距離を置いて、人間自身の考え方や仕事力を再構築してからでも遅くはない。

 

何度も言うが、便利だから使うだけではNGだ。その使い方は本当に健全か?

人に迷惑をかけていないか?

良くない商売に加担していないか?

仮にITをへたに使わなくても、こういうIT活用リテラシーはアナログの世界で十二分に身に付けることが出来る。

 

結局は、アナログの世界で仕事ができた人、アナログの世界で活躍してきた企業が、IT社会に適応できるのである。

 

以上

 

習い事は何をするにしても第一歩はハードルが高い

箏を習い始めて、そろそろ4週間になる。

 

早朝に毎日、10分前後の練習をしている。

なかなか、上達しない。基本的に一人で練習はしているので、独学に近い。テキストを見たりネットで調べたりしながら進めている。

最初に比べると多少は、引き方の初歩の初歩は身についたように思う。

練習の曲は、さくらと荒城の月である。

 

箏と琴は違う事も最近知った。

私が習っているのは箏。

このあたりは、もっと、深く学んでからどこかでお伝えできたらと思う。

少なくとも今言えることは、箏一つからでも日本の昔の文化や歴史に明るくなりそうである。

 

箏を習い始めたというと、ほぼ皆さん驚かれる。

私の今までの印象や言動からしたら、想定外なのだと思う。

 

きっかけは、高谷秀司さんと数年前に出合ったことだ。高谷さんはギタリストであり和琴の奏者としても有名だ。

 

私のような存在が、師匠と呼ぶにはおこがましいが、基本の作法や考えやポイントを教えていただいている。

 

 

ご縁があり、ベトナムにもお越しいただき、2回も講演をしていただいた。

日本びいきのベトナム人にはたまらない感動のひと時だった。

 

2017年にベトナム中部のダナン、ベトナム南部カントーでのパフォーマンスは、私たち日本人にとっても、とても新鮮であった。

 

少し背景を説明する。

ブレインワークスはベトナムでビジネス活動をして20年を越えている。その中の事業の一つで、ベトナムと日本の橋渡しのブリッジサービスを行ってきた。

 

特に、越日文化経済交流に関しても力を入れていて、この6年間でダナンで3回、カントーで5回開催した。

カントーは日本側のプロデュースは当社がカウンターパートとして、全部引き受けている。過去2回は、チャーター機も自ら手配して、日本人経営者をお連れした。

カントーでの様子は、この動画をご覧いただけたらと思う。

 

 

このカンターフェスティバルのステージで箏を演奏して、関係者や聴衆を驚かせよう

というのが、私と高谷さんの魂胆だった。

ところが、言うは易し行うは難し・・としよく言ったものだ。

 

宣言してからすでに4年になろうとしていた。

年末に高谷さんと久しぶりに食事した。

コロナ禍のお互いの体験もあり、色々話しこんで、やっぱり、箏やるのは今しかない。

こんな経緯であった。

 

 

私は楽器の演奏については、おそらく、幼稚園レベルだと思う。

スポーツと比べたら分かりやすいが、スポーツは色々とこなしてきたし、ある程度の基礎体力などはある。プロレベルではないが、土台があるから新しいスポーツを始めると何とかなることが多い。

 

ところが、私にとっての楽器と言うのは、小学校の時に吹いていた笛ぐらいだ。基礎が全くできていない。楽譜はもちろん読めない。

仮に目の前にピアノがあれば、かろうじてドレミファソラシド・・・は鳴らすことはできる。

 

実は、今までの人生で楽器をマスターしようと思ったことは何度もある。

ギターができたらかっこいいし、ちよっとしたイベトントでパフォーマンスできるし。こんなよこしまな気持ちもありながら、ついぞ、実現しなかった。

 

20代の頃、指がピアノに向いていると言われて、ちよっとその気になった時期もある。

最近は、ドラムにも興味が湧いていた。

こんな程度だから、箏を習うのはとてもハードルが高い。

 

ところが、不思議なもので、この3週間毎日少しずつ練習していると、手と言うか指と言うか、体が覚えてくることが分かる。

 

感覚的には、例えば、365日、毎日少しでも練習をつ続けていれば、1曲ぐらいスマートに演奏できるような気はする。

 

ただ、一方で、Amazonで買った箏の本を読んでいると、複雑さに驚く。

予想通り、奥が深い。

 

今、公私ともに色々な表現を試している。

Bナビオン(ブレインナビオン)では、表現者のオンラインのプラットフォームとして日々、発展している。ここで、オンライン音楽会もありだなと。最近は思うようになった。

 

音楽はぜひ、レパートリーにいれたいところで、何とか続けていこうと思っている。

 

 

 

以上

プロスポーツの世界にもITが益々浸透する時代

テニスの全豪オープンで、大坂なおみ選手が優勝した。

23歳にして、これでメジャー大会4回目の優勝である。日本人の優勝は、日本にとってもとても嬉しい結果だ。

 

私はもともと、スポーツをするのも観るのも大好きだ。実際、大学生の時にミーハー的発想で、体育の授業ではテニスを選択した。だからテニスの面白みは多少分かる。結構好きなスポーツの一つだ。

 

それが高じて、約10年前に、ベトナムと日本の親善交流テニス大会を開催した。日越対抗戦にしたのだが、完全なミスマッチ。完敗した。ベトナムではテニスがメジャーなスポーツで、上手な人だらけなのである。屈辱の完敗以来、良い意味でリベンジを考えているが、メンバーがそろわず、まだ、開催できていない。



私はあれ以来テニスはしていないが、テニスが愛着があるだけに、大坂なおみ選手の優勝には、余計に嬉しさが倍増する。

 

その一方で、錦織選手は故障上がりもあって、最近は、パッとしない。数年前の全米オープン決勝の再現をファンとして応援している。

勝手なものでひいきの選手が早々と敗退すると、関心が薄れる。

 

そんな中、面白い記事を日経新聞のスポーツ欄で見かけた。

 

見出しにはこうある。

“自動線審 in か outか”

 

この見出しだけで、記事の内容が想像できる人は、ITリテラシーが備わっていると言えるかもしれない。もっとも、それは知識と言う部分ではあるが。

 

内容は、想像通りだが、一番影響が受ける選手の視点で記事は書かれている。

動線審で満足か不満か?

信頼できるか?不安が募るか?

私が勝手にまとめるとこんな感じだ。

 

今、プロスポーツの世界では、IT活用は当たり前になりつつある。

野球でもサッカーでも。最近は自己申告のスポーツのゴルフまでが、映像を活用するかどうかの議論もあるようだ。

 

こういうスポーツの世界でのIT活用は、大きく3つあると思う。

一つが、こういう本番での微妙な判定にITを使う。これは、概ね“人間の目”の代わりだ。

 

もう一つは、実際のプレイの内容の記録とデータ化による分析だ。この分野では、私が好きなメジャーリーグがダントツで進んでいる。日本のプロ野球に比べると圧倒的差だ。

 

投手のスピードや球の回転数はいうまでもなく、打球の回転数、速度などまで計測して記録している。理由は分からなくはないが、ここまで精密に分析データを取られると、生身の人間感覚が薄れるのではないか?余計な心配もしたくなる。

 

最後にもう一つ上げておくと、練習などに様々なITを駆使して、練習の効率化したり、栄養管理したりトレーニングの見える化をしたりの準備の部分があると思う。

 

さて、今日の本題に戻すが、結局、自動線審の問題は、次の2つの問題提起につながっていく。

 

一つは、そもそも、完全な審判を選手や観客が期待しているのか?という事に尽きる。

 

人間は曖昧である。完全な人間などいない。当然、プロスポーツの世界でも人間は不完全である。メンタル面でも揺れる。ケアレスミスもあるかもしれない。ヒューマンエラーの世界だってある。

 

そう考えると、第三者的に判断する審判にも少々のミスもある。人間だから。こういう組み合わせがまた、勝負のあやの妙ではないのか。もっと言えば人生そのものではないのか?ということだ。

 

これはスポーツの世界に限らず、ITやAI君を生み出してしまった人間に永遠につきまとう問いかけでもある。と私は思っている。

 

それと、もう一つの問題提起は、本当に自動審判は正しいのか?ということである。

 

一つめと重ねると、とても問題は複雑になる。

仮に機械にも間違いがあるとしたら、それを検証したくなる気持ちも芽生える。ある意味、テクノロジーが進化すればするほど、見えない世界のいたちごっこが助長される。疲れるだけである。

 

それと、こういうことを想定すると、結局は機械の間違いより人間の間違いが許容できる。というよりも、それが自然だ。

 

お互いに間違えることがあるよね。

行き着く先は、プロスポーツのこういう世界も人間同士の信頼関係で成り立っていいたことに気づき、人間力回帰が始まるように思う。

 

以上

 

なぜ、人が似て来ると変化に弱くなるのか

似た者同士という言葉がある。

類は友を呼ぶという言い方もある。

 

友だち、同僚、チーム、組織、夫婦などなど。

人は、自分と似た人と積極的に様々な関係性とつながりをつくる。

 

人間は社会的動物であり、一般的な動物と違って、人とつながることによって、長い長い歴史の中で存続してきた。だから、似た者同士が集まるのは至極自然な事である。

 

私も、プライベートでは特に、友だちや馬の合う人との付き合いが一番落ち着く。

一方では会社経営のような仕事していると、あまり心が穏やかになる日はない。

 

私の場合は、BtoBをベースにした仕事柄、経営者とのおつきあいは多いほうだと思う。

もちろん、馬が合う経営者とはお付き合いが楽だが、仕事では必ずしも皆がそうではない。

 

これは、町内会でもPTAでも多分に似たようなものだと思う。こういう世界では、村社会の心地よさとわずらわしさの同居が典型的だと思う。

 

会社経営と言う世界で、似た者同士というテーマを考えだすと、結構ジレンマに陥る。

変化が加速する時代、似た者同士だけでは変化に適応できない危機感が募る。

 

これは政治の世界や大企業でも同じだと思うが、似た者同士には、良い面と悪い面の両方が存在する。

会社も大企業から中小企業、そして生まれたばかりの新興企業など様々な形態がある。

それはある意味では、本来は多様な世界だ。

 

 企業は価値観や行動理念でひとつにまとまろうとする。

特に創業者が現役の会社は、組織DNAを醸成し創業者の考えをベースに強い組織を目指す。

 

リクルート社は典型だろう。

すでに創業者は役割を終えているが、このDNAがしみ込んだ企業としてよく話題になる。私も実際にリクルート出身者とよく接点がある。

それだけ、今のビジネス界で活躍していることなのだと思う。

 

この面だけで見ても、私が目標に掲げて、目指したい素晴らしい会社である。

そして、今でも革新的な成長を続けている。

ただ、こんなリクルート社でも私から見たら、似たような人が集まっていると感じる。

レベルの高い集団だから、この似た者同士が良い方向に作用しているのだと思う。

 

一方、私の会社ぐらいの小さな組織になると、似た者同士の弊害が目につくようになる。

ある意味、私はその弊害にいかに抗うかが最大の役割の一つである。

似た者同士を如何に、創造的に破壊するか。

 

私の会社は、平均的な中小企業よりは動きが俊敏だし、新規事業は多いし、新陳代謝があるし、刺激は多いはずだ。

ベトナム人ルワンダ人との仕事もある。

 

にも関わらず、長いこと同じメンバーで仕事すると似た者同士の弊害が次々と生まれてくるのである。

毎日のように、こういうことを思い考えていると、結局、人間とは一体何なのか?

という疑問が強くなる。

 

よくなれ合い組織を仲良しクラブと揶揄する。

これは、気心知れたメンバーというのは、外部から見ると、チームワークは一見良好に見えるが、実際に、本番の時に勝負弱くなる。

チームや組織から相互牽制や競争心が無くなると、平時はまだしも、いざという時に力が発揮できない。

 

少し意味合いは違うが、情けは人の為ならず。

という言い回しも勘違いしている人も意外と多い。

これは、人に情けをかけたらその人のためにならない。という意味ではない。

 

人に情けをかけると巡り巡って自分に戻ってくると言う、ちょっと打算的な思考も含まれている。人間は結局、本能的には自分の事を先に考える。

私は、こういうのが自然体で、人間らしいと良いと思っている。

 

やはり、組織やチームが切磋琢磨して成長するには、自分がどうかが一番重要である。

人のためだけど、自分のため。自分のためだけど、人のために。

One for All All for Oneとも通じることだと思う。

 

似た者同士の弊害を感じたら、本来は、メンバーの組み換えが最適な解なのではと、最近は思っている。

しかし、中小はなかなか、これができない。もっとも、大企業でも先ほどのリクルートの事例のように、どこの部署に代わっても似たようなものだと思う。結局、大小限らず会社や組織は似た者同士になる宿命なのだと思う。

 

私は、創業時から対外試合をできる社員になるように教えてきた。

自分と馬が合わない人とも短時間でもよいから付き合ってみる。誰彼構わず、ガチンコで関わってみる。そういう足腰を鍛える経験を常時積むことが大事だ。

あっさりと諦めるとどうなるか?

似た者同士の世界に逃げ込んでしまう。

 

何をするかより誰とするかも私の口癖である。

こういう場合の似た者同士はとても意味があると思う。

上っ面の付き合いではない。

何のために生きるか?

人間の存在とは何か?

今の経済メカニズムに間違いはないのか?

この地球の未来にどう責任を持つのか?

新興国の健全な発展は?

 

最近は、こんなテーマで似た者同士がどんどん、つながっている。

ある意味、一刻者ばかりである。めんどくさくもあり快い状態である。

 

以上

 

ボトルネックを解決する方法は意外と簡単

ある程度働いている人で、ボトルネックを知らない人はいないと思う。

 

 

私も長年仕事しているが、ボトルネックという問題と言うか現象と言うか。

人間の性だと思うが、毎日のように何らかでこのボトルネックと闘っている。

 

仮にボトルネックという言葉を知らなくても、以降のように説明すると殆どの人が経験があるし、今、経験中かもしれない。

 

ちなみに、ウィキペディアによると、こういう風に解説がある。

 

実は、私も今回初めて調べてみた。

そのまま引用する。

 

システム設計上の制約の概念。英語の「瓶の首」の意。一部(主に化学分野)においては律速(りっそく、(「速さ」を「律する(制御する)」要素を示すために使われる)、また、隘路(あいろ)という同意語も存在する。

 

80-20の法則などが示すように、物事がスムーズに進行しない場合、遅延の原因は全体から見れば小さな部分が要因となっており、他所をいくら向上させても状況改善が認められない場合が多い。このような要因部分を、ボトルネックという。

 

瓶のサイズがどれほど大きくても、中身の流出量・速度(スループット)は、狭まった首のみに制約を受けることからの連想である。

 

実際、私も経営者になって、何度仕事の会話で使ったことか。

ただ、それは、不思議とほとんどが社内の会話である。

 

考えてみたら、お客様や他のステークホルダーなどとは、こういう話をしない。

話していたら、不自然である。

 

例えば、私が、銀行の人に、

 

“私がボトルネックになっていまして、事業が停滞しているんです。”

 

あるいは、

 

“新規事業が沢山あるのですが、私がボトルネックで着手できないのです。”

 

こんな風に仮に話したら、一発で経営者失格だ。

この話を詳細に書くと長くなるが、シンプルに説明を追加すると。

経営者、特に経営トップの役割は、そういう課題があるのなら、自分の代わりをスカウトしてでも、外部委託してでも進めるのが常識である。ボトルネックは経営者クラスが使う言葉ではない。

と一蹴されるだろう。

 

当然、私もそう思っているので、創業以来、自分自身の事で、身内以外に、ボトルネックになっていまして・・という話などしたことがない。

 

もちろん、20代の会社員の頃は、ボトルネックになる事は多々あったと思うが、それは上司や周囲は感じていたかもしれないが、その頃はあまり自覚がなかった。

 

ところが、社員を雇用し、組織的活動に責任を持つようになると、当然、トップの立場から全体の陣容を把握して、役割分担と責任の明確化と共に、日々の業務が適正に円滑に履行されているか?

に目配せが必要だ。

 

そして、それが公平・公正な人事評価制度に則って、一人一人社員の評価がタイムリーになされていて、そして順調に経営活動が前進する・・

まあ、簡単に理想的に書けばこうだが、実際はこういうのはただの絵に描いた餅になりがちだ。

 

組織の最適化、効率化のみを考えて会社経営はできない。ある意味、無駄や冗長も看過できないと会社経営は成り立たない。そういうアロウアンスは見込んでいたいところだ。

 

こんなことを毎日30年近くやってきても、いまだに、ボトルネックになっている部下に対して、解決策を提示したり、あるいはボトルネックそのものを解決する仕事したりが私の役割でもある。

 

色々と書いたが、私の解決策はシンプルに書くと2つである。

 

ボトルネックになっている人がボトルネックからはずれる。外すが的確な表現かもしれない。

これは、私から見たら簡単だ。

別の人に代えるか、その役割をなくしてしまう事だ。私は人員配置や仕事の割り当ての最終責任者なので当たり前の事ではあるが。

 

ただ、これは一過性に過ぎない。

対症療法である。組織の根治治療にはならない。

 

本質的には、社員一人一人のボトルネックのボトルの口を大きくすることが重要だ。

根治治療の中長期的なスキルアップの話だ。

これが出来た人のみが、人に仕事を依頼できるし、生産性の高い仕事ができるのである。

仕事ができる人の必要条件である。と言っても過言ではない。


あの有名な7つの習慣のレゲーションのスキルの話でもある。

 

詳細は、深くなるのでまた別の機会に書こうと思う。

 

以上